日常

岸見一郎,古賀史健「幸せになる勇気」

2016-06-28 08:09:16 | 
岸見一郎,古賀史健「幸せになる勇気 ―自己啓発の源流「アドラー」の教えII 」ダイヤモンド社 (2016/2/26)を読みました。
発売直後に読みましたが、3回目を読んでみて、何か突然レビューが書きたくなったのです。


この本は、アドラー心理学の入門書「嫌われる勇気」の続編。
「嫌われる勇気」はAmazonでも1300近いレビューが寄せられているすごい本です。



今回もとても面白かった!
自分もアドラーとユングは大好きで、よく色んな所で引用させてもらっていますが、これだけ本質をかいつまんで紹介している良書はなかなか出会えません。


つい先日、プラトンの『饗宴』を読み大感動したところですが(本当におもしろかった)、饗宴で語られているテーマと、この本のテーマは通底しています。実際、岸見一郎先生はギリシア哲学を極めて専門的に研究され、ギリシア哲学を基礎にアドラーの専門家となった方だと思います。ギリシア哲学の歴史的伝統も重なっていることが、岸見先生の発言に厚みを持たせていると思うのです。



ソクラテスは、対話により哲学の本質に近づいていくことを求めました。
岸見一郎先生と古賀さんのコンビも、「対話」という哲学の根本的な態度を使って、アドラーの真髄を本当によく紹介していると思います。
→●岸見一郎,古賀史健「嫌われる勇気」(2014-04-08)
(以前、こちらの本の感想も書いています。)


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<Amazon 「BOOK」データベースより)>
人は幸せになるために生きているのに、なぜ「幸福な人間」は少ないのか?
アドラー心理学の新しい古典『嫌われる勇気』の続編である本書のテーマは、ほんとうの「自立」とほんとうの「愛」。
そして、どうすれば人は幸せになれるか。
あなたの生き方を変える劇薬の哲学問答が、ふたたび幕を開ける!!
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<目次>
第一部 悪いあの人、かわいそうなわたし
第二部 なぜ「賞罰」を否定するのか
第三部 競争原理から協力原理へ
第四部 与えよ、さらば与えられん
第五部 愛する人生を選べ
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目次はこのようなものです。
第一部で「わたし」の問題を論じ、
第二部ではアドラーの真髄とも言える「賞罰(褒める、罰する)」が持つ弊害のことを丁寧に解説。
第三部では、未来の社会(social interest)を展望する時の原理(協力原理)のことを語る。
第四部では、「わたし」とこの世界との関係性を、「わたし」の生き方(ライフスタイルの選択)から論じて、
第五部では、「愛」の核心に迫っています。



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第一部 悪いあの人、かわいそうなわたし
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宗教と科学の違いとは。
最大の相違点は「物語」の有無ではないかと、本書では書かれます。

「宗教」は「物語」で世界を説明しようとするのに対し、
「哲学」は主人公のいない「抽象概念」で世界を説明しようとする。


「宗教」は、その「物語性」ゆえに、そこに入っていけない人ははじかれます。
宗教に入り込むには、理性を飛び越えて途中で飛び込まないといけないので、そこが宗教の欠点にもなると指摘しています。
それに対して、哲学は歩き続け、考え続けることを求めます。極めて理性的であろうとし続けること。


宗教の持つ一長一短(考え過ぎると分からない)、哲学の持つ一長一短(考えたくない人には縁が遠くなる)は存在すると思いますが、できる限り理性的であろうとする態度は、極めて重要なことだと自分も思います。それこそ、科学の生まれた必然でもあると思うからです。本来の科学とは、できる限り理性的であろうとする共同体の態度から生まれたはずだからです。



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カント
「われわれは哲学を学ぶことはできない。哲学することを学べるだけである。」
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本書では、哲学を学問という狭い位置付けに限定せず、「生きる態度」として自分のライフスタイルに取り込んでいく広い態度を提案していて、その開かれた態度がとても気持ちいいのです。




哲学も含め、あらゆる教育の目標は「自立」である。
他者からの評価や、他者からの承認に一喜一憂したり振り回されるのではなく、自らの信じる最良の道を選ぶ、ということです。

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アドラー
「あなたは他者の期待を満たすために生きているのではない。
他者もまた、あなたの期待を満たすために生きているのではない。」
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そういう意味で、教育とは介入ではなく、自立に向けた援助のこと。
カウンセリングという場も、そういう意味での教育の場になるのでしょう。


