「辞世の句」というもの、僕はすごく好きなのです。
みんな、人生いろいろあった。
寿命が長かろうが短かろうが、いろいろあった。
それを受けて、死ぬ間際にいろいろなものを全部込めて言う言葉。
そこには何がしかが含まれていると思うのですね。
それは言霊(コトダマ)のようなもの。
だから、昔から辞世の句を調べてはコツコツと、せっせと集めてきました。
今後、その著名人の時世の句を、「辞世の句シリーズ」として、少しずつブログにアップしてみようかと思います。
単なる衝動的な思い付きです。
思い立ったが吉日!
====================
◆辞世の句 その1
====================
高杉晋作
『おもしろき こともなき世をおもしろく
住みなすものは 心なりけり』
====================
【自由訳】
世の中を面白くしようとする心しだいで世界はおもしろくなる。
心次第でかわりうる世界に、僕らは住んでいる。
====================
【高杉晋作】
→1839~1867年。長州藩士。初の農民・町民での西洋式軍隊「奇兵隊」を創り、徳川幕府と戦う。
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みんな、人生いろいろあった。
寿命が長かろうが短かろうが、いろいろあった。
それを受けて、死ぬ間際にいろいろなものを全部込めて言う言葉。
そこには何がしかが含まれていると思うのですね。
それは言霊(コトダマ)のようなもの。
だから、昔から辞世の句を調べてはコツコツと、せっせと集めてきました。
今後、その著名人の時世の句を、「辞世の句シリーズ」として、少しずつブログにアップしてみようかと思います。
単なる衝動的な思い付きです。
思い立ったが吉日!
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◆辞世の句 その1
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高杉晋作
『おもしろき こともなき世をおもしろく
住みなすものは 心なりけり』
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【自由訳】
世の中を面白くしようとする心しだいで世界はおもしろくなる。
心次第でかわりうる世界に、僕らは住んでいる。
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【高杉晋作】
→1839~1867年。長州藩士。初の農民・町民での西洋式軍隊「奇兵隊」を創り、徳川幕府と戦う。
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もともとことば集めが好きなので、
個人的にかなりツボ。
はてさて、死ぬ間際というのは
どういう境地なのだろう。
どんな句を残すのだろう。
死後の世界は一体どんな感じなのだろう。
(何となく…皆様とはアチラの世界にも
色々話題を持ち越して果てしなく
話し続けている気がいたしますが^^。)
これだけは、そうなってみないと
分からないことですね~~
とはいえ、明日のこととて
明日になってみないと分からないのですよね。
私も「今日の言葉」カテゴリーを
独立させて作ろうかなぁ。笑。
名言集とか、辞世の句って普通に好きです。
名言集も、本当は前後の関係性があって、そのうえで出されている言葉なのですよね。
そういう意味で、辞世の句ってすごくわかりやすい。
前後の関係は
前=生きていたこと全部
後=死んだ後
という感じですもんね。
もちろん、みんながみんな、死ぬ間際に自分の思いを正直に表現できるわけではないですが、
でも、その不完全さも含めての辞世の句でもあると思うのです。
死への準備ができている人の言葉と、準備ができずに受け入れることができないままの言葉。
どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、一生に一回しか言えない言葉だけに興味深い。
死後の世界、これは話すと時間が足りないですねー。
というか、基本的に正解もないし、何言っても自由ですし。笑
まあ、何言っても自由なだけに、一番真実に近い世界を考えたいものです。
しかも、正解は死んだら分るはず。
「なんだーこんなことだったのー」なんて思うかもしれませんね。
先に逝った人からも、
「いやー、実はこんなことだったのよー。生前は色々お世話になったねー」
なんて井戸端会議始まるかもしれんし。
答え合わせ、楽しみだなー。
明日のことも、1秒後も、ワカラナイってのがほんとですよね。
過去と今は確かにあるのだけど、未来はワカラナイ。
だからこそ、そのベクトルを、希望のような陽の方向性に向けたくて、
それは、そんな陽の力を持つ人たちとの縁の中で生きていきたい
という発想にもつながる。
この辺の、生死とか死生観とか死後の世界とか生きることとかって、
まあみんな平等のテーマなので、掘り下げれば掘り下げるほど
お宝がドンドン発掘されておもろい。
糸井さんの徳川埋蔵金発掘みたいなものです。
「今日の言葉」シリーズ、僕は大ファンなので、独立させてあると楽しめる!
