![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/39/8ade2e6f7b4940bdb1260cf692bf3fea.jpg)
■映画「ディア・ドクター」
最近は仕事に忙殺されていた。
「忙殺」って「忙しさに殺される」と書く。
すごい漢字だと、今書いていて自分で気づいた。
それはともかく、「ディア・ドクター」という映画を見てきた。
西川美和さんが監督も脚本も手がけている。
1974年生まれって書いてあったから、年齢もあまり変わらないし、同世代の人が活躍しているのを見ると嬉しくなる。写真で見てもすごく美しい人で才色兼備だと思った。
僕は女性の美しさというのは、20台後半くらいから心が身体に反映されてくると思っている。若さという身体性だけではボロが出てきて、心の美しさのようなものが身体に現れてくる時期なのだと思っている。そういう意味で、内面の美しさが見た目の美しさと相似なのだと、あの瑞々しい存在感を見ていて、ふと思う。
■「主観」世界と「客観」世界
最近、「主観」とか「客観」というものが気になっている。
この世には、誰にも疑えない「客観」世界のようなものがあるのか。
この議論は、「ほんとうの歴史とはなにか?客観的な歴史の事実なんてあるのか」「科学とはなにか?この世に存在する客観普遍的な真理・法則なんてあるのか?」という議論も、同じ地平線にあると思う。
・・・・・・・・・・
大昔に生きていた古代ギリシアの哲学者プラトンは、そんな誰にも疑えない「客観」世界のようなものを「イデア」と言った。
僕ら物質界の背後には、目に見えない永遠不変のイデア(Idea)という理想的なひな型のようなものがあって、イデアこそが真の実在であると。
イデアは不滅であり、感覚的なものごとはその影である。イデアが存在するイデア界(本質界)に対し、その影の世界が僕らの住む現実界である。
プラトンによると、僕らが何かを「美しい」と感じるのは、それぞれに備わっている「美のイデア」を感じているからであると。
人間の持つ感覚は不完全であり、理性で認識することによってのみイデアに至ることが出来るとプラトンは考えた。
プラトンは、そうして「理性」を重視した。
・・・・・・・・・
客観的で不変不滅な世界が存在しているのかは分からない。
僕らが生きている世界はイデア界の影にすぎないのかどうかも分からない。
ただ、僕らが普段生きている世界は、考え方次第で「人生はバラ色 life is beautiful」にも見えるし、「生き地獄」にも見えることが確かにある。
主観に左右された世界を生きている。
きっと、世界の本質は何も変わらないかもしれないけど、世界や他者への自分の認識が変わることで、全ての物事の彩りは変わりうる。
それは僕らの精神状態にも影響を与え、健康状態や身体にも影響を与え、そのことで結果として自分自体が変容してくると、それを受けてまた世界は変化して見えてくる。
ミスチルの「CENTER OF UNIVERSE」(アルバムQの一曲目)にも
***********
どんな不幸からも 喜びを拾い上げ
笑って暮らす才能を誰もが持ってる
***********
あぁ世界は薔薇色
総ては捕らえ方次第だ
ここは そう CENTER OF UNIVERSE
***********
という一節があって、ふとそんな歌詞を思い出してみたりする。
「ディア・ドクター」の映画を見ていてふと感じたのは、そういう人の主観。主観に伴う世界のありかた。そしてそんな主観を持つ人間が60億集まってこの地球が成立しているというようなことだった。
■名前、肩書き
僕らは、何らかの名前や肩書を持って、日々生きている。
僕らの生身の本質なんて、パッと見てなかなか分かるものではない。
だから、「名前」や「肩書き」というフィルターを通して、情報の洪水を濾過させることでその人の全体性を理解しようとする。
