そういえば。
国立西洋美術館「レンブラント 光の探求/闇の誘惑」も見に行ったのだった。
後で振り返るときの覚え書きとして簡単に感想を書いておこう。
光と影。
このこと自体にかなり興味がある。
まず光。
この広い宇宙の中で、光の速さ(C=30万km/sec=1秒間に地球を7回半!)が速さの限界。それ以上の速さのものは存在しない。
物理学で明らかにされたのは、物体が光の速さに近づくと質量は増えるということ。
質量はエネルギーが凝縮された形であって、エネルギーは質量を変形させ膨張させる。
マックスウェルの方程式では、光は電気と磁気が互いを馬跳びで飛び越すようにジャンプを繰り返して進むような概念。
物理学での根本の概念は光だ。
そして、人が死んだときの臨死体験でも、光体験というものは多い。宗教的な体験にも、光が言及されることがある。
人間が感じる光の体験は、究極的には脳神経細胞の発火現象そのものの感知かもしれない。
・・・・・・・・
「光」と言う存在は、いろんな領域で根源的なものを感じさせる概念だ。
実際、地球上のエネルギーは太陽から降り注ぐエネルギーに依存している。
太陽は水素がヘリウムに核融合しているエネルギーを宇宙に放出していて、そのエネルギーを僕らは光として感知している。
光として到達した太陽エネルギーは、地球上で別のエネルギー形態へと変換させて、植物や動物の生命を形作る。
その光が差すと必ず「影」ができる。
幽霊を見分ける手段が、「あの人には影がない」というのも示唆的だ。
文学的な比喩としても、日常的に起きる現象としても、物理的な現象としても、光と影はすごく興味深い。
河合隼雄大先生にも、「影の現象学」(講談社学術文庫)という超名著がある。
⇒「影の現象学」河合隼雄(2010-04-25)
・・・・・・・・
レンブラントの光と影の話。
オランダの画家レンブラント(Rembrandt:1606~1669年)は、重厚な油絵の印象が強かった。
でも、むしろ版画(特に銅版画)の世界でも巨大な足跡を残していた。そのことをほとんど知らなかった。
確かに、版画は白黒やその濃淡でしか表現できない世界。
光と影、そして光と闇を究極的に追求した世界だとも言える。
レンブラントの表現で印象に残ったのは、光が差して闇ができる絵もある反面、それ以上に闇がはじめにあってそこに光が差しこむという情景が多かった。
単純に順番が逆なだけのようで、受け取り方はまるで違うのを実感した。
レンブラントの人生自体が、光と闇を大きな振幅で振り子運動している人生のようだった。
だから、自分自身が光のときもあれば自分自身が闇の時もあったのだと思う。
発光体の存在として闇を照らすときもあれば、闇の住人として光が差しこんでくるのを息をひそめて待っているときもある。
「光と闇」と書くか、「闇と光」と書くか。
それは単なる順番の違いのようだけど、どちらが先でどちらが後か、その微妙な違いは結果として大きな世界観の違いになる。
レンブラントの絵画世界での表現技術はあまりに圧倒的だった。
プロフェッショナルとしての圧倒的な技術のすごさにはすごいを通り越す感動を覚えた。
・・・・・・・・・・・・
国立西洋美術館で開催されている「レンブラント 光の探求/闇の誘惑」は、3/12~6/12まで3か月もやってます。(と言ってももう少しで終わり。)
レンブラントもなかなか本物の絵は見れません。こんなにまとまっては初めて見た。人生、初めて尽くしですね。
是非とも目の保養にどうぞ。ただ、レンブラントの強烈な闇に吸引されないようお気をつけてー。
今後の国立西洋美術館は、「大英博物館 古代ギリシャ展」(7/5~9/25)がある。とても楽しみだ。
今回のレンブラントのテーマとなんとなく似てますが、「プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影」(2010/10/22~2011/1/29)も開催されます。
人間は、生きてる限り「光と影」からは逃れられないのでしょう。
朝が来れば夜が来て、夜が来れば朝が来る。めぐりめぐる。万物はめぐる。
それが生きるってことですよね。ほんとそう思います。
国立西洋美術館「レンブラント 光の探求/闇の誘惑」も見に行ったのだった。
後で振り返るときの覚え書きとして簡単に感想を書いておこう。
