日常

養老孟司「からだを読む」

2009-08-31 22:33:07 | 
最近は病院での当直ばかりしていて、台風が到来している今日も当直をしている。
そろそろ台風は通り過ぎたのだろうか。閉じたICU(集中治療室)では、そんな大自然の営みと隔絶された生活をしている。
真夜中に電話でたたき起こされて、そのまま寝付けない時にふと本を読んでみたりする。

なんとなく本棚から持ってきた、養老孟司「からだを読む」(ちくま新書)を読んでいた。
2002年発行なので「イマサラー」です。特に話題の書というわけでもなんでもなく、なんとなく本棚から目に付いたのでもってきた。

病院内で、あまり小難しいものを読んでいると、「何読んでるんですか?」と言われた時の受け答えが面倒臭いので、微妙に生命科学や医学っぽいのを読むようにしている。

この前も、「世界史再入門」浜林正夫(講談社学術文庫)と、「近代文化史入門 超英文学講義」高山宏(講談社学術文庫)を読んでたら(→講談社学術文庫とちくま学芸文庫は好き!)、「いなば先生、世界史とか好きなんだー(^^」みたいリアクションをされ、別にそういうわけでもなくてなんとなく歴史を勉強してみたい日もあるという軽いノリなだけなので、そんな受け答えを簡略するためにも医学・生命科学系の本を病院内では読むわけなのです。

とかいいながら、今日は中崎タツヤの「じみへん 自由形」(雑誌スピリッツの最後を飾っている漫画ですね)を、好きなので隠れてコソコソ読んでたりもしますが。この本、最高に面白いですよね。「じみへん倫理教室」南部ヤスヒロ(小学館 (2009/5/29) )って本も最近出てますよねー。

あ、脱線しました。



・・・・・・・・・

本題に戻ります。
養老先生は、「唯脳論」なんて歴史に残る名著だし、「無思想の発見」もブログで感想書いたほどだけど、すごく感化を受ける部分が多い。
論法は結構飛躍的かなぁとか思うこともあるけれど、考える素材を与えてくれるという意味では、自分にとって超一級の人です。

養老孟司「からだを読む」(ちくま新書)の中で、個人的に感じ入ったのをメモ書き程度に書こうというのが、今回の趣旨。



■味覚・嗅覚と「ことば」

五感の中で、視覚(文字)、聴覚(音声)、触覚(点字)は「ことば」に関連性がある。その感覚は、新皮質の連合野が扱っている。

それに対して、味覚と嗅覚は「ことば」と遠い感覚で、「ことば」にできない五感である。確かに、「おいしい、すっぱい、苦い、甘い、辛い・・」数種類のボキャブラリーでしか、味覚とは言語化できないことに気付いた。嗅覚もそうだ。

そして、味覚と嗅覚は古い脳に連結している。
だから、論理ではなく原始的な情動に関連しているのではないか。


西洋はロゴス中心だけど(→旧約聖書:ヨハネ福音書『初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神とあった。(1~2節)』)、この生きているリアルな世界は、言葉で説明できないものも多い。


味覚である「おふくろの味」も、感情の奥深くに響いて、言語化できないけれどいろんなものを思い出させる力があるんだと思う。
嗅覚も、おばあちゃんの家の匂いを嗅ぐと、言語化できないようなすごく懐かしい感情が蘇るものだと思いますね。



■砂肝(すなぎも)

砂肝は焼き鳥で食べる。
では、砂肝はどこにあるのかご存知だろうか。

肝と書くけど肝臓ではなく、鳥の食道下端で胃の辺りにぶらさがっている臓器なのです。


では、なぜ砂肝と言うのか。

それは、鳥には歯がないため、堅いものを細かく粉砕できない。
だから、鳥は食べ物と共に石や砂を食べて、この砂肝の部分ですりつぶすようにして細かくしているそうな。面白い!

砂肝を焼鳥屋で僕らが食べるときは洗ったものを食べているけど、なんとなくざらっとした触感があるのは、微小な砂のようなザラザラ感が残っているのかも。


ちなみに、鳥以外でこの砂肝方式を使っていたのは恐竜らしい。実際、なぜか胃の近くの場所に石が見つかったことからそう言われているらしい。

さらにちなみに、鳩は、子供へのミルクの代わりに、自分の砂肝の粘膜を吐き出して食べさすらしい。砂肝の粘膜を、鳩の子どもはミルク代わりに美味しく食するとのこと。

人体も動物も、生命って深いなぁ。

焼鳥屋でのウンチクが増えましたねー笑




■人間の骨格を骨に分ける

1543年にアンドレアス・ヴェサリウス(ベルギー)という人が『人体構造論』という解剖学の本を書いた。
そして、この本が近代医学の起こりではないかと言っている。

なぜなら、この本以前の解剖図や骨格図は、骨をバラバラにした記述はひとつもなく、一まとまりの骨格の絵しか描いてなかったらしい。
この『人体構造論』から、人体を部分の骨に分割して表現するようになった。


この考え方は、近代科学の根本的な考えかたの要素還元論の起こりではないかと。
ひとつの全体を、部分に部分にばらしていけば、全体が分かるという考え方。


ちなみに、デカルトが方法序説を書いたのは1637年だから(→最近のブログにも「方法序説」の読書感想を書いた。)、その100年近く前の話です!


そういう要素に還元していく思考方法は自然科学の起こりだけど、西欧で自然科学が生まれてきたのは、視覚言語としてアルファベットを使用していたことと関連性があるのではないかと言う。

西洋では、英語でもA~Zまでたったの26文字しかないのに、そんなロゴス(言葉)でこの世の全てが記述できると思っている。そん26文字の単純な部分の組み合わせで、この世のすべてが組み立てられると考えているのではないか。


でも、この世は言語では記述できない世界が間違いなくある。
嗅覚や味覚のように人間の古い脳を使っている感覚があって、そこは言語化できない領域の一つだと思うし。その言語化困難な領域には、情動や感情や情緒や、そういう「情」で表現される類のものが隠れているのかもしれない。



脳の新皮質を中心に、現代的な視点でだけ脳を使っていると見えなくなるものがたくさんあって、動物と共通の原始的な脳も総動員させると、色々見えてくるものがあるのかもしれない。


この辺り、深めて考えると色々面白そうだなー。


ということで、メモ書き程度にと思ったら、案の定長くなったわけなのです。