日常

森岡正博「まんが 哲学入門 -生きるって何だろう?」

2014-06-19 08:22:01 | 
森岡正博さん、寺田にゃんこふさんイラストの「まんが 哲学入門――生きるって何だろう?」講談社現代新書(2013/7/18)を読みました。
読みやすくサラサラ読めた。森岡さんの著作だけあって、さすがになかなか深かったー。

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<内容紹介>
「生きるってなんだろう?」
――誰もが一度は考えたことのある問いに、「時間」「存在」「私」「生命」の4つのテーマから迫っていく。
難しいことばをほとんど使わず、「まんまるくん」と「先生」の二人の掛け合いの形から、哲学の根本問題をゆっくりと解きほぐしていく哲学入門書。
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この本は、哲学者でもある森岡正博さんが自分でイラストを描いて原画のイメージをつくり、それを元に構想された本です。
マンガと哲学といえば、言わずと知れた堀内信隆先生の「だるまんの陰陽五行シリーズ」(2013-06-18)が他の追随を許さない面白さだと思うのですが(マンガの完成度はだるまんの方が遥かに高い)、森岡さんの本は特に哲学の歴史に特化している印象でした。





森岡正博「まんが 哲学入門――生きるって何だろう?」講談社現代新書(2013/7/18)から、印象的だった文をご紹介。


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「いま」とは、新しいものが絶えず次々と湧き上がってくる真に豊かな世界である。
身体全体が生きようと欲しているから、「未来それ自体」があるという確信がうまれる。
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→哲学ABCとして「時間」論からはいってました。
基本的には過去や未来というのは一つの観念で一つのシュミレーションされた全体性を表します。
個人的にはそれを「あたま」の産物だと考えています。
その人の身体感覚としてとらえられるのが「いま、ここ」の状態。ここが無時間であり時間の源泉となる場所。
「こころ」も「からだ」も本来的にはこの状態に居続けますし、自然そのものは常にこの状態の永遠なる流転の相。
その流転の相を「あたま」で順序付けするときに「時間」という一つの概念(コンセプト)が生まれるのだ、と自分は捉えています。


「哲学する」という行為が「あたま」でやる営みなので、哲学する「あたま」の盲点や欠点もよく把握しておかないと、たいていの思考はどつぼにはまりますよね。



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果てしなく続く「~がある」という土俵の上で、様々なものごとが生成し、消滅し、延々と繰り返していく。
「いま」の土俵と似ている。
「生成消滅」よりも「ある」のほうが基盤にある。
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存在させるはたらきは、みずからを隠すと言う形で、みずからをあらわそうとする。という詩的言語が使われる。
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私はなぜ生まれてきたのか、それは「私が存在する」という奇跡が偶然に選ばれたから。

避けようのない奇跡として生まれてきた。
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→「存在」の次元も大事なポイントだと個人的に思います。ハイデガーが「存在と時間」という著作を書いたのも偶然ではないです。

<~する(Doing)>の行為の次元の前提として、<ある(Being)>の存在の次元があります。
そこから色んなものごとは生起してくる。
常に存在の次元に戻りつつ、そのホームポジションを忘れないように。



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関わりの中で共に生きる→謎の存在への核心→人を愛すると言う事
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生きるとは、「この世にかけがえのない他我と自我がある」という迷いを生き切ること
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→かかわる、ということと、「愛」ということが近接しているということは重要ですよね。

ザビエルが1549年に日本に来た時、日本には「愛」という概念がなくキリスト教の核心である「Love」を伝えることができず、当時の人は「お大切」というコトバをあてて翻訳したようですよね。



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誕生とは、気が付いたら私は生れていた、ということ。
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誕生の土俵:誕生の気づきがある:過去、現在完了、未来、誕生の登場
いまの土俵:誕生の気づきがない:いま、生成・変化・消滅、不変の登場
この両方の世界を往復しながら生きている。
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私の死は、誕生の土俵それ自体が消滅する予感として現れる。
いまの土俵には現れない。わたしの誕生も死もない。
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わたしはなぜ生まれてきたのか、
私によってのみ可能なかけがえのない誕生肯定の仕方を、この宇宙において実現するために生まれてきたのだ。
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宇宙は、無数の生命たちにそれぞれ独自のかけがえのない誕生肯定を次から次へと誕生させるために、生命を生み出し続けている。
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→「生まれる」ときには、この世界や時代のルールが全く分からずに放り出されるので、どんな人間でも驚きます。
赤子から幼少時のころに、周りの様子や親の様子を見ながら、この世界のルールを見様見真似で学習していくわけです。だからこそ、そこには本来の自分とはフィットしていない概念で学んでいることも多々あります。

そうして、いろんなもの(感情、規範、道徳、、、、)をまず仮に学習して、その後に再度見直していく、というプロセスを誰もが経ていくわけですが、そのプロセス全体そのものが「わたしはなぜ生まれてきたのか」という問いに答えつつ考えていくプロセスになるのだと思います。




