映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」をDVDで久しぶりに見た。
(→予告編の動画はこんな感じです。)
大学生のときに映画館で見た記憶がある。
2000年度のカンヌ映画祭でパルムドールも受賞している。
当時見た時、最後の衝撃的なシーンに引きづられ「こんな辛い表現で終わらせる必要があるのだろうか。ハッピーエンドにはならなかったのか」と自分に都合よく解釈してしまい、映画全体が包む内容をよく把握できなかった。
でも、何か心にトゲが刺さり、ずっと気になっていた映画でもあった。
当時の自分にはありのままを受信するセンサーが育ってなくて、ありのままを受け取れなかったようだ。
この映画を見てみようと思ったきっかけが複数ある。
--------------------------------------
1:ランディさんと雑談をしていて、「ラース・フォン・トリアー監督はすごい」という話になった。ニコール・キッドマン主演の「ドッグヴィル」のDVDをランディさんから借りて観た(この映画もかなり濃密)。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」も、ラース・フォン・トリアー監督だったことにふと気づいた。
2:神楽坂に能を見に行く前、よしもとばななさんの「彼女について」の感想を語り合った(→以前、感想も書いた。『田口ランディ「パピヨン」、よしもとばなな「彼女について」(2009-01-12))。その時、話の流れは「夢」と「鎮魂」の話題へ。世阿弥とばななさんの世界は近いと話していて、「ダンサー・イン・ザ・ダークも、ミュージカルと鎮魂の話じゃないか」と話題が展開した。
3:盲目のピアニスト辻井さんの演奏の素晴らしさから、彼が見ている世界を自分なりに考えた。特に「見る」ということ。
⇒『「無」から見ること(2009-06-14)』、『鏡を通して世界と出会う。(2009-06-15)』など。
ふと、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でのビョークも、弱視から徐々に盲目へと視野が変化していく話であったことを思い出した。
--------------------------------------
いろんな話題が「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の辺縁をまわっているような気がして、ふと9年ぶりに観た。
結果、とにかくすごい衝撃を受けた。「嗚呼・・・」と声が漏れる感じでコトバにならなかった。
「もののあはれ」は、元々「嗚呼(ああ)」という感嘆詞。そこから「喜び」「悲しさ」「嬉しさ」「楽しさ」「辛さ」・・・色んな感情に「名前」がつけられ枝分かれしたらしい。そんな進化論のような話を竹内整一先生から聞いたような気がする。
映画の中に出てくる「I've Seen It All」という歌は、映画の世界観を象徴していると思った。
============================
「I've Seen It All」(YouTubeの動画はココ)
============================
I've seen it all
I have seen the trees
I have seen the willow leaves
Dancing in the breeze
I've seen a man killed
By his best friend,
And lives that were over
Before they were spent.
I've seen what I was
And I know what I'll be
I've seen it all
There is no more to see
(You haven't seen elephants, Kings or Peru)
I'm happy to say. I had better to do
(What about China? Have you seen the Great Wall?)
All walls are great. If the roof doesn't fall.
(And the man you will marry. The home you will share)
To be honest, I really don't care
(You've never been To Niagara Falls)
I have seen water. It's water, that's all
(The Eiffel Tower And the Empire State)
My pulse was as high On my very first date
(your grandson's hand, As he plays with your hair)
To be honest, I really don't care
I've seen it all
I've seen the dark
I've seen the brightness
In one little spark
I've seen what I chose
And I've seen what I need
And that is enough
To want more would be greed
I've seen what I was
And I know what I'll be
I've seen it all
There is no more to see
(You've seen it all
And all you have seen
You can always review on
Your own little screen
The light and the dark
The big and the small
Just keep in mind
You need no more at all)
You've seen what you were
And know what you'll be
You've seen it all
There is no more to see
============================
【日本語訳】
私はもう見たのよ 緑の木々も見た
私は見たのよ ヤナギの葉がそよ風に踊るのも
私は見たのよ
男が親友に殺されるのも
命を全うする前に人が死んでゆくのも
過去の自分も見たし 未来の自分も分かってる
何もかも見た今 もう見るものは何もない
(まだ見てないよ 象も王様もペルーも)
私は幸せなことに、他にすべき事があるの
(中国はどうだ?万里の長城の壁は見たか?)