自分も、医療の場が『心や体を学ぶ場』という教育の場として機能すればいいなと思うのです。

体や心にトラブルが起きている当事者は自己教育の場として。
相手に接する医療者は、他の人の病気を通して、心や体の本質を学ぶ教育の場として。
予防医療は、教育の問題に帰着されるのですから。




アドラー心理学の目標が簡潔に記されていました。

行動面では二つ。
 1:自立する事
 2:社会と調和して暮らせること
心理面でも二つ。
 1:わたしには能力がある、という意識
 2:人々はわたしの仲間である、という意識



アドラーの表現は常に分かりやすい。
専門用語を極力使わないように細心の注意が払われていて、そこに哲学や心理学を開かれたものにしていこうという優しさや愛を感じます。




尊敬とは「ありのままにその人を見る」こと。
教育の場でも、子どもに対して尊敬の念を持つことが大事です。


相手を下だと見るのではなく(それが褒める行為の悪い側面だとアドラーは指摘します。褒める行為は、すでに上下関係が内在してしまう)、ここで言われる『尊敬』は、目の前の他者を変えようとも操作しようともないものであり、アドラーで言われる「勇気づけ」の原点にもなるもの。




アドラーは、未来の社会が「縦の社会」(支配)から「横の社会」(共鳴)に変わっていくとと説きました。

その時に大事なのは、
「他者の関心事」に関心を寄せる。

ということです。

共同体感覚と訳されるものは、英語では「Social Interest」と書きますが、
まさに「Social」(社会)へ「Interest」(関心)を寄せ合う社会のことを指します。

自己への執着から離れ、他者に関心を寄せること。
ここに、第5部でも述べられる「愛」の本質が隠れているようです。


自己の執着から離れる、ということは
「自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分の心で感じること」
という通常の状態から、
「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」

という状態へ切り替えることを指します。


その時に、
「自分がもしも「同じ種類の心と人生」を持っていたら?」
と考える習慣を作る。

そうすれば、自分もきっと同じ課題に直面するだろう。と理解し、共感できるはずです。
相手の問題が自分と無関係のものではなく、自分にも起こりうるものなのだとして、極めて切実に共感的に考えることができるようになります。


単に「同じ気持ち」だ、と思うのは「同調」ですが、
「共感」とは他者に寄りそう時の技術であり態度のこと。

「技術」とあえて書く意味は、誰でも謙虚に学べば身に着けることができる、という思いが込められています。特殊で個別的な手法ではなく、技術として学び、習得できるものとして。




あなたの「いま」が過去を決めている。
とアドラーは言います。

時間は戻れませんが、その人にとっての過去は「いま」どういう意味付けをするかによって、光にも闇にも、宝物にもコンプレックスにもなりうるものです。


人間は誰もが「わたし」という物語の編集者。
その過去はいまのわたしの正当性を証明しようとして、一瞬一瞬書き換えられています。

だからこそ、いまの自分の正当化に終始して日々を過ごすのではなく、
いまの自分が何をすべきなのか?と。
「目的」や「未来」へと視点を転換して生きていくことを提案しているのだと思います。


過去にこだわっている人の悩みを聞いていると、
・「悪いあの人」
・「かわいそうなわたし」

究極的にはこの二つの話をエンドレスにリピートしていることに気付きます。


だからこそ、未来の方へ意識を向け、対話の中で「これからどうするのか」を明らかにしていくことを提案しています。



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第二部 なぜ「賞罰」を否定するのか
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第二部では、こどもの問題行動を見るときに、
その「目的」はどこにあるのか、
という視点で見ることを提案しています。

その中で、問題行動も少しずつ元に戻れないものになっていくことがあるらしく、そのことを段階的に挙げています。


●問題行動の第1段階:「称賛の欲求」
→「共同体の中で特権的な地位を得る」ため、褒められるために、行動している状態。

●問題行動の第2段階:「注目喚起」
→とにかく目立ちたい、行動。
居場所が欲しい、ことの表れでもあるようです。

●問題行動の第3段階
→「権力争い」へと突入。
自らの「力」を証明するのが隠れた目的になります。

●問題行動の第4段階:「復讐」
→「わたし」を認めてくれず、愛してくれなかった人に、愛の復讐をする段階です。
愛と憎しみは表裏一体と言うように、自分の欲求が実現しないと、一転して憎しみを求め、「憎まれている」という一点でつながろうとする。とにかく相手が嫌がることを繰り返すようです。自らの価値を傷付けることで、こんな自分になったのはお前のせいだ、と訴えるのです。
この段階になると、第3者に助けを求めるのが無難だ、とのことも書いてあります。