人間は、一つの身体・肉体を持って生きているわけだけど、テレビやインターネットを介した意思疎通においては、どこまで行っても身体や肉体はバーチャルなものに過ぎなくて、僕らの意識の中だけに存在する脳の産物である。
そんな意識内のバーチャルな世界は、脳の情報処理過程の一つに過ぎない。単なる脳の機能に過ぎない。実体がないので、ちょっとしたことがきっかけでいかようにも変化しうるアヤフヤで曖昧なものである。
「名前」や「肩書き」というものは、脳の中のバーチャルな意識上で意思疎通をする上での、触媒のようなものに過ぎないんじゃないかとふと思った。
だからこそ「名前」や「肩書き」はその人の本質ではない。
でも、そんなものを介して現代社会が成立していることは、ちゃんと受け入れないといけない。
脳で行う情報処理のような人との付き合いの場合、ちょっとしたことで状況が変わると、今までの記憶も全て上書きして消してしまうことが容易に起こる。
肉体や身体を介してしない付き合いほど脆いものはない。
そこには根っこがない。
僕らは色んな縁で人と出会うわけだけれど、基本にあるのは生身の肉体であって、お互いの表情、身なり、背格好・・・そんな身体を前提にして、それをお互いがありのままに受け入れた上で話している。
そんな身体性を含めた付き合いでは、「気づかい」のような微妙な情緒や感情のレベルで人付き合いをしていると思う。その「つながり感」を抽象的にことばで表現すると「縁」になる。
気づかいの桁が少しあがると、「困っているなら手助けをする」という桁へと少しステップアップしていくし、その延長に医療や医学というものが生まれてくる気がする。
医療や医学という風に「ことば」で規定されると、物事は固定化していく。そして本質から解離していく。
医療や医学の根底にあるのは、愛とか人類愛のような大それたものではなく、人と人とが色んな縁で付き合っていく上で、意図せずとも形成されてしまう情や情緒のようなレベルのものが根底にあるのだろうと思える。
思わず助けてしまう、思わず心配になってしまう、思わず気になってしまう、そういう情緒の感覚なのだと思う。
その情緒の最果てに、「死」という絶対に避けられないイベントが誰にも待っていて、人と人との関係性の中で、その「死」を僕らがどういう風に見つめていくか。
「死」のような目に見えないものをどのように見ようとするか、そこが医療のひとつの極だと思う。それは、「哲学」にも共通だと思う。
現代医学では、科学技術偏重のあまりに、「死」のような曖昧で科学で扱えないようなものをジグソーパズルのピースからはずしてしまっているようなものかもしれない。
だから、ひとつの大きな絵が描けないし、全体性が見えなくて、つぎはぎのパッチワークで人や人体を説明しようとする。
そして、なんとなく安心して通り過ぎているに過ぎない。
・・・・・
「ディア・ドクター」を見て、そんなことを喚起させられた。
そこに流れているのは生活であり人生である。
生活や人生とは常に流れていくものであって、映画の「終わり」のようにどこかで恣意的に区切れるものではない。
映画の最後は「続く」。
でも、映画という表現形態では現実的にどこかで区切らないといけない制約があって、その人為的な部分に映画監督の「こころ」が反映されると思う。
僕は、西川さんの映画の終わらせ方は好きだった。
生への肯定、生きていること、存在していることの肯定を感じた。
僕は有楽町のイトシアにある、シネカノン有楽町2丁目という映画館で見てきました。そろそろ終わってしまいそうな感じ(9月下旬まで?)なので、時間がある人は仕事帰りにでも是非見に行ってみてください。
西川美和さんという若い世代の女性が、どのように人や医療を見つめているか、そして僕らが何を感じてどういう風に呼応していくか。
「ディア・ドクター」から、生活や人生、そこに流れる情や情緒というものを強く感じて、映画の世界に強く惹かれました。
P.S.
