日常

「こころ」と「道」

2009-10-04 09:33:54 | 考え
オリンピック誘致に関して、「こころ」や「道」に関して考えたことを書き連ねてみる。


オリンピックが東京で開かれないということだった。
代わりにブラジルで開催される。ブラジルは未開催だったみたいだし、現地の人の熱狂ぶりを見ると、ブラジル開催で本当によかったと思う。

ちなみに、<オリンピックを東京で!>という誘致のためのイベントだけで合計150億円も使っているらしい。浮世離れした金銭感覚だと思う。



オリンピック誘致に関して、正直なところ僕らパンピー(一般ピープル)の間では大した熱狂もなかったと思う。
日本でオリンピック誘致に熱狂していた人は、ごく一部だった。少し浮いていたと思う。



では、何故日本でオリンピック誘致に大して熱狂しなかったのか。

それは、日本のスポーツに対する考えが大きい影響を与えていると思う。


日本は、スポーツというよりも、武道、剣道、柔道・・・「道」という漢字がついているものをイメージする。

これは、武道などは単なる肉体運動や勝ち負けで終わるのではなく、自分の精神や心を深めたりする営みを重視していて、「ワタシ」という人格の深みに達するための「通り道」としてそれらのものが位置していたからだと思う。



オリンピックに代表される近代スポーツが追及した「勝ち負け」の世界。
それは、人の頭を踏みつけて自分が高みにたち、高い場所から低い場所を見下ろすという構図。
これは金融資本主義の構造と似ている。自意識や欲望が過剰に膨らんでいく構造。



それに対して、武道、剣道、柔道・・・「道」がつくものは、「からだ」を通して「こころ」の鍛錬を重視ていていた。



僕は、「こころ」は脳の機能(働き)にすぎないと思っている。

「こころ」に実態はない。
「こころ」は見えない。持てない。触れない。 
それは、脳の機能(働き)にすぎない概念を「言葉」にしただけだからだ。



胃が消化・吸収という機能(働き)を持つ。
心臓が血管を介して循環という機能(働き)を持つ。
肝臓が解毒やタンパク質の合成という機能(働き)を持つ。・・・・・・・・


それと同じである。
心臓に「循環という物」はない。それは、機能であり、働きを意味する言葉である。


ただ、意識という産物があるから、「こころ」という何かがあるように錯覚する。それは、単に「意識」に自分が引っ張られているからである。
(この辺りは、どんどん脳科学の専門的な話になっていくので、もう少し深く考えたら噛み砕いて説明したいところです。)


「こころ」は、単に脳の機能(働き)に過ぎない。
だからこそ、「こころ」は陽の方向にも、陰の方向にも容易に振れる。
善悪の概念も、時代や状況に応じて変化しうる。


それは、機能(働き)にすぎない「こころ」の働きだから、その「場」の力に応じて方向性が振れていくのです。



昔の人は、それを「直観」で分っていた。

ちなみに、「直観」とは、「直に観る」ことであり、一瞬にして部分ではなく全体を把握することなのだと思う。
たとえば、「直観」でものを好きになるとは、一瞬で「全体」を把握した奇跡的な瞬間なのだと思う。だからこそ、「直観」は自分にとって信憑性が高いことが多い。



実態があるものは「からだ」であって、「からだ」という全体にとっての部分に過ぎない「脳」がある。「脳」は意識を生み出す。意識がある間に起きている。起きている間は自分の自由意志で生活しているから、そこに引っ張られる。


「こころ」は、そんな脳の機能(働き)に過ぎない。
そのことを昔の人は直観で分かっていた。


だから、「からだ」を通して「こころ」の大きさや方向性を、「庭の手入れ」のように補正していた。
そして、「からだ」は「自然」そのものである。


「自然」は、ちっぽけな人間の自意識だけでは到底制御できない。
せいぜい、「庭の手入れ」のようにちょこちょこ方向性を補正するくらいしかできない。
でも、それで十分なのであり、それが大事なのだ。



「庭の手入れ」は、自然と関わった時間の長さがものを言う。
だから、自分より長く生きている人の経験は重要である。そこから、「老い」に対する敬意が生まれる。


先生とは「先に生まれる」と書く。だから、目上の人は先生なのである。



オリンピックや近代スポーツの発想では、目上の人、お年寄りに対する敬意は生まれない。
「からだ」というよりも、「筋肉・瞬発力・弱肉強食」のような要素を重視するあまり、筋肉が衰えた人、つまり「病い」「老い」に対する適切な眼差しが消えていく。