●問題行動の第5段階:「無能の証明」
→人生に絶望すると、<自分は無能である>と決め、あらゆる問題行動を起こして注目を受ける行動にうつるようです。
本書でも、「無能の証明」を始めた段階にまでいった子供を援助するのは極めて困難であるとのことが書いてあり、この1-4段階の早期発見が必要なのでしょう。。


問題行動の進展としては、
・まずは称賛を求め、注目されようとする。
・それが満たされないと、権力争いを挑む。
・その愛の行為が認められないと受け取ると、一転して悪質な復讐へと転じる。
・それでも効果がない場合は、己の無能さを誇示するように問題行動が目的化する、
ということです。

このことは、日常や報道を見ていても心当たりがあります。
アドラーの見立てにはうなりました。



いづれにせよ。
アドラーの考え方は、常に前向きで未来的です。

なぜなら、常に相手の表面に振り回されず隠れた目的に注目して、
「これからどうするか」
を共に考えることに目標があるから。


その時に重要なことは、
「幸福」の本質は「貢献感」にあるので、貢献の中に幸せを見出すのが大事なのです。




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第三部 競争原理から協力原理へ
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アドラー
「ほめることは、能力のある人が能力のない人に下す評価であり、その目的は操作である。」
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アドラーの「ほめる」ことへの評価は厳しいです。

独裁制が政治の中で存在してしまうのは、そこに苛烈な賞罰(ほめる、罰する)があるからだとアドラーは言います。

競争原理を生む賞罰(ほめる、罰する)ではなく、協力原理に基づいて運営される共同体を提案しているのです。
今の資本主義がまさに同じ病に陥っているでしょう。





人間は自然界の中で「弱さ」ゆえに共同体をつくり、協力関係の中に生きていた存在です。
だからこそ、根源的に他者との強固なつながりを求め続けているのです。


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アドラー
「共同体感覚は、つねに身体の弱さを反映したものであり、それとは切り離すことができない。」
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「わたし」の価値を他者に決めてもらうことは依存になります。
「わたし」の価値を自らが決定することが自立です。
個性は相対的なものではなく絶対的なもの

こうした「わたし」に潜む本質的なテーマは、このブログでも何度も書いているような気がします。

比べることはできない(2016-01-27)
あなた自身のコトバで(2016-01-17)



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第四部 与えよ、さらば与えられん
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第四部では、「わたし」とこの世界との関係性を、「わたし」の生き方(ライフスタイルの選択)から論じています。


人生のタスクとして、
1:仕事の関係
2:交友の関係
3:愛の関係
この3つに人生の本質があると書かれています。


交友の関係により、
「他者の目で見て他者の耳で聞き、他者の心で感じる」
ことを学ぶのです。


子どもが最初に交友を学び、共同体感覚を掘り起こしていく場所は学校になりますが、
「信用」は、条件付きで信じること。
「信頼」は、条件なしで信じること。


交友において重要なのは、大前提として「自己信頼」あっての「他者信頼」である、ということです。
まず、自分を条件なしで信じることが大切で(「自己信頼」)、それがなければ「他者信頼」は実現しないと。



人間はただ群れるのではなく、「分業」という画期的な働き方を発明しました。
「分業」は、間の身体的劣等性を補償するために獲得した、極めてすぐれた生存戦略なのです。
得意で好きな仕事を自分の仕事として分業し、その上でお互いが協力していく。
嫌いでいやいやする仕事を、足を引っ張り合い行う仕事は、分業でも何でもないのです。

すべての仕事は、共同体の誰かがやらねばならないことで、それを分担しているだけなのです。


人間はひとりでは生きていけません。
他者と分業するためには、前提として、他者を信頼しなければいけないのです。


このことは、人体のメタファーからも学べます。
それぞれの臓器はそれぞれの得意とする作業を受け持ち、その上でひとつの生命体として協力して人の体を生かしているわけですから。




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アドラー
「人の価値は、
共同体において割り当てられる分業の役割を、
どのように果たすかによって決められる。」
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と言います。

人間や仕事の価値は、
どんな仕事に従事するかではなく、
仕事にどのような態度で取り組むか、
で決まっているのでしょう。

ですから、優劣は<仕事に取り組む態度>にこそ、あるのです。



<教育の目標は自立であり、自立に向けた援助である>
という基本原則に戻ると、子どもたちの自立の援助をするためには、
まず子どもを尊敬することからはじめないといけません。