Shin.K氏の書き込みで思い出しましたが、イトイさんのほぼ日でも『ディアドクターの素敵な曖昧。』というタイトルで連載がされています。この記事読んで、僕も映画館で見に行きたいって思ったのでした。
最近は仕事に忙殺されていた。
「忙殺」って「忙しさに殺される」と書く。
すごい漢字だと、今書いていて自分で気づいた。
それはともかく、「ディア・ドクター」という映画を見てきた。
西川美和さんが監督も脚本も手がけている。
1974年生まれって書いてあったから、年齢もあまり変わらないし、同世代の人が活躍しているのを見ると嬉しくなる。写真で見てもすごく美しい人で才色兼備だと思った。
僕は女性の美しさというのは、20台後半くらいから心が身体に反映されてくると思っている。若さという身体性だけではボロが出てきて、心の美しさのようなものが身体に現れてくる時期なのだと思っている。そういう意味で、内面の美しさが見た目の美しさと相似なのだと、あの瑞々しい存在感を見ていて、ふと思う。
■「主観」世界と「客観」世界
最近、「主観」とか「客観」というものが気になっている。
この世には、誰にも疑えない「客観」世界のようなものがあるのか。
この議論は、「ほんとうの歴史とはなにか?客観的な歴史の事実なんてあるのか」「科学とはなにか?この世に存在する客観普遍的な真理・法則なんてあるのか?」という議論も、同じ地平線にあると思う。
・・・・・・・・・・
大昔に生きていた古代ギリシアの哲学者プラトンは、そんな誰にも疑えない「客観」世界のようなものを「イデア」と言った。
僕ら物質界の背後には、目に見えない永遠不変のイデア(Idea)という理想的なひな型のようなものがあって、イデアこそが真の実在であると。
イデアは不滅であり、感覚的なものごとはその影である。イデアが存在するイデア界(本質界)に対し、その影の世界が僕らの住む現実界である。
プラトンによると、僕らが何かを「美しい」と感じるのは、それぞれに備わっている「美のイデア」を感じているからであると。
人間の持つ感覚は不完全であり、理性で認識することによってのみイデアに至ることが出来るとプラトンは考えた。
プラトンは、そうして「理性」を重視した。
・・・・・・・・・
客観的で不変不滅な世界が存在しているのかは分からない。
僕らが生きている世界はイデア界の影にすぎないのかどうかも分からない。
ただ、僕らが普段生きている世界は、考え方次第で「人生はバラ色 life is beautiful」にも見えるし、「生き地獄」にも見えることが確かにある。
主観に左右された世界を生きている。
きっと、世界の本質は何も変わらないかもしれないけど、世界や他者への自分の認識が変わることで、全ての物事の彩りは変わりうる。
それは僕らの精神状態にも影響を与え、健康状態や身体にも影響を与え、そのことで結果として自分自体が変容してくると、それを受けてまた世界は変化して見えてくる。
ミスチルの「CENTER OF UNIVERSE」(アルバムQの一曲目)にも
***********
どんな不幸からも 喜びを拾い上げ
笑って暮らす才能を誰もが持ってる
***********
あぁ世界は薔薇色
総ては捕らえ方次第だ
ここは そう CENTER OF UNIVERSE
***********
という一節があって、ふとそんな歌詞を思い出してみたりする。
「ディア・ドクター」の映画を見ていてふと感じたのは、そういう人の主観。主観に伴う世界のありかた。そしてそんな主観を持つ人間が60億集まってこの地球が成立しているというようなことだった。
■名前、肩書き
僕らは、何らかの名前や肩書を持って、日々生きている。
僕らの生身の本質なんて、パッと見てなかなか分かるものではない。
だから、「名前」や「肩書き」というフィルターを通して、情報の洪水を濾過させることでその人の全体性を理解しようとする。
人間は、一つの身体・肉体を持って生きているわけだけど、テレビやインターネットを介した意思疎通においては、どこまで行っても身体や肉体はバーチャルなものに過ぎなくて、僕らの意識の中だけに存在する脳の産物である。
そんな意識内のバーチャルな世界は、脳の情報処理過程の一つに過ぎない。単なる脳の機能に過ぎない。実体がないので、ちょっとしたことがきっかけでいかようにも変化しうるアヤフヤで曖昧なものである。
