日常

「倫理という力」(前田英樹)を読んで

2009-09-10 22:16:03 | 
前田英樹さんは、こよなく愛する雑誌『風の旅人』の文章の中で、田口ランディさんと並んで文章を楽しみにしている一人である。

そういうこともあって、ふと本屋で目にした「倫理という力」前田英樹(講談社現代新書)という本を読んでみた。





最近、いろんな本を併読していて、すごく面白い本がいっぱいある。
今後、いろいろ紹介したいと思っている。



この本は「倫理とは何か」を考えている本だけれど、最後の一節でとても心動かされるところがあって、それは最近考えていたことと少しシンクロした。

それは、『「忙しさ」について』(2009-08-19)



宮大工の西岡常一さんが紹介されていた。
1300年前の法隆寺を再建した棟梁だが、1300年前の段階で、既に檜の木は樹齢1000年近くであった木を使っていたことが分かるらしい。


以下は、この本の本文から文章を引用することで、自分がブログに書いたことと近い印象的な文章を簡単に紹介したい。


□引用はじまり

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「事の心」「物の心」を知る努力の深まりのなかには、決して争いを引き起こさないひとつの強い喜びがある。

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彼(宮大工の西岡常一さん)が語る言葉のなかには、地質学もあれば生物学もあり、工学や歴史学もむろんある。だが、彼が行ってきた「物の学習」は、それらのすべてを同時に超え、またそれらのすべてに向かって開かれている。

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『わたしどもは木のクセのことを木の心やと言うとります。風をよけてこっちへねじろうとしているのが、神経はないけど、心があるということですな。』(「木に学べ」西岡常一

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自然は、人間の知性に何をさせようとしているのか、宮大工の仕事をしていればそのことがわかる。「仏さん」や「神さん」に<なる>ことは、自然の意図そのものに乗り移って、自然が知性に為さしめようとしているところを、まさに為すことではないか。
・・・
この信仰は、稀有であっても特殊ではない。神秘を含んでいても、摩訶不思議なところはいささかもない。この信仰には、人間の知性が道具を使って生きる倫理の普遍性があるだけだ。

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私たちの日ごろの暮らしには、至るところに二重性がある。
たとえば、夏の盛りの海水浴場が、けたたましい喧噪の下方に、どんな叫び声も呑み込む底なしの静寂を浮かび上がらせることがある。二つのものはまったく同時に知覚される。こんなことはいくらでもある。私たちの生は、どうも避けがたく二重になっているようだ。
一方は日々の行動にあわただしく向かい、もう一方は<在るもの>に向かって突如眼と耳を開く。二つの事をするのは、この同じ生である。

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「東京物語」(監督:小津安二郎)のなかで、老夫婦の子供たちがみな口をそろえて言うセリフは、「いま忙しいんだけどナア」である。
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都会で人並みの生活を送っていくことは、全く忙しい。
ここで倫理的であるとは、まずはこの忙しさに抵抗することなのである。
・・・・・・
原節子が演じる紀子(老夫婦の戦死した次男の嫁)は、決して自分が忙しいとは言わない。あんたも忙しかろうにと、義母から言われると、微笑して静かに否定する。
・・・・・・
お忙しいですか、と聞かれて、いいえ少しも、といつも微笑して応えられる人間でいることは素晴らしい。やってみればわかるが、これは簡単なことではない。こういう人間だけが、生活のざわめきの真下で、在るものを愛しているのである。

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□引用終わり


この本の最後の辺りに、東京物語での紀子(原節子)の佇まいから感じれるような、『この世に在るものをただ愛する』ということの大事さが書かれていた。



以下に、上のような文章を受けた上での「倫理という力」前田英樹(講談社現代新書)を読んだ後に「倫理」について考えたことを書いてみる。


小津安二郎の東京物語という映画は僕も見た。素晴らしかった。
そこには「ディア・ドクター」(監督:西川美和)と同じような人間の情緒が流れていた。


原節子が演じる紀子のような生活の仕方を、僕らはイイと思う。
それは、何か根拠があるわけではない。
でも、自分の内なる心がイイと言っているのが聞こえる。


きっと、深い層の自分と深い層で向き合うとき、何物からも干渉されずに自分の奥底が叫んでいる内なる声が「倫理」の源なのかもしれない。

自分がやったことが「倫理的に」イイか、ワルイか、それは自分が一番よく知っている。
むしろ、自分しか絶対に知り得ないことなのだ。
自分のうちなる声と向き合えるのは、この世に自分ただ一人しかいない!



以前書いた『イイものをイイと言う事(2008-11-29)』とは、まさしくそういう自分の内なる声に対して、ありのまま正直でいたいという意思表明なのだと思う。



「倫理」とは、「常識」とか「シキタリ」とか「決めごと」とか、そういう外からやってくる枠組みなのではなくて、『この世に在るものをただ愛する』という全てをありのまま受け入れる姿勢から、自然に自分の中に沸き起こってくる自分の内なる声なのだろう。
それは、今現在生きているという生自体をありのまま受け入れる、そんな生自体への肯定へとつながる。


辛いこと、悲しいこと、楽しいこと、いろんなことが人生には起こるのだろう。
そういう時、「僕らが現に存在している」という不思議さを感じて、自分の存在の無根拠さに恐ろしくなる時があるかもしれない。
逆にいえば、そのときにこそ自分は存在や実存という非常に哲学的な問いの真正面に立っている。


世界が存在していること、自分が疑いなく存在していること、そんな疑いすらしない実存の根本的な不思議さ徹底的に向き合ったのは、哲学者ハイデガーだ。
このことは、『ハイデガー 存在神秘の哲学』古東哲明(講談社現代新書)で詳しく書かれている。
Isくんに薦められて読んでみたので、いづれ感想を書いてみたい気もする。