他者を信頼できるかどうかは、
他者を尊敬できるか
にかかっています。

どんな相手でも尊敬を寄せ、信じることはできます。
信頼とは、能動的な働きかけです。
相手がどういう態度かは問題ではなく、先に相手を信じることが必要なのです。




人生は何でもない日々が試練。
いま、この日常にこそ、大きな決断を求められていることが多い。


何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか。
世界から争いを無くすには、まず自分自身が争いから解放されなくてはいけません。

生まれてから死ぬまで、人生を共にしている自分の<体>をどういうメタファーで捉えるのかが、大事なことでしょう。

からだを<戦いや争いの場>と捉えるのではなく、<調和の場>として捉えてみる。
それは、視点を<わたし>から、<いのち>に移すこと。
それは、人生の主語を<わたし>から、<いのち>に移すこと。
まず自分自身が争いから解放されるために。



そして、他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく、「あなたがはじめるべきだ。」とアドラーは肩を押します。

心を豊かに保ち、その蓄えを他者に与える。
アドラーを理解するには「愛」に踏み出すことで得られるのです。



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第五部 愛する人生を選べ
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最後の第五部では、「愛」の核心に迫っていきます。


「愛される技術」ではなく「愛する技術」こそが重要で、愛とは「ふたりで成し遂げる課題」。
ただ、我々は一般的に愛を成し遂げるための「技術」を学ぶ場がないのです。


利己的にわたしの幸せを求めるのではなく、
利他的にあなたの幸せを願うものでもなく、
「わたしたち」の幸せを築き上げることが、愛である。


「わたし」や「あなた」よりも上位なものとして「わたしたち」を掲げてみる。

そうすると、「人生の主語」が変わります。
人生の主語が「わたし」から「わたしたち」に変わり、まったく新しい指針の元で人生が始まるのです。


なるほど「結婚」とはまさにこういうことなのだなと思いました。

独身の時は「わたしの人生」だったものが、
結婚により「わたしたちの人生」へと変わること。
まさに、自分の人生そのものの<主語>を根底から覆さないと、結婚生活というのはうまくいかないのでしょう。



自立とは、「わたし」からの脱却であり、愛は「わたし」からの解放のこと。

自立とは、「自己中心性からの脱却」だからこそ、アドラーはsocial interest(共同体感覚)、社会や他者の関心を大切にして、「わたし」を主語にして生きる人生から「わたしたち」を主語にして生きる人生を提案したのでしょう。



愛は「わたし」だった人生の主語を「わたしたち」に変えます。
愛により「わたし」から解放され、自立を果たし、本当の意味で世界を受け入れることができる。

他者を愛することとで、本当の意味で大人になります。

愛は自立であり、大人になる事です。依存ではありません。無条件の信頼が基礎に必要です。
だからこそ、愛は困難であり、人生をかけて取り組む課題(タスク)であると、アドラーは言います。



「愛するということ」紀伊國屋書店(1991)の著作を書いたエーリッヒ・フロム(Erich Fromm)はこう言いました。
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フロム
「誰かを愛するということは単なる激しい感情ではない。
それは決意であり、決断であり、約束である。」
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フロム
「愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかにしか愛することができない。」
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アドラーは、「信念」を「勇気」という言葉で表現しています。



他者を愛することで自己中心性から解放される。
他者を愛することで、自立をなしえ、共同体感覚にたどりつく。
そして、たての社会からよこの社会へと変わっていくのでしょう。

「愛」とは、個人の人生で生涯をかけて取り組むべき課題であり、それは同時に社会の創造にもつながっているようなのです。





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この本は、あらためて「愛」や「結婚」ということを考え直すいいきっかけであり、様々なInspirationを受けました。


「わたしがいのちを所有している」(I have LIFE)
とすると、いのちをどうとでも利用できるように感じられてしまいます。

そのことを、
「いのちがわたしをを所有している」(LIFE has me)
として主語を変えてみると、わたしといのちとの関係性がまるで変わります。


「愛」とは、こうして「わたし」中心の視点や、「わたし」を主語にした人生から脱却するために重要なきっかけになるなのだと、深く心に刻み込まれました。

アドラーは本質を直球でついてきます。
何か不思議な読後感が残る、素晴らしい本でした。
食わずキライせず、何度も読み返してみることをお薦めします。