どの壁もすごいわ 天井さえ落ちてこなければ
(君の夫になる男は?彼と築きあう家庭は?)
正直言って、そんなもの 興味がないのよ
(ナイアガラの滝もまだ見てないよ)
でも水を見た。 滝なんてただの水。それだけよ。
(エッフェル塔は?エンパイア・ステイト・ビルは?)
私の脈拍も高かったわ 生まれて初めてのデートで
(孫息子の小さな手は?君の髪をいじる手は?)
正直言って、そんなもの どうでもいいのよ
私はもう見たのよ 暗闇も見た
フラッシュのような光の一瞬のきらめきも見た
自分の選んだものも 必要なものも目にした
それでもう充分なの これ以上は欲張りというもの
過去の自分も見たし 未来の自分も分かってる
すべてを見てしまったから もう見るものは何もない
(君は全てを見た。
君だけの心のスクリーンに
今まで見たものはいつでも映し出せる
まばゆい光も 漆黒の闇も 大きなものも小さなものも
だから心に刻むがいい これ以上は要らないと)
過去の自分も見たし 未来の自分も分かってる
何もかも見た今 もう見るものは何もない
============================
■眼と耳 空間と時間
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見て、「眼と耳」のことを考えていた。
眼は、物事を画像・映像として切り取る。そこに時間は流れない。
そして、常に「全体」から入るものが眼であり映像である。
時間がない代わりに、そこには空間がある。
たとえば、絵を見るとき。いきなり部分から見ることはない。まず、絵全体を見て、そこから部分に入る。これが眼の世界の特徴だ。
耳の世界には時間が流れている。時間から逃げることはできない。まず、部分から入り、そこから全体へと至る。
たとえば、音楽を聞くとき。音楽全体を聞いた瞬間に全体を理解することはできない。
メロディーやリズムやハーモニーがあり、時間と共に耳を通して感じる。耳の蝸牛(かたつむり)で可聴域の周波数を分析する。音波の振動を聴覚として感じる。
耳は振動の入り口。波であり時間。
そして、部分から全体へと至る。
耳と目は、違う方向性から近づく。耳は部分から全体へ。目は全体から部分へ。そして二つは結び付く。
視覚を持つ人は、眼で「全体」を先に捉えてしまうので、視覚を優先的に使う。
眼からは大量に過剰の情報が流れ込んでくる。
・・・・・・・
ランディさんのブログに共感した。
⇒「Find the root(2009-10-03)」
『目よりも耳である。年をとってなおさら感じるのは耳の不可解さであり、
目への興味があまりなくなった。目は耳に比べると単純すぎる。
なので、私は「原始の記憶」は耳に宿ると考える。
断じて目ではない。
人間は全身が耳であり、全方位的な感覚として音を浴びている。
しかも自らの音と共振させて外部の音を感知している。』
・・・・・・・
■全体から部分へ、部分から全体へ
眼は「全体」を一瞬で把握する。だから眼にとらわれやすい。
映画自体が視覚が優先される。漫画も視覚文化だ。
『百聞は一見に如かず』という諺もあるくらい。
視覚や眼からの情報に引きずられすぎると、耳からの情報感知を疎かにしてしまう。
耳からの情報を統合させないと、時間軸が消えた情報になる。
眼と耳のバランス。視覚と聴覚のバランス。
それは空間と時間のバランスでもある。
バランスは「みずから」と「あのづから」の両方向性との塩梅で決まってくる。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でのビョークは、空間と時間のバランス、眼と耳の均衡が失われてゆく。
それに加え、悲劇的な状況がビョークを巻き込み、その不均衡は死へと方向づけられてしまう。
■
『You've seen it all There is no more to see
何もかも見た今 もう見るものは何もない』
という台詞があったが。
平家物語における平知盛の最期の言葉は
「見るべきほどのことは見つ。今は自害せん。」
だった。
眼によって全体から部分へ。耳によって部分から全体へ。
眼は常に全体から入ってくる宿命を背負う。時には過剰で苦しい。
ビョークの言葉からは、そういう視覚世界そのものの深い悲しみも感じた。
ビョークは悲しみを空想の中でのミュージカルで変容させていく。
それは自分への鎮魂のようなものだ。
よしもとばななさんも世阿弥も、鎮魂は夢で行われる。夢という無意識世界は、そういう偉大で神聖な儀式を静かに営んでいる。
ミュージカルは真似ること。
田口ランディ「聖なる母と透明な僕」(2009-01-04)の本の感想から引用する。
****************************
本書は、『真似ること、語ること、そして飛ぶこと』という文章で、演劇とシャーマニズムの共通点を語るところから始まる。
古来、人間は動物を真似る儀式を行うことで自然や世界を学んでいた。真似ることで学ぶ。そして、動物を真似る時に自分が作る「私」という概念から逃れるときがあり、そこで本質的な「私」に出会う。