ここからは、本書で説明されていた哲学や宗教の世界の巨匠がふれている「時間」についての考察を。


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アウグスティヌス『告白録』
「過去は記憶として立ち現れ、現在は直観として立ち現れ、未来は期待として立ち現れる。
神は常に現在である永遠という次元にたっている。」
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カント『純粋理性批判』

私の内側にある時間・空間と言うフィルター(直観の形式)を通して外界を見ている。
内側に持つ装置の規格が同じだから、客観的な時間と空間を共有している。
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べルクソン 『時間と自由』

世界がじわじわ変化していく「持続」こそが根本的な世界の現れ方。

「持続」の流れを時間軸と言う空間的な直線の上に配置しようとする。
持続を無理やり空間化している。自我の正しい在り方とも結び付く。
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道元 『正法眼蔵』

時間と存在がひとつながりの今現在の中で、真理が出現し、悟りが出現するのだ。それを「有時」という単一の概念で捉えないといけない。
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西田幾多郎

世界の成り立ちの根本には永遠の今がある(アウグスティヌスの神)。
それが個別化すると現在が現れ、無限の未来と無限の過去が映りこんでくる。絶対矛盾が成立する。永遠の今の自己限定。
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ハイデガー

にせものの時間(非本来的な時間)とほんとうの時間(本来の時間)
私はやがて確実に死ぬということに必死で耐えながら、その覚悟をした私が今ここへと降り立ってくる事を「将来」と呼ぶ。
すでに投げ込まれている事を引き受ける(既往性)。
この二つに挟まれたのが現在。
死に向き合う事で見えてくる時間が真実の時間。
死への態度ではじめて説明できる。
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次は本書から「存在」についての考察を。


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バークリ 『人知原理論』

存在するとは知覚することである。 眼をつぶると、その机は神によって知覚される。
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ハイデガー 『哲学への寄与論稿』

存在させているはたらきは、姿を隠す事が本質である。
性起(Ereignis) 覆蔵のための空け透き
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西田幾多郎 『場所』

場所は、存在を広く大きく包み込む無なのである。
あるやないの次元を越えた絶対無の場所
べルクソンの持続のような生命に満ちたもの
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デイヴィッド・ルイスの可能世界の哲学は、物理学でいうところの「パラレルワールド」に非常に近接していますねぇ。「パラレルワールド」は量子力学と宇宙論の必然の帰結のようです。
バランスの取れた名著としては、天才物理学者ミチオ・カクさんの書かれた「パラレルワールド 11次元の宇宙から超空間へ」日本放送出版協会 (2006/01) がありますね。



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デイヴィッド・ルイス 『反事実的条件法』

可能世界の哲学
論理的に存在しうる無限の可能性界が存在している。
その中から実際に住んでいる世界だけが、わたしの現実の世界として切りだされる。

様相実在論
→間違っている論証はできない。信念や信仰にゆだねられる
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ヴィトゲンシュタインは、井筒俊彦先生と全く別の角度から「コトバ」の深層に向かい、その先の世界をなんとか作ろうとたった一人で挑んだ偉大なる哲学者だと思う。
(コトバそのものを哲学の対象に扱っているので、そう簡単に著作は読みこなせるものではないけど・・・、だからこそ登りがいのある山だとも言える) 


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ヴィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』
「独我論の言わんとすることはまったく正しい。ただ、それは語られえず、示されているのである。」
「死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きるものは永遠に生きるのである。
視野のうちに視野の限界はあらわれないように、生もまた、終わりを持たない。」
「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。」
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ブーバー 我と汝

物体として見る(われーそれ)、心を持った者として見る(われーなんじ)。
心をもった物との間の関係の中に私が生きる事。そこで見出されるものは出会い。
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「出会い」っていのはいい言葉だ。
竹内敏晴さんの『「出会う」ということ』藤原書店 (2009/10/21)も極めていい本だった。身体の道を究めた人がいう言葉は重い。





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ライプニッツ モナドロジー

モナドとは、宇宙を映し出している永遠の生きた鏡なのである。
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レヴィナス 全体性と無限 存在の彼方へ

他人が単なるもうひとりの私を越えた手の届かないものとして眼前に現れた時、眼の前へ到来してきたものが他者である。
それに応答すべき存在として私が倫理的に断ちあげられてしまう。
フッサールは私から他我へ、
だが、レヴィナスは他我から私へ。とした。
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アリストテレス 二コマコス倫理学

人間は幸福(エウダイモニア)になることを求めて生きている。
幸福は最高の善である。
環境的な条件に恵まれつつ、知的にも性格的にも最高度の説くを発揮しながら活動すること。
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アレント 人間の条件

誕生により、それまでの歴史になかった何か根本的に新しい事をこの世界に持ち込んだのだ。
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そうですよね。
僕らは幸福になるため、幸福にするためこの世に誕生してきました。

幸福や幸せというのは、客観的な基準では測ることができないもので、常に主観的に自分自身が感じないといけないもの。
そういうところにこそ、生と死の謎、存在の謎、時間の謎、、、、、いろんな謎のエッセンスが隠れているのだと思います。