「名前」や「肩書き」というものは、脳の中のバーチャルな意識上で意思疎通をする上での、触媒のようなものに過ぎないんじゃないかとふと思った。
だからこそ「名前」や「肩書き」はその人の本質ではない。
でも、そんなものを介して現代社会が成立していることは、ちゃんと受け入れないといけない。
脳で行う情報処理のような人との付き合いの場合、ちょっとしたことで状況が変わると、今までの記憶も全て上書きして消してしまうことが容易に起こる。
肉体や身体を介してしない付き合いほど脆いものはない。
そこには根っこがない。
僕らは色んな縁で人と出会うわけだけれど、基本にあるのは生身の肉体であって、お互いの表情、身なり、背格好・・・そんな身体を前提にして、それをお互いがありのままに受け入れた上で話している。
そんな身体性を含めた付き合いでは、「気づかい」のような微妙な情緒や感情のレベルで人付き合いをしていると思う。その「つながり感」を抽象的にことばで表現すると「縁」になる。
気づかいの桁が少しあがると、「困っているなら手助けをする」という桁へと少しステップアップしていくし、その延長に医療や医学というものが生まれてくる気がする。
医療や医学という風に「ことば」で規定されると、物事は固定化していく。そして本質から解離していく。
医療や医学の根底にあるのは、愛とか人類愛のような大それたものではなく、人と人とが色んな縁で付き合っていく上で、意図せずとも形成されてしまう情や情緒のようなレベルのものが根底にあるのだろうと思える。
思わず助けてしまう、思わず心配になってしまう、思わず気になってしまう、そういう情緒の感覚なのだと思う。
その情緒の最果てに、「死」という絶対に避けられないイベントが誰にも待っていて、人と人との関係性の中で、その「死」を僕らがどういう風に見つめていくか。
「死」のような目に見えないものをどのように見ようとするか、そこが医療のひとつの極だと思う。それは、「哲学」にも共通だと思う。
現代医学では、科学技術偏重のあまりに、「死」のような曖昧で科学で扱えないようなものをジグソーパズルのピースからはずしてしまっているようなものかもしれない。
だから、ひとつの大きな絵が描けないし、全体性が見えなくて、つぎはぎのパッチワークで人や人体を説明しようとする。
そして、なんとなく安心して通り過ぎているに過ぎない。
・・・・・
「ディア・ドクター」を見て、そんなことを喚起させられた。
そこに流れているのは生活であり人生である。
生活や人生とは常に流れていくものであって、映画の「終わり」のようにどこかで恣意的に区切れるものではない。
映画の最後は「続く」。
でも、映画という表現形態では現実的にどこかで区切らないといけない制約があって、その人為的な部分に映画監督の「こころ」が反映されると思う。
僕は、西川さんの映画の終わらせ方は好きだった。
生への肯定、生きていること、存在していることの肯定を感じた。
僕は有楽町のイトシアにある、シネカノン有楽町2丁目という映画館で見てきました。そろそろ終わってしまいそうな感じ(9月下旬まで?)なので、時間がある人は仕事帰りにでも是非見に行ってみてください。
西川美和さんという若い世代の女性が、どのように人や医療を見つめているか、そして僕らが何を感じてどういう風に呼応していくか。
「ディア・ドクター」から、生活や人生、そこに流れる情や情緒というものを強く感じて、映画の世界に強く惹かれました。
P.S.
Shin.K氏の書き込みで思い出しましたが、イトイさんのほぼ日でも『ディアドクターの素敵な曖昧。』というタイトルで連載がされています。この記事読んで、僕も映画館で見に行きたいって思ったのでした。
いなばさんはそんなに忙しい日々を送っているのですね。そんな中で時間を見つけて自分らしさを見失わないようにしているいなばさん。
【意識の中だけのバーチャルな世界は、脳の情報処理過程の一つに過ぎない。】などと書かれていることや、生き物としての人間の大切さに対する眼差しに私も同感します。
先日、ミラノ・スカラ座日本公演「アイーダ」を観てきたのですが不思議なことに、体調があまり良くなかったのに観終った後は体が全然疲れてなく気分爽快で、まるで魔法の薬を飲んだみたいに元気になってしまいました。