演劇でもシャーマニズムでも真似る行為が本質にある。
そして、私を真似るという行為こそが、自分を物語ることであり、物語ることは自分を表現することである。そのような文章を前置きにこの本は始まる。
****************************
この映画は一見すると衝撃的なシーンで終わっているが、それは必ずしも絶望ではないと、今回は思った。
絶望にするか希望にするか、悲劇にするか喜劇にするか、最終的なシナリオは見ているものが決める問題なのだ。
絶望を感じるのは、視聴者が「映画」での「視覚」情報に強くひきずられすぎなことを皮肉にも証明しているのかもしれない。
■「終わり」ではなく「続く」
ラストの場面で印象的な歌がある。
============================
愛するジーン
あなたが そばにいる
だから もう何も 怖くない
忘れていたわ
わたしは独りぼっちじゃない
これは最後の歌ではないわ
バイオリンの音もしなければ
コーラスもない ダンサーもいない
これは「最後から2番目の歌」
それだけのこと
ママの言いつけを守るのよ
忘れないで パンを包むこと
ちゃんとなさい ベッドも直すのよ
これは最後の歌じゃないわ
バイオリンの音もしなければ
コーラスもない ダンサーもいない
これは「最後から2番目の歌」
それだけのこと
============================
They say it's the last song
They don't know us, you see
It's only the last song
If we let it be
これは最後の歌じゃない
分かるでしょう?
私たちがそうさせない限り
最後の歌にはならないの
============================
汽車の警笛
甘いオレンジ
ブルーベリーの実
ラインダンス
クモの巣
パン屋の看板
甘いオレンジ
ラインダンス
生きることが見ることなら
かたずを呑んで
待つわ 胸を躍らせて
次に何が起こるのか
新しい世界を 見るために
見るために
見るために
============================
最後まで音の振動がビョークの体全体から流れていた。
僕らが「終わり」と言葉で規定すると、本当に「終わる」。構造が閉じるのだ。
「最後から2番目」と歌うことで世界が開かれて展開する。そうすれば物語は永遠に「続く」。
だから、映画は終わらずに「続く」のだ。閉じずに開かれるのだ。
死で人生が閉じるのではなく、本当は人生は次の世界に開かれていく。続いていく。
映画を体験した人は自分の中に小さな死を通過する。そのことが、新しい生へとつながって連続していくのだと思う。
(→予告編の動画はこんな感じです。)
大学生のときに映画館で見た記憶がある。
2000年度のカンヌ映画祭でパルムドールも受賞している。
当時見た時、最後の衝撃的なシーンに引きづられ「こんな辛い表現で終わらせる必要があるのだろうか。ハッピーエンドにはならなかったのか」と自分に都合よく解釈してしまい、映画全体が包む内容をよく把握できなかった。
でも、何か心にトゲが刺さり、ずっと気になっていた映画でもあった。
当時の自分にはありのままを受信するセンサーが育ってなくて、ありのままを受け取れなかったようだ。
この映画を見てみようと思ったきっかけが複数ある。
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1:ランディさんと雑談をしていて、「ラース・フォン・トリアー監督はすごい」という話になった。ニコール・キッドマン主演の「ドッグヴィル」のDVDをランディさんから借りて観た(この映画もかなり濃密)。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」も、ラース・フォン・トリアー監督だったことにふと気づいた。
2:神楽坂に能を見に行く前、よしもとばななさんの「彼女について」の感想を語り合った(→以前、感想も書いた。『田口ランディ「パピヨン」、よしもとばなな「彼女について」(2009-01-12))。その時、話の流れは「夢」と「鎮魂」の話題へ。世阿弥とばななさんの世界は近いと話していて、「ダンサー・イン・ザ・ダークも、ミュージカルと鎮魂の話じゃないか」と話題が展開した。
3:盲目のピアニスト辻井さんの演奏の素晴らしさから、彼が見ている世界を自分なりに考えた。特に「見る」ということ。
⇒『「無」から見ること(2009-06-14)』、『鏡を通して世界と出会う。(2009-06-15)』など。
ふと、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でのビョークも、弱視から徐々に盲目へと視野が変化していく話であったことを思い出した。
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いろんな話題が「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の辺縁をまわっているような気がして、ふと9年ぶりに観た。
