日常

お能『イナンナの冥界下り』

2015-11-14 21:55:24 | 芸術
能楽師の安田登先生が企画された『イナンナの冥界下り』を観に、渋谷のセルリアンタワー能楽堂まで行ってきました。
素晴らしい舞台だった。お能というより、お能の枠を拡張させた総合芸術だと思った。
何かとんでもなく新しく斬新な未来的なものを見た余韻が残る。
すこし自分の意識の枠をずらして揺らして振動させて、意識の枠組みをグイグイと拡張させないと、適切な形で受容できないような。


先日の杉本博司さんの新作能「巣鴨塚」(2015-11-11 23:11:11)に続き、能三昧。
(自分もお能を真面目に習っているから、お能のかみさまが自分をひきあわせてくれているのかもしれない。)



ある枠をどこまで拡張させて超えていくか、というのはすごく難しいテーマだと思う。
そのオリジナルな原型を丁寧に残し、本質を損なわないようにしつつも、新たに時代と生命の息吹を与えること。

スーパー歌舞伎のワンピースも枠を拡張させる野心的な試み。これもすごく評判がよい。市川猿之助さんのバランス感覚がすごいんだろう。今回の安田登先生と同じ。

自分も専門分野の中で、いつもこの葛藤を保っている。前提となるフレームワークそのものを拡張させ、多様なものを受け入れていくこと。
葛藤は、矛盾ある葛藤として保ち続けていれば、いつか一つ上のレイヤーに移動して解決していくと、信じながら。


今回の『イナンナの冥界下り』は、色んな面でかなりチャレンジングで、実験的で野心的な試みだと思った。思考の枠そのものを拡張させる試みとして。
その枠は、芸能、能楽、神話、音楽、舞踊・・・色んな既成概念のフレームワークそのものを対象にしている。

この舞台は、どんどん進化していくだろう、ということを予感させるものだった。
おそらく、最初から未完成を保つことで、常に全方向へと進化できるような余白を残している。開かれた実験場としての芸術のようなもの。それこそが、芭蕉のいう不易流行だろう。かわらないものを核としながら、かわっていく。
大切なものは「完全性」「完璧さ」ではなく、「全体性」「総合性」なのだ。



古代メソポタミアのシュメール文明は紀元前3500年頃に起こったとされます。
シュメールの楔形文字で粘土板に記された最古の神話のひとつが「イナンナの冥界下り」です。
イナンナという女王が死んで再生する物語り。
ここには生や死に関する古代人の思考をトレースさせてくれる様々な謎やインスピレーションの源泉が潜んでいます。

ちょうど大学の書籍部に行ったら、11/11に発売されたばかりの「シュメール神話集成」(ちくま学芸文庫) が売ってあって思わず買った。きっとこれも偶然ではないだろう。



『イナンナの冥界下り』の神話は、冥界下り・死の起源神話、としても有名なもの。
ギリシャ神話でのオルフェウス冥界下りと、日本神話でのイザナギの冥界下りは似ている。
ギリシャ神話のデメテルと日本神話のアマテラスの岩戸隠れも、似ている。
もちろん、同じところもあれば、違うところもある。そんな共通項探しを、古代人の意識にチューニングして思いを馳せることは道楽として楽しい。

相違点よりも共通点を。違うことを探して対立するより、似ていることを探して調和したい。
そんな神話の源流として、シュメール神話の『イナンナの冥界下り』は位置付けられています。


死の神話は、生と死の謎を考える上で非常に重要な示唆に富んでいるものです。

若くて元気で、人を操作したり支配したり・・・そうしていると信じ込めている間は、あまり不安を感じないものです。
ただ、遅かれ早かれ、どんな人でもいのちが内在する「死」という秘密に出会うことになります。