なので、常々思ってはいたけれど、人間にとって精神的なもの、五感に伝わってくるものなどは本当に大切なのだなぁ~としみじみ思いました。
パソコンなどに向かっている時間と、演奏会などでの時間とでは質が全然違うってことですよね。
いなばさんが【肉体や身体を介する付き合い】を大切に感じていることは、今も、そしてこれからの子ども達にもいろんな場面で感じて欲しいし、そんな余裕のある世の中になるよういつも願っています。
「ゆれる」がよかったので。
見に行こうかな。
心の美しさ・・・耳が痛いですがそういった男性がいることで勇気をもらえます。年齢を重ねることをポジティブに捉えられるという意味で。
内面が外面に出てくるというのも、同意です。よく話す前と後でその人のことが違って見えることがあるけれど、内面の美しさが言葉となってその人を包み、認知にフィルターをかけるのでしょうね。
確か著作も芥川賞か直木賞の候補になっていたような。思い立ったら、すぐに買いにいけない環境が、ちょっと窮屈です(笑)。
ミラノ・スカラ座日本公演「アイーダ」、いいですねー。
オペラはすごく興味ありますが、日本だと数万円の出費になり、なかなか行くタイミングがありません。
映画館もそうですが、もっと値段として安くなれば行きやすいんですが・・。
国として芸術や文化を保全するようしてほしいものですよね。
いい作品を見たあと、自分の精神状況が更新されて、なぜか元気になることってありますよね。
あと、元気な人と話すと、それに刺激を受けて自分も元気になるってこともよくあります。
僕は、そういう人を『陽の人』と勝手に呼んでますが、そういう陰に対する陽、マイナスに対するプラスのエネルギーっていうのは間違いなくありますよね。
演奏会に出向くっていうのも、まさしく「肉体や身体を介する付き合い}だと思いますね。
家で寝転んでテレビの前で見る芸術と違って、自分の身体を使って歩いて外に出ていく。それだけで身体性があると思いますが、生身の人間がオペラをやっている場に行くのは、芸術の源泉だと思いますね。CDやテレビやネットやDVDは、単なる代償に過ぎないんですが、それだけがすべてだと思うと、生身の身体性から受ける感化のようなものをを忘れてしまいがちですよね。
そういうのもあって、なるべく展覧会には絵を見に行きたいし、映画館で映画を見たいと思うし、踊りや音楽も生身で見に行きたいって思ってます。そういう意味で、東京はすごいエネルギーがはちきれんばかりの都市だと思いますね。
>>>>>>>>>>>ありた様
初書き込みのような気がします。ありがとうございます!
「ゆれる」、よかったんですね。
ちょうど今週だけレイトショーでやってるんで、それこそ今晩見に行こうと思っています。
西川監督の世界を、もっと垣間見たくなってしまいましたもんで。
年齢を重ねることは、全く悪いことぢゃないって、心の底から思ってます。
木の年輪と同じで、いかに外見だけじゃなくて内面を磨いているか、そういうのが老いという現象と共に顔に出てくるものだと思います。顔を面(オモテ)ともいいますが、オモテには必ずウラがあって、年を取るとはオモテとウラを隠せなくなってくるものじゃなかろうかと思います。ウラオモテがない人間という表現もあるし、最終的にウラもオモテもなくなっていくのが、年をとることだったり、生をまっとうするってことなのかもしれません。
>>>>>>>>>>>Shin.K様
そうそう。僕もほぼ日の記事を読んで、調べたら今月まで!っていうのを知ったから、あわてて見に行ったわけです。
当直明けで眠かったけど、眠さ忘れて物語の世界に没入しちゃいました。
基本が地域医療のことで、医療の問題がテーマになってたから、現代医学の矛盾を日々感じている自分としてはなかなかにタイムリーな話題でした。 こういう映画こそ、東大病院で放映してみんなで見ればいいのになーって思います。少し病院の空気感も変わる気がするし。
外見はいくらでも隠せるけど、内面って見えないから隠すも隠さないもなくて、おのずから勝手に出てくるものなんですよね。しかも、それは絶対自分では分からないもので、他者によって見出されるものなんだと思う。
言葉とか振る舞いとかたたずまいとか・・・いろんなところから姿を現しているように思えますわ。