結果、とにかくすごい衝撃を受けた。「嗚呼・・・」と声が漏れる感じでコトバにならなかった。
「もののあはれ」は、元々「嗚呼(ああ)」という感嘆詞。そこから「喜び」「悲しさ」「嬉しさ」「楽しさ」「辛さ」・・・色んな感情に「名前」がつけられ枝分かれしたらしい。そんな進化論のような話を竹内整一先生から聞いたような気がする。
映画の中に出てくる「I've Seen It All」という歌は、映画の世界観を象徴していると思った。
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「I've Seen It All」(YouTubeの動画はココ)
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I've seen it all
I have seen the trees
I have seen the willow leaves
Dancing in the breeze
I've seen a man killed
By his best friend,
And lives that were over
Before they were spent.
I've seen what I was
And I know what I'll be
I've seen it all
There is no more to see
(You haven't seen elephants, Kings or Peru)
I'm happy to say. I had better to do
(What about China? Have you seen the Great Wall?)
All walls are great. If the roof doesn't fall.
(And the man you will marry. The home you will share)
To be honest, I really don't care
(You've never been To Niagara Falls)
I have seen water. It's water, that's all
(The Eiffel Tower And the Empire State)
My pulse was as high On my very first date
(your grandson's hand, As he plays with your hair)
To be honest, I really don't care
I've seen it all
I've seen the dark
I've seen the brightness
In one little spark
I've seen what I chose
And I've seen what I need
And that is enough
To want more would be greed
I've seen what I was
And I know what I'll be
I've seen it all
There is no more to see
(You've seen it all
And all you have seen
You can always review on
Your own little screen
The light and the dark
The big and the small
Just keep in mind
You need no more at all)
You've seen what you were
And know what you'll be
You've seen it all
There is no more to see
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【日本語訳】
私はもう見たのよ 緑の木々も見た
私は見たのよ ヤナギの葉がそよ風に踊るのも
私は見たのよ
男が親友に殺されるのも
命を全うする前に人が死んでゆくのも
過去の自分も見たし 未来の自分も分かってる
何もかも見た今 もう見るものは何もない
(まだ見てないよ 象も王様もペルーも)
私は幸せなことに、他にすべき事があるの
(中国はどうだ?万里の長城の壁は見たか?)
どの壁もすごいわ 天井さえ落ちてこなければ
(君の夫になる男は?彼と築きあう家庭は?)
正直言って、そんなもの 興味がないのよ
(ナイアガラの滝もまだ見てないよ)
でも水を見た。 滝なんてただの水。それだけよ。
(エッフェル塔は?エンパイア・ステイト・ビルは?)
私の脈拍も高かったわ 生まれて初めてのデートで
(孫息子の小さな手は?君の髪をいじる手は?)