『この世に在るものを愛する』状態に至るには、この世の全ての存在そのものへの不可思議さに向き合う瞬間を経て、初めて至ることができる。
そんなとき、はじめて自分の中に「倫理」なるものが生まれる。


甲野善紀さんが「人生は完全に運命が決まっていると同時に完全に自由である」と言っている。

印刷している紙の表を見ると文字がびっしり埋まっていて全ては運命づけられているように思えるけど、裏に返すとその紙は白紙状態であり完全に自由である。
そういう状態と同じである。



「運命や因果で決まった完全な不自由さ」と「完全な自由さ」が同時に存在しているなんて言うと、西田幾多郎の『絶対矛盾的自己同一』のように、矛盾する言葉を並べた言葉遊びのように聞こえるかもしれないが、決してそうではない。


この世は言葉で表現できないことに満ちていて、言葉には限界があって、その領域を言語化すると矛盾した言葉が並んでしまうだけなのだ。
以前書いた、『『同じ』と『違う』のあわい(2009-07-15)』も同じようなことを書きたかった。



「倫理という力」(前田英樹)にあるような
『たとえば、夏の盛りの海水浴場が、けたたましい喧噪の下方に、どんな叫び声も呑み込む底なしの静寂を浮かび上がらせることがある。』
そんな状態を自分も体験したことがある。
そんな矛盾する概念が同時に存在していることを体感する瞬間は多い。


そんな言葉の上では矛盾に満ちた体験は、自然の中で感じることが多い。
自分が好きな登山自体も、言語化すると矛盾に満ちた行為である。
死にたくないのに死にそうなことをしたり、自由が好きなのに不自由な場所へ行く。


そして、人体自体が、実は大自然のひとつである。
人体は人工の産物ではない。

人体を使って生きる僕らは、常に自分の内側に潜む自然と接して日々生きている。



そんな大自然の不可思議なありようを、ありのまま自分が受けいれ、自分が溶け入ることができるか、大自然そのものである自分の内なる声と向き合うことができるか、僕はそれが「倫理」の起こりなのだと思う。
それは、人体という身体性に気づかないといけないし、『『からだ』と『こころ』のあわい(2009-08-07)』の領域でもある。


それは、自然の驚異や不思議さに出会い、同時に畏れや畏敬の念を持っているかどうか、それは自然への思いであると同時に、人体への思いであり、生への思いであり、自分の内なる声への思いでもある。




書き散らした感じですが、「倫理」に関してこんなことを感じました。

2 コメント

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倫理について (YUTA)
2009-09-11 00:45:11
『ハイデガー 存在神秘の哲学』は私も読みましたよ!世界の存在に驚くこと、それが哲学の基本中の基本であるが、どんなに難しいかを改めて気づかせてくれます。というのは、この本の詩的な部分を読んだ時にだけ、「あれ、なぜ自分は存在してるのだろう?」と思いつくからです。意義のある貴重な一冊ですね。

そして《倫理》といえば、私が強い怒りを感じている天下り官僚を思い浮かべます。さっきのニュース番組にも、厚生労働省から天下りした役人が出て来て、ヘラヘラ笑いながら(なぜ役人は皆同じ薄ら笑いをするのか?)「私には後ろ暗いところは全くありません」と言ってました。

私はこういう人種には抑え難い憎悪を抱いています。これまで法律では禁止されなかったとはいえ、罪悪感が全くないのでしょうか?いなばさんは、倫理を「大自然そのものである自分の内なる声」と定義されました。国民の声を聞こうとしない役人が、大自然の声など聞こえるはずがありませんね。そう思うと、こういう人種の恐るべき倫理の欠如が少し分かってきます。
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一連托生 (いなば)
2009-09-13 23:52:42
>>>>YUTA様

『ハイデガー 存在神秘の哲学』、すごく面白い!!最近、会う人に奨めてます。
底は無底であるとか、すごく興味深い。
(底自体に底があると、すでに底ではなくなる。だから、底には底がない。存在の底は無底であり、存在は根拠は無根拠である。その底がないということに自分で感じて腑に落ちないと、存在の不思議さには気付かない!というようなとことか、すごくインスぴレーションうけてます。)

確かに、天下り官僚とか、あの全体的な構造はすごいですよね。
税金を分散してむしり取るシステムが完成していて、しかもあの構図の巧妙なところは、全員を共犯者にしてるんですよね。複雑な網目模様にして、お互いがお互い共犯である構造を作って、一蓮托生にして内部分裂できないようにしている。
ああいう構造を見ると、悲しくなりますねー。でも、数十年かけて出来てきて固定化したシステムなんでしょう。
あのヘラヘラ笑いには、一蓮托生で共犯関係を作っているから、「どうせ俺だけつるしあげてもなんの意味もないよ」っていう笑いのように見えますね。


倫理って、結局自分で自分を縛るものだし、自分で自分を縛るものですよね。
脳で言えば前頭葉のように、欲望や情動を制御するブレーキ装置のようなもの。

倫理の欠如って、結局自分で気づかないといけないんですよね。自分で腑に落ちて、自分と向き合わないと意味がない。
そのために、哀しみ(悲しみ)とかの感情があるんだと思います。

最近、竹内先生の
○<かなしみ>と日本人 (NHKシリーズ NHKこころをよむ)
http://www.bossabooks.jp/product.html?asin=4149106193
を改めて読んだので、その辺とつなげて考えてしまいます。

いい政治家もたくさんいるとは思いますが、腐敗した一部の政治家に必要なのは、悲しみの哲学なんだよなー。この辺は、思索を深め中です。
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