感じ入ったものは、個人的にメモ帳にテキスト保存してますよー。
>>>>>>>>>>H.P.様
Amazonで見たら、「生き方の鑑 辞世のことば」赤瀬川原平(講談社プラスアルファ文庫)って本ですかね。
でも、AmazonのReviewでだまされた!とか書いてありました。笑
意外に、このReview部分は参考にしている自分がいます。
大槻ケンヂもおもろいですよねー。好きだなー。みうらじゅんとかピエール瀧(電気グルーヴ)とかと同じ大河の流れを感じる人の一人です。
たぶん、ちょっぴりお茶目なH.P.さんだと想像しました。
同じ匂いをかすかに感じとってしもうたわ(笑)
そういえば、先日イギリス人に、日本人は腹切りのときに最期のポエムを読むよね、あれは興味深いと言われました。
死生観が滲み出ていてますよね、日本人の。
自分でも、辞世の句というのは、作ってみたいものだなあ。というか、辞世のエッセイでもいいけど。
ぼくは細川ガラシャのが和のこころを上手く表現していて好きです。
あとは、吉田松陰の時世の句かな。前は、ときどき松蔭神社に行ってました。
あと、亡国の詩として、武田勝頼なんかも気になりますね~。
楽しみにしてます。
そうそう、わだつみの声の辞世の句も、届けこの思い時空を超えて、というものもあってこころを熱くしてくれるよね。
ピアノ曲のような情感ある名前ですね
失態にした者の肩をぽんと叩いて下すって、ありがとうございました
Shinkさん:
とどけおかまし大和魂
このような端的な表現、我らにも成しうることでしょうか、頭でっかちではだめで、行動し実感を得た者のみが辿りつくのでしょうか
『辞世の句』って、それが本当に辞世の句なのかどうか、裏を確認するのも
難しいんだけど、まあ一応、そうと言われているものを少しずつメモしてたんで、
それを少しずつ公開していく予定。
『腹切りのときに最期のポエムを読む』
なんか、ポエムと言われると少し脱力しますが(笑)、
まあ確かにポエムですね。
日本人が、言霊コトダマを信じているからこそだと思います。
不吉なことを言うとバチがあたるとか、
そういう言霊信仰は健在だと思うのですが、
そんな風に、言葉の中に何らかの生命が宿っていて、
自分の肉体は朽ち果てるけど、生命の部分は言葉の中に
魂としていき続けるというような感覚。
そんな考えがあるからこそ、
死の間際に読む、辞世の句というものを大事にしていたのではないかと思う。
さすが、Shink氏も興味持ってるねー。
戦国時代とか乱世とか、
死自体が、現代とだいぶ意味が違ってたんだろうし。
あと、鹿児島県知覧町にある、知覧特攻平和会館
での、当時の青年たちの遺書のような最後の手紙も、
言ってみれば辞世の句と同じだけど、あれもあの場で読むと泣けます。
http://www.kagoshimakenjinkai.ne.jp/motto/chiran/kanko-1.htm
>>>>>>>>>>>>>>>H.P.
吉田松陰も30歳で死んでしまいますよね。
身は例へ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
とどけおかまし 大和魂
この言葉の力と、念の力はすごい。
確かに、彼の念は現代にも届いていると感じてしまう。
これこそが日本人の精神世界だと思いますね。
念のようなもので自分の思いは時間や空間を越えて伝播していくという発想法。
単なる唯物論な考えではない、日本人の文化の奥深さを感じる。
それは、日本の芸術すべての根底に流れているような気もする。
温故知新で、古き日本人をたずねることって、今の日本人、
そしてそんな日本人である自分を考える上で、切っても切り離さないのかもしれん
と、最近よく思いますね。
京都も文化強度が高いので、日々それを実感しとります。
呼応していただきありがとうございます。
確かに、彼の辞世の句は、その時の情熱というか熱度が今なお読むものの心に直接的に届いてきます。
彼は切腹も許されず、罪人として打ち首になっており、志半ばでさぞ無念だったことでしょう。
しかし、教え子たちが大切に遺体を回収し、大いなる悲しみに包まれるとともに時代を変える大きなエネルギーに変わりましたよね。
今なお、この句を音読してみると、何か超越的な魂がこの日本人に残り続けている気がします。
すぐれた教師とは、知識のみを授けるのではなく、学んだり、働いたりするモチベーションの導火線に火をともすのだ、と信じていますが、彼はまさにそのラストメッセージをこの句に託したと思います。
本当に成し遂げたいこと、それを時代、世代を超えて成し遂げたいと言う情熱が、この言葉を生んだのでしょうね。
諸々を超越する信念は、粗熱がとれた頃に鮮やかさを増すように感じます
超越する信念の対象は、より大きな母集団で、かつ、より善くといったベクトルのある願いに裏打ちされているので、やはり強烈な印象を受けます
日々病院で、目の前のことをこなすなか、虚しさに襲われることもありましたが、真心で患者さんに接する看護師さんの姿には、対象が一個の人間でありますけれど、教えられます
思想を言語化できるのか否か、あるいは明文化して伝えたい意思を持つのか否かで、教師は二種に分かれるのでしょうか
前からなんとなく感じている疑問です