自然。
Natureと自然(じねん)。
「自然」という漢字は、もともと「じねん」と呼ばれていた。
幕末から明治にかけて、西欧文化を取り入れるために、多くの翻訳語が急いで生みだされた。
Natureという英語に「自然」という漢字を当てて、「しぜん」と読むように、翻訳された。
もともとの「自然(じねん)」は荘子から来る。
漢字のとおり、「オノズカラ(自ら)、シカル(然る)」というもの。
本来的にそうであること、本来的にそうであるもの。あるがままのありかた。
外界としての自然界や、人間に対立する自然界という意味ではなかった。
「荘子 斉物論篇」『天地は我れと共に生じて、万物は我れと一たり』
「荘子 秋水篇」『道を以て之を観れば、物に貴賤なし』
客観的な対象物としてのNatureへの意識はあいまいで、その意味で人と自然の一体感は強かった。
老荘思想の「自然(じねん)」が、Natureと結合して「自然(しぜん)」という訳語ができたということは、「おのずから、しかる」そのありようを、山川草木、月日、四季・・・の在り方に引きつけて考えていたということだろう。
・・・・・・・・
日本の芸道では「自然」であることが好まれる。いろいろな行為が「自然に」行わなければいけない。それは、意識だけの「自我」の営みではなくて、意識も無意識も全部ふくめた「自己」に価値を置いていたということだろう。「みずから」動かす意識と、「おのずから」動かされる無意識。そのまとまりとしての自己。
だから、作品や芸術は「つくる」のではなく「うまれる」。
ニーチェは「神は死んだ」と言った。
僕らはそれを他人事だと思っている。
日本では、自然(じねん)のありさまをカミと見て、あらゆる自然にカミが宿ると考えていた。その感性はいまだに織り込まれている。
「自然科学」というもの、「自然」を自分と分離したものとして客観的に観察し、「科学」という自と他を分離して考えていくものの見方をとりいれて近代化した時点で、日本の「カミは死んだ」と言えるかもしれない。
海は汚染され公害を生み、土は掘り返されコンクリートで埋め立てられる。
自然科学で得た計り知れない恩恵もある。それは光。
ただ、同時に伸びた巨大な影がある。
ニーチェの「神は死んだ」という叫びから、ヨーロッパがより深い神へと理解を深めているように、日本での「カミ」の存在の理解に、「自然」への深い理解が始まる。
「自然」の前で、僕らの脳や五感や全ての細胞は、何かを受けとる。
微細なシグナルも、強大なシグナルも、ある。
それはほとんど言語化できない塊のようなもの。
「みずから」動かす意識と、「おのずから」動かされる無意識。そのまとまりとしての自己。
そんなまとまりとしての自己は、きっと「オノズカラ(自ら)、シカル(然る)」ものだ。
それは、山川草木、花鳥風月のありようや、四季のうつりかわりのようなもの。
だから、ヒトは川へ行く。海へ行く。森へ行く。山へ登る。 自然へと入る。
・・・・・・・・・・・
来週の連休、穂高に登山に行ってきます。
1年ぶりです。
Natureと自然(じねん)。
「自然」という漢字は、もともと「じねん」と呼ばれていた。
幕末から明治にかけて、西欧文化を取り入れるために、多くの翻訳語が急いで生みだされた。
Natureという英語に「自然」という漢字を当てて、「しぜん」と読むように、翻訳された。
もともとの「自然(じねん)」は荘子から来る。
漢字のとおり、「オノズカラ(自ら)、シカル(然る)」というもの。
本来的にそうであること、本来的にそうであるもの。あるがままのありかた。
外界としての自然界や、人間に対立する自然界という意味ではなかった。
「荘子 斉物論篇」『天地は我れと共に生じて、万物は我れと一たり』
「荘子 秋水篇」『道を以て之を観れば、物に貴賤なし』
客観的な対象物としてのNatureへの意識はあいまいで、その意味で人と自然の一体感は強かった。
老荘思想の「自然(じねん)」が、Natureと結合して「自然(しぜん)」という訳語ができたということは、「おのずから、しかる」そのありようを、山川草木、月日、四季・・・の在り方に引きつけて考えていたということだろう。