老いに対する敬意が生まれない社会は、健全とは思えない。
なぜなら、老いは僕ら誰にとっても、「未来」そのものであるから。




日本人のように、武道、剣道、柔道・・・のような「道」がついたものを歴史的に醸成してきた人たちは、本当は直観的に気づいている。だから、オリンピック誘致に対してそこまで熱狂できない。


むしろ、オリンピック経験後に、その競技者が安らかで充実した人生を生きているとか、人の敬意を受けている老いた生きざまとか、オリンピックの「その後」を見たいのだ。

それは、常に歩いている「道」そのものであり、宴の後に終わりはないのである。





4 コメント

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オリンピックについて (YUTA)
2009-10-04 12:39:39
いやー、東京が選ばれなくてほっとしました。都民の間でオリンピックなど話題になっていませんよ。私も、石原が選挙対策で言い出しただけだと思ってました。

日本人が招致運動に熱狂しない理由は、武道とスポーツの対比よりも、市民主導の文化が無いことだと思います。スポーツだけでなく、政治・芸術・教育などあらゆる面で政府に指示されて活動する官僚主権国家であることが問題なのではないでしょうか。小学校に入って以来、ずっと組織の規則と命令に従うだけで自発的に動けない国民性を何とかしなければなりません。

日本人もスポーツは好きで、プロ野球の集客力は世界的にも大きいものです。しかし、楽天球団ができた時も、仙台市民の招致運動により誕生したのではありませんでした。企業が決めただけです。

1964年の場合は新幹線・高速道路・テレビなどの国家的大事業と結びついて、政府主導で成功したのでしょう。しかし、雇用・貧困・年金・医療が大問題になっている今では、政府に対して冷たい視線が投げかけられ、オリンピックに大金を投じることを国民は認めないでしょう。
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閉じると開く (いなば)
2009-10-05 10:43:01
>>>>YUTA様
書き込みありがとうございます。確かに、僕も市民主導の文化とか、そういう要素のほうが大きいと思います。ほとんど思いつきで書きたいこと書いてるので厳しく突っ込まれると穴だらけなのです。笑


なかなか、今の日本って<僕らが何かをやることで変わる>という実感が持てないですよね。すごく遠い、対岸の火事のように見えてしまいます。
天下国家、日本の話だと僕にとっては大きすぎる話でもありますが、大学病院ひとつとってもそうです。非常に官僚的でシステムが固定化してしまって、前例踏襲主義で、患者さんが何を求めているか、そんな他者に応じて自己を変革していこうという意識があまりにも希薄です。自意識過剰でえらそうにふんぞりかえっているのが大学病院。大学病院のあり方は、日本の縮図を見ているようで非常に興味深いんですよね。
働いている人たちも、絶望的に何も変わらなもので、もう何も変えようとも思わなくなってくるし、改善なんて夢の夢のような話になっています。

それは、追求していると<自己と他者論>に通じています。自己としての医師・医療者・病院と、他者としての患者さんの関係性。ここをどう捉えていくかというのは、表面的な対症療法ではなく、根治療法として今後避けては通れないところですね。今は<見ざる、言わざる、聞かざる>状態なのです。


オリンピックに大金を投じることもそうですし、その前段階で150億もかけてるっていうのが少し浮世離れしてますよね。僕らの税金ですしね。僕もあまり政治には詳しくないので、大学時代の友人からいつも学ばせてもらっていますが、若く志高い人たちが、余計な足をひっぱられずに<この国のかたち>を作っていけるような社会になればいいです。
日本は基本的に島国なので閉じていて、鎖国も含めて閉じたことで生まれた素晴らしい文化や国民性も勿論あります。でも、その反面、閉じた社会が作った官僚主義、村社会・・いろんな弊害もある。
今後、日本は閉じたり開いたり、閉じながら開いたり、常に考えながら世界でのポジションを考えないといかんでしょうね。オリンピックなんかも、日本だけの問題ではないわけですからね。世界の中でどう位置づけていくかという部分と全体の問題なんでしょうし。



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スポーツについて (YUTA)
2009-10-10 18:37:53
お返事ありがとうございます。

>自意識過剰でえらそうにふんぞりかえっているのが大学病院。

私は『白い巨塔』を読んだことはないのですが、他のお医者さんのブログなどを見ても、大学病院の封建時代と変わらないヒエラルキーや教授たちの選民意識は信じ難いものがありそうですね。