「死」に関する神話を自分の中に深く落とし込むことで、生と死がつながり、生者と死者がつながるのだと思います。

ただ、神話学者のキャンベルは『神話の力』の中で、こう言いました。
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「これから長い長いあいだ、私たちは神話を持つことができません。なぜなら、物語は神話化されるにはあまりに速く変化しすぎているので。」
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「各個人が、自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていく必要があります。」
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→参考:キャンベル『神話の力』(2012-04-21)


解決は、個人に任されているのです。
以前のように、集団で神話を共有した時代は、個人が神話を読み解く必要はありませんでした。それにはいい面も悪い面もありました。

集団で神話を共有した時代、<個人の自由の束縛>が代償として存在していたわけですから。
だからこそ人は自由を求めましたが、その代償として個人の責任は重くなったわけです。
現代と言う時代の要請として、自分の生活の中に神話的な様相をみつけていくという、目に見えない荷物を背負っているのだと思います。


ちなみに。
日本神話でのイザナギの冥界下りは、古代人の死の解決の一つであると思います。

夫のイザナギは、黄泉国(あの世)と地上(この世)との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の地上側の出口を大岩で塞ぎ、妻のイザナミと完全に離縁しました。
イザナミが「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」と言うと、
「それならば私は、1日1500の産屋を建てよう」とイザナギは言い返した。
という内容です。

この部分を、
避けられない「死」を上回る「生」を創造することで死の問題を乗り越えようとした神話であると、自分は勝手に解釈しております。
日本は創造(Creation)により、死を乗り越えようとしたのです。
それは、個体としての死を超え、種としての生に託した、とも言えるかもしれません。
「いのち」の枠を、個人から種へと、もっと巨大なものへと拡張させたわけです。


シュメール神話も自分の中で熟読して熟成する期間が必要で、今回の公演は考えるきっかけを与えてくれる素晴らしい機会となりました。

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『古事記』(岩波文庫)より
最後(いやはて)に其の妹(いも)伊邪那美命(いざなみのみこと)、身自(みづか)ら追ひ来たりき。

爾(すなは)ち千引石(ちびきいは)を其の黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞へて、其の石を中に置きて、各対(おのおのむか)ひ立ちて事戸(ことど)を度(わた)す時、伊邪那美命、言(まを)したまはく、
「愛(うつく)しき我が汝夫(なせ)の命、如此(かく)為(し)たまはば、汝(みまし)の国の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちかしら)絞(くび)り殺さな」
とまをしたまひき。

爾(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、詔(の)りたまはく、
「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、汝(いまし)、然(しか)為(せ)ば、吾(あれ)一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ」とのりたまひき。

是を以て一日に必ず千人(ちたり)死に、一日に必ず千五百人(ちひほたり)なも生まるる。
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シュメール神話で大事だなと思う点は、<女性性>から<男性性>優位の時代へと移行するリンクにもなっている、ということです。


古代社会では女性性の社会が長く続いていたと思います。
なぜなら、いのちを産み、育むのが女性だからです。
ただ、ここ数千年から現代に至るまで、男性性の強い支配型の社会が長く続きました。
大航海時代、植民地主義、産業革命、戦争、資本主義・・・と。
おそらく、そろそろ男性性の強い支配型社会は終わりへと向かい、社会全体が男性性と女性性の結婚(ヒエロスガモス=聖婚)や統合が起きるのだと思います。男性性と女性性のバランスを考えて統合する時期なのでしょう。(自分は2020年がその節目と、仮に決めてます)

そういう未来のようなことを思い馳せるのも、シュメールで古代を思い返したからだと思います。
現代が、ちょうど古代と未来のリンクになるわけですから。
時代や人類や意識の流れ、のようなものに思いを馳せます。