光と影。
このこと自体にかなり興味がある。
まず光。
この広い宇宙の中で、光の速さ(C=30万km/sec=1秒間に地球を7回半!)が速さの限界。それ以上の速さのものは存在しない。
物理学で明らかにされたのは、物体が光の速さに近づくと質量は増えるということ。
質量はエネルギーが凝縮された形であって、エネルギーは質量を変形させ膨張させる。
マックスウェルの方程式では、光は電気と磁気が互いを馬跳びで飛び越すようにジャンプを繰り返して進むような概念。
物理学での根本の概念は光だ。
そして、人が死んだときの臨死体験でも、光体験というものは多い。宗教的な体験にも、光が言及されることがある。
人間が感じる光の体験は、究極的には脳神経細胞の発火現象そのものの感知かもしれない。
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「光」と言う存在は、いろんな領域で根源的なものを感じさせる概念だ。
実際、地球上のエネルギーは太陽から降り注ぐエネルギーに依存している。
太陽は水素がヘリウムに核融合しているエネルギーを宇宙に放出していて、そのエネルギーを僕らは光として感知している。
光として到達した太陽エネルギーは、地球上で別のエネルギー形態へと変換させて、植物や動物の生命を形作る。
その光が差すと必ず「影」ができる。
幽霊を見分ける手段が、「あの人には影がない」というのも示唆的だ。
文学的な比喩としても、日常的に起きる現象としても、物理的な現象としても、光と影はすごく興味深い。
河合隼雄大先生にも、「影の現象学」(講談社学術文庫)という超名著がある。
⇒「影の現象学」河合隼雄(2010-04-25)
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レンブラントの光と影の話。
オランダの画家レンブラント(Rembrandt:1606~1669年)は、重厚な油絵の印象が強かった。
でも、むしろ版画(特に銅版画)の世界でも巨大な足跡を残していた。そのことをほとんど知らなかった。
確かに、版画は白黒やその濃淡でしか表現できない世界。
光と影、そして光と闇を究極的に追求した世界だとも言える。
レンブラントの表現で印象に残ったのは、光が差して闇ができる絵もある反面、それ以上に闇がはじめにあってそこに光が差しこむという情景が多かった。
単純に順番が逆なだけのようで、受け取り方はまるで違うのを実感した。
レンブラントの人生自体が、光と闇を大きな振幅で振り子運動している人生のようだった。
だから、自分自身が光のときもあれば自分自身が闇の時もあったのだと思う。
発光体の存在として闇を照らすときもあれば、闇の住人として光が差しこんでくるのを息をひそめて待っているときもある。
「光と闇」と書くか、「闇と光」と書くか。
それは単なる順番の違いのようだけど、どちらが先でどちらが後か、その微妙な違いは結果として大きな世界観の違いになる。
レンブラントの絵画世界での表現技術はあまりに圧倒的だった。
プロフェッショナルとしての圧倒的な技術のすごさにはすごいを通り越す感動を覚えた。
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国立西洋美術館で開催されている「レンブラント 光の探求/闇の誘惑」は、3/12~6/12まで3か月もやってます。(と言ってももう少しで終わり。)
レンブラントもなかなか本物の絵は見れません。こんなにまとまっては初めて見た。人生、初めて尽くしですね。
是非とも目の保養にどうぞ。ただ、レンブラントの強烈な闇に吸引されないようお気をつけてー。
今後の国立西洋美術館は、「大英博物館 古代ギリシャ展」(7/5~9/25)がある。とても楽しみだ。
今回のレンブラントのテーマとなんとなく似てますが、「プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影」(2010/10/22~2011/1/29)も開催されます。
人間は、生きてる限り「光と影」からは逃れられないのでしょう。
朝が来れば夜が来て、夜が来れば朝が来る。めぐりめぐる。万物はめぐる。
それが生きるってことですよね。ほんとそう思います。