・・・・・・・・
日本の芸道では「自然」であることが好まれる。いろいろな行為が「自然に」行わなければいけない。それは、意識だけの「自我」の営みではなくて、意識も無意識も全部ふくめた「自己」に価値を置いていたということだろう。「みずから」動かす意識と、「おのずから」動かされる無意識。そのまとまりとしての自己。
だから、作品や芸術は「つくる」のではなく「うまれる」。
ニーチェは「神は死んだ」と言った。
僕らはそれを他人事だと思っている。
日本では、自然(じねん)のありさまをカミと見て、あらゆる自然にカミが宿ると考えていた。その感性はいまだに織り込まれている。
「自然科学」というもの、「自然」を自分と分離したものとして客観的に観察し、「科学」という自と他を分離して考えていくものの見方をとりいれて近代化した時点で、日本の「カミは死んだ」と言えるかもしれない。
海は汚染され公害を生み、土は掘り返されコンクリートで埋め立てられる。
自然科学で得た計り知れない恩恵もある。それは光。
ただ、同時に伸びた巨大な影がある。
ニーチェの「神は死んだ」という叫びから、ヨーロッパがより深い神へと理解を深めているように、日本での「カミ」の存在の理解に、「自然」への深い理解が始まる。
「自然」の前で、僕らの脳や五感や全ての細胞は、何かを受けとる。
微細なシグナルも、強大なシグナルも、ある。
それはほとんど言語化できない塊のようなもの。
「みずから」動かす意識と、「おのずから」動かされる無意識。そのまとまりとしての自己。
そんなまとまりとしての自己は、きっと「オノズカラ(自ら)、シカル(然る)」ものだ。
それは、山川草木、花鳥風月のありようや、四季のうつりかわりのようなもの。
だから、ヒトは川へ行く。海へ行く。森へ行く。山へ登る。 自然へと入る。
・・・・・・・・・・・
来週の連休、穂高に登山に行ってきます。
1年ぶりです。
宗教まったく入ってないですし、ハロウィーン、クリスマス、正月、盆なんでもやる典型的な日本人ですが(笑)、そういうカミは存在すると思いますね。
お墓参りをしたり、仏壇に手をあわせたり、先祖が霊としてみてるかどうかはわかりませんが、見守ってくれてる意識というのがあるから、間違ったことは出来ないなぁと思います。
フェイディアスって人の
「神々が見ている」
って言葉は非常に好きな言葉で、他人から見えなくても完璧を目指して物事に取り組む、自分を欺かないってのは大事だと思います。
http://conductor.cool.ne.jp/columm/2001/4.20.html
エピソードがあったので、リンク貼ってみます。
まあ、小さいころから「そぎゃんことすると、ばち当たるけんね!」と言われたからかもしれませんが。笑
ハーバード白熱教室で出されていた質問で、「同じ寮の友人がテストでカンニングしてるのを知ってしまった。あなたはどうするか。」という問いがあって、コミュニタリアンが「同じ寮の友人を裏切ることは出来ないから、告げ口しません」と考えたのには、びっくりしました。行き過ぎな考えだと思ったので、僕は完全なコミュニタリアンではないなと思いました。
それこそ、せせこましい自我にとらわれる自分を戒めてくれるというか。
そうそう。日本人はそういう超越的なものをカミと読んでるんだよね。
本居宣長も
***************
『尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(カミ)とは言うなり。』
***************
と言っているし。 わー!すごい!っていうものは、日本では全てがカミ様。
手塚治虫は漫画のカミ様。
松下幸之助は経営のカミ様。
日本にはカミ様がいっぱいいるんだよね。その一神教じゃない感覚が、すごく好き。
自分も、砂漠に育ってたら、やはりヤハウェの一神教を信仰してたのかなぁ。環境とか風土とか他者の影響って、ほんと大きいからね。
自分は、漫画のカミ様の手塚治虫の影響はすごく受けてるし。笑