古代社会の女性性に関しては、ユング心理学のノイマン「グレートマザー」「意識の起源史」が参考になります。

バハオーフェン(Johann Jakob Bachofen)の一連の著作(「母権制」「母権論」)なんかも古典ですよね。つまみ読みしかできてませんが。













背景描写はこれくらいにして。

今回の『イナンナの冥界下り』(安田登先生)は本当にすごかったです。色々な点で驚き、のけぞりました。

何がすごいかというと、能楽を主軸として据えながら、言語は日本語とシュメール語が織り交ざっています。
能楽だけではなく、そこにコンテンポラリーダンス、能管、三味線、人形浄瑠璃、ダフ(中東の打楽器?)、ライアー(シュタイナー、竪琴)、オペラ、コロス(合唱隊)・・・色んな技を持った人々が、多細胞生物のように調和的な生命体を作り上げていった舞台なのです。

お子さん能楽師が出てきたのも素晴らしかった。
老若男女こそ、多様性や全体性の象徴。社会の縮図です。
お年寄りや子供を、あの世に近い存在だから神さまとして敬意を示す文化は、豊かな文化だと思います。
翁(おきな)や童(わらべ)として、民俗学でも伝承されています。

(黒田日出男「境界の中世 象徴の中世」(1986)より)




芸術とは美であり、それは調和(Harmony)だと思います。
異質なものがバラバラになろうとするとき、そこをつなぎとめるのが美であり芸術です。
時代が危機的な状況を迎えた時に、バラバラになろうとするとき、美や芸術の力が必然的に求められます。
それは伝統の中に、密やかに祈りを込めて折りたたまれ、大切に大切に保存されているのです。


今回の舞台も、能楽を軸にしているからこそ、この多様な統合体としての総合芸術は成立したのではないか、と思いました。それくらい圧倒的なものがありました。

ギャフンとするほどの圧倒的な技と美を垣間見たのは、人形師の飯田美千香さん(人形の眼と振る舞いが人間以上に人間だった。人間の本質を抜き出し、並び替え、それを人形がまとっているような・・)、能楽師の安田登先生(声と存在感がすばらしい・・・)、奥津健太郎さん(動きと声が圧倒的・・)。浪曲師の玉川奈々福さん(語りもすごいが、泣き声のときにあまりの音の高さで能楽堂に超音波が走った・・)。
時に挿入される笛方の槻宅聡さんの音色もすごかった。笛の音色で、体が数cm浮いたかと思うほどでした。
もちろん、その他の出演者の方も素晴らしかったのは言うまでもないです。


多様性と調和。
これこそ、いのちの原理であり、自然の摂理だと思います。
新しい芸術へ。伝統芸能を受け継ぎながら、未来の芸能の世界へと。

今後の更なる進化が楽しみです。
色々な場所で上演されるようですから、ご興味ある方は是非ぜひ行ってみてください。


体感が全てです。
頭ではなく、からだ全体で、空間全体で感じるものです。空間そのものが、からだになるように。






「イナンナの冥界下り」HP

「イナンナの冥界下り」
シュメール神話『イナンナの冥界下り』を上演するための雑感を書くブログです。(浪曲師 玉川奈々福さん)

■ミシマ社から、本も出てます。
「コーヒーと一冊」シリーズ第2弾 
『イナンナの冥界下り』安田登


安田登先生 (@eutonie)のTwitterは情報量多し


P.S.1
不定期に安田登先生の寺子屋(広尾 東江寺)が行われていますが、12/7月曜(ほぼ決定)は、実は自分もゲストとして登場します・・・。何の話になるのやら!(まだ正式なアナウンスされてません・・・。)

P.S.2
ちなみに。最近の自分の仕事中のBGMは、
仕舞「高砂」 観世流 シテ・観世清和
です。Youtubeすごい。。。

高砂は世阿弥作。
夫婦の和合と長寿、和歌の徳、国の平安を祝福するもの。
なんとも素晴らしいではないですか!


世阿弥『風姿花伝』第五 奥儀に云う
「そもそも、芸能とは、諸人の心を和らげて、
上下の感をなさんこと、寿福増長の基、
遐齢延年(かれいえんねん)の法なるべし。
きはめきはめては、諸道ことごとく
寿福延長ならんとなり」