最近は自分の心身のバランスがいいからか、そういう他者の内面性がよく見える。
そして、昔からナンダカンダの縁でずーっと仲良くしている女性とか、仲いい女性とか、みんなそういう内面の美しさが同居していることがよく分かって、それ自体もとても嬉しいものです。
それにしても忙殺って確かにすごい言葉ですね。こころをなくしてころされる。おそろしや。
ところで、私の住んでいる町は、サイレント映画の神様みたいなムルナウの財団があるらしく(http://www.murnau-stiftung.de/en/00-00-00-willkommen.html そのこと自体は最近知った!)それもあって、ほぼ毎日違う映画をやっている映画館があり(フィルムのストックがあることがまずすごい)、サイレント映画+生演奏を月一回のペースでやっていたり(これが最高なのです。ルビッチ監督作品に惚れたのもここでなのでした)、まぁとにかく、映画が何気に熱い街で、これも何かの縁を感じます。年に一回映画祭もあって、そこで以前に、知り合いが通訳をしていて、遊びにいって、「あ、この人、西川さん」ってひょいと紹介されたのが、この監督だったのを思い出しました。今思うと気軽に紹介されすぎ(笑)というのもあるけど、彼女のその受け答えのあまりの自然さや、透明感のあるオーラと柔らかさに、なんて美しい女性なんだろうと(いなばさんの言う通り外も内も満ちてる美しさ)、鮮やかに印象に残っています。女性指揮者が男性のそれより圧倒的に少ないのと同じで、映画監督も女性って少ない気がしますが(日本だと河瀬直美さんとかかなぁ)、そんな中、この可憐な女性が、大勢の人を携えてメガホン持って指示して動いているのかと、想像して鳥肌が立つと共に、何だか同じ日本人女性として嬉しくなったのを覚えています。その時は確か「ゆれる」を放映していたのだけど、仕事の時間が合わずに見られず、ずっと気になっていました。是非今度この監督作品を見てみたい。これも縁ですね~。ご紹介ありがとうございます。
脳科学も進んでおらず、身体のことも未だ分かっていなかったときに、人はどこに精神や魂が宿ると考えていたのか、つまり体のことが分かっていなかった時代に、心をどこに認識していたのかということ(これは永久にテーマなのでしょうが…)が、気になっていたのですが、時実利彦さんの「脳の話」に、色々書いてあって、興味深く読みました。
・エジプト王朝時代(6000年前)
霊魂@心臓説
・バビロニア王国時代(4000年前)
@肝臓説
・ギリシャに文明が移ってきたら・・・
@脳(byヒポクラテス)
心臓ー肝臓ー脳ときて、
話題のプラトンは、脊髄にも求めた。
「神の精神」--不滅の魂(理性・知性)@脳
「人間の精神」--1.動物的魂(情熱)@胸髄
--2.植物的魂(食欲)@腹髄
ここらへんは、イデアとかそういうお話にも大いに絡んでくることですよね。それにしても、脊髄を意識するというのは、面白い。野口整体では「背骨で呼吸する」というのが大事ですが、昨日活元運動しながらプラトンのこの話を思い出したりして。脳というと、頭の部分だけで分離して考えがちだけど、実体としては、そこから尻尾みたいに脊髄が垂れているのですね~(今図をみて驚きました。笑)
先ほどの続きを少し書くと、
弟子のアリストテレスは、師に背き、
精神@心臓説を唱えたらしいです。
脳は、「粘液をだす粘液線、体温調節の冷却器」だと主張。面白いなーまったく。斬新だ。
なんか、やたらと長くなってしまいましたが…主観客観という問題も、奥が深く、色々私も考えているところです。砂時計の話が煮詰まりそうな予感。
そんな状態だからこそ、自分の内なる声に正直に従って、「ディアドクター見たい!」 という内的な声に従ったのですが、やはりよかった。
疲れも吹っ飛びましたね。
疲れって、そういう狭い世界で閉じている事自体から降り積もってくるものも多いもんだと、改めて気づきます。
いやぁ、そんな感じで西川さんと出会っているとは、不思議な縁ですね!
世界は広いんだけど狭い。狭いんだけど広い。相異なる言葉が同時に浮かんでは消えます。
LaStradaさんも西川美和さんも、同じように強力なエネルギーを発している人同士、不可思議な縁の力で引き会っちゃうんでしょうね!