さて、この一週間ほどスポーツについて考えてきましたが、まず断っておくと私はこの10年以上もお金を出してスポーツを観た記憶が無いので、熱心に観る人の気持ちは分からないのです。テレビで観る程度の関心から述べますが、やはり日本のプロ野球の観客数と、ずっと立って叫び続ける熱心さは凄いですね。でも何だか、その熱狂が球場の中だけに留まっているように思います。ファイターズがパリーグ優勝を果たしましたが、札幌全体が沸いたというようなニュースも聞きません。メジャーリーグや欧州のサッカーと比べて、地域社会とのつながりが圧倒的に弱い気がします。それでも観客が多いのは、「応援」というスポーツをプレーしに行ってるからではないでしょうか?選手のプレーを観るのではなく、自分がプレーするという……。

しかし、スポーツを観て熱狂するのが必ずしも良いことではないですね。ブラジルとアルゼンチンはサッカーに熱狂していますが、貧困層の多さとその原因である貧富の格差が大きい社会構造から国民の眼を逸らせるために、政治家に利用されている面があります。欧州でもイギリスでは階級制度への不満を発散する場になったり、スペインでは地域対立の表現であったりしています(マドリードがオリンピックにこだわるのもバルセロナへの対抗心でしょう)。

そうなると、スポーツに熱狂する必要のない社会の方が健全な気がします。元々近代スポーツは貴族や金持ちの遊びだったわけで、オリンピックのようにメダル獲得戦争でナショナリズムを煽るのはスポーツの悪用ですね(一番成功したのがヒトラーのベルリン五輪)。しかし、そのオリンピックが世界にスポーツを広めたのは皮肉なことです。サッカーや野球もプロチームを作りファンを熱狂させることで、競技人口が増えレベルが上がっていきました。やはり本質はプレーするためのスポーツにあるのでしょうが、観るためのプロスポーツが既に大きなビジネスになっていて、この傾向は終わりそうにありません。
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祭り (いなば)
2009-10-12 09:48:45
>>>>>YUTA様
『「応援」というスポーツをプレーしに行ってる』
っていうのは正しくそうでしょうね。ストレス発散とか気分転換っていう感覚の人はきっと多いと思います。
部活で<マネージャー>って立場の女子とかいますよね?そういう立場の人も、同じような立場の人の気もしてきました。

『スポーツがどんどん大きなビジネスになっていく』
これは、僕も小学生くらいの時にその全貌を徐徐に感じ始めました。プロレス観戦に行ったとき、有る筋の人たちが異常に多かったんですよね。しかも一番前のリングサイドだけはがらんとあいていて、僕らのような熱狂的なファン自体はどう頑張っても後ろの方の席しかとれない、みたいなシステム。あれが、はじめてスポーツ(プロレスはスポーツでもショーでもない不思議なジャンルですが)が裏の世界やビジネスの世界とつながっていると把握した最初の記憶です。

あと、科学(サイエンス)の世界も似たようなところがあると思います。
ニュートンでもガリレオでもそうですが、昔は金持ちで偶然頭イイ人たちが、暇を持て余して真理に到達するために実験とかをして、天文学やったり物理・数学をやっていた。
職業的サイエンティストっていうのが出てきて、科学でお金をもらえるようになったのは本当に近代の事です。作家とかもそういうとこあるかもしれません。

親の遺産が莫大にあるとか、元々が金持ちでお金を稼ぐ必要がない人、もしくは何か生活の糧となる仕事を別にしている人が科学者だった。そこではビジネスとか資本主義とは結び付かない純粋なものだったんですよね。

今はその辺がねじれてきてる。お金が動く研究をしないといかんとか。大学も独立行政法人化してしまいましたしね。

まあスポーツとは違うかもしれませんが、昔のスポーツは純粋に体を動かして、自分の肉体の減退を追及していくことにあったんだと思うんですよね。そこで順位付けとかができてきて、そこに資本主義的世界が合体しちゃったというか。人が移動するところにお金のにおいを感じた人がいて。


僕が好きな将棋や登山の世界は、そういうのがないから好きなんですよね。将棋は純粋に知性や理性の追及だし、登山はさらに体を含めた自分の限界への追及ですし。

そういえば、小学時代にサッカー、中学時代にバドミントンを部活でやってましたが、なんとなく勝ち負けとかの尺度で測られたりするスポーツがどんどんいやになってきて、そういう世界から逃れたくて、登山とかに入っていったってのはあります。本能的な逃走だったのかなー。

あ、かなり脱線してすみません。

とにかく、スポーツでの高揚や喚起を、政治やナショナリズムに悪用する人がいるから話がややこしくなるんですよね。観客や人々のエネルギーの場としては確かにものすごい。あそこがガス抜きの場になっているんでしょうし。

日本だと、祭りとかが近いのかもしれませんね。スポーツでの熱狂より、祭りでの熱狂の方が、日本人の感覚としてはしっくりくるんじゃなかろうか。
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