西川さんも地域医療をテーマとして扱って映画を撮っているし、何かの縁があれば医療に関して浅い層ではなく深い層で話してみたいものです。それまで、僕も西川さんのように自分を深く深く掘り続けないといけませんねー。
「ゆれる」、実は昨日レイトショーでやっていたのでなんとかやり繰りして見に行きましたが、しばし呆然でした。すごすぎる。
「ゆれる」の方は、緻密に計算されつくした理性中心の映画でした。そして、すごくよかった!
記憶、主観、・・・色んなものを複雑に入れ子状にテーマにしている映画だと思いました。遠からずで、浦沢直樹の20世紀少年も近いテーマを扱っている気がします。
昔、ブログでも感想書きましたが。
時実利彦さんの「脳の話」、面白いよね!!
「人間であること (岩波新書) 」もよかったなー。
「時実利彦記念賞」ってのも脳科学の分野であるくらいだし。
心臓説、肝臓説、脳・・・・精神の場所を色んなとこに求めてるのは面白いなー。
でも、僕は「精神は能の機能にすぎない」と考えているんで、どこにもないのと同時にどこにもあるんだと思っているんですよー。
「循環」の概念が心臓を中心としたものだけではなく、人体の色んな場所にあるのと同じだと思っているのです。
野口整体の「背骨で呼吸する」はストンと合点いきますよ。
中枢神経系って、脳味噌+尻尾のように伸びる脊髄を全部いれて、それ全てで中枢神経系ですからね。
脊髄をぶった切って脳だしをしない限り、脳味噌だけは取り出せないんですよね。
その脳味噌がビジュアル的にわかりやすいから独り歩きするけど、本当は脳味噌だけではなくて、胸髄、腰髄、仙髄・・・全てを足し合わせた概念が、中枢神経系なのですからね!!
主観・客観問題。
これも奥が深いですよねー。
このテーマだけで山ごもりして1年間は考えられるテーマですわ。笑
何か新しい進展あったらブログに書いてくれると思うので、ブログ楽しみにしてまーす。
私も見たい見たいと言いながら、あまり多くの場所でやっていないのと、なんだか最近身体が疲れてしまって色々と逃しているのです。
今度の連休にでも行こうかと考え中^^
「ゆれる」から連想するに心理描写がとても巧みに表現されているのではないかなぁと。今度の映画はテーマにも興味があるし、それがどのように表現されているのか期待しています。
いなばさんの感想が良い感じなので、より楽しみになってきました^^
lastradaちゃんは監督本人に会ったことがあるのね!わぁ、それはステキな縁^^
映画にも会えるといいですね。
連休中なのにほとんど当直とかで潰れて、
ブルーになっておるイナバです。
いかがな大連休をお過ごしですか?
身体が疲れてしまってるってのは、
ブログにある旅行疲れですか?
海外に行くのはエネルギー使いますしね。
(・・・旅行中のブログの写真、楽しく見てますよー。
ほんと色合いが素晴らしくいいですねー。
写真、見とれておりました。
朽ちた仏像とか、町並みの喧騒とか、食べ物の彩りとか、
いやー素晴らしい写真ばかりで!)
「ゆれる」を見てからいくとビックリするかも!!
ぜんぜん違いますよ。だからこそ、それも含めてすごいと思った!
僕は、ディアドクター見てから、ゆれるを見たという、
逆に入り方をしている人間ですが、
西川さんの映画監督としての幅を感じて唖然としました。
ゆれる、もう見終わった後はあまりの衝撃と、
映画に自分が入りすぎてしまって、
帰宅の地下鉄を茫然自失として帰った覚えが・・。
ゆれるも、ほんとに素晴らしかった!
すごく作り込まれていたし、めちゃくちゃ練られていて。
ディアドクター、ゆれるを想像していくとびっくりするかも。
僕は、ディアドクターのような、ああいう淡々とした映画が、
自意識が抜けてて好きでした。
いかにもびっくりさせようとか、感動させようとか、
そんな意図が感じられずに、僕はすごく好きだった。
でも、ゆれるのような、すごく作りこまれた
映画の後だと、賛否両論になるのかもなー。
僕はどっちも好きだし、どっちも作れるっていうのが好きでした!
まあ、見に行ったら感想聞きたいデス。
9月中で終わっちゃうんじゃなかったっけ?
連休中に急いで行ってくださーい!!