正直言って、そんなもの どうでもいいのよ
私はもう見たのよ 暗闇も見た
フラッシュのような光の一瞬のきらめきも見た
自分の選んだものも 必要なものも目にした
それでもう充分なの これ以上は欲張りというもの
過去の自分も見たし 未来の自分も分かってる
すべてを見てしまったから もう見るものは何もない
(君は全てを見た。
君だけの心のスクリーンに
今まで見たものはいつでも映し出せる
まばゆい光も 漆黒の闇も 大きなものも小さなものも
だから心に刻むがいい これ以上は要らないと)
過去の自分も見たし 未来の自分も分かってる
何もかも見た今 もう見るものは何もない
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■眼と耳 空間と時間
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見て、「眼と耳」のことを考えていた。
眼は、物事を画像・映像として切り取る。そこに時間は流れない。
そして、常に「全体」から入るものが眼であり映像である。
時間がない代わりに、そこには空間がある。
たとえば、絵を見るとき。いきなり部分から見ることはない。まず、絵全体を見て、そこから部分に入る。これが眼の世界の特徴だ。
耳の世界には時間が流れている。時間から逃げることはできない。まず、部分から入り、そこから全体へと至る。
たとえば、音楽を聞くとき。音楽全体を聞いた瞬間に全体を理解することはできない。
メロディーやリズムやハーモニーがあり、時間と共に耳を通して感じる。耳の蝸牛(かたつむり)で可聴域の周波数を分析する。音波の振動を聴覚として感じる。
耳は振動の入り口。波であり時間。
そして、部分から全体へと至る。
耳と目は、違う方向性から近づく。耳は部分から全体へ。目は全体から部分へ。そして二つは結び付く。
視覚を持つ人は、眼で「全体」を先に捉えてしまうので、視覚を優先的に使う。
眼からは大量に過剰の情報が流れ込んでくる。
・・・・・・・
ランディさんのブログに共感した。
⇒「Find the root(2009-10-03)」
『目よりも耳である。年をとってなおさら感じるのは耳の不可解さであり、
目への興味があまりなくなった。目は耳に比べると単純すぎる。
なので、私は「原始の記憶」は耳に宿ると考える。
断じて目ではない。
人間は全身が耳であり、全方位的な感覚として音を浴びている。
しかも自らの音と共振させて外部の音を感知している。』
・・・・・・・
■全体から部分へ、部分から全体へ
眼は「全体」を一瞬で把握する。だから眼にとらわれやすい。
映画自体が視覚が優先される。漫画も視覚文化だ。
『百聞は一見に如かず』という諺もあるくらい。
視覚や眼からの情報に引きずられすぎると、耳からの情報感知を疎かにしてしまう。
耳からの情報を統合させないと、時間軸が消えた情報になる。
眼と耳のバランス。視覚と聴覚のバランス。
それは空間と時間のバランスでもある。
バランスは「みずから」と「あのづから」の両方向性との塩梅で決まってくる。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でのビョークは、空間と時間のバランス、眼と耳の均衡が失われてゆく。
それに加え、悲劇的な状況がビョークを巻き込み、その不均衡は死へと方向づけられてしまう。
■
『You've seen it all There is no more to see
何もかも見た今 もう見るものは何もない』
という台詞があったが。
平家物語における平知盛の最期の言葉は
「見るべきほどのことは見つ。今は自害せん。」
だった。
眼によって全体から部分へ。耳によって部分から全体へ。
眼は常に全体から入ってくる宿命を背負う。時には過剰で苦しい。
ビョークの言葉からは、そういう視覚世界そのものの深い悲しみも感じた。
ビョークは悲しみを空想の中でのミュージカルで変容させていく。
それは自分への鎮魂のようなものだ。
よしもとばななさんも世阿弥も、鎮魂は夢で行われる。夢という無意識世界は、そういう偉大で神聖な儀式を静かに営んでいる。
ミュージカルは真似ること。
田口ランディ「聖なる母と透明な僕」(2009-01-04)の本の感想から引用する。
****************************
本書は、『真似ること、語ること、そして飛ぶこと』という文章で、演劇とシャーマニズムの共通点を語るところから始まる。
古来、人間は動物を真似る儀式を行うことで自然や世界を学んでいた。真似ることで学ぶ。そして、動物を真似る時に自分が作る「私」という概念から逃れるときがあり、そこで本質的な「私」に出会う。
演劇でもシャーマニズムでも真似る行為が本質にある。
そして、私を真似るという行為こそが、自分を物語ることであり、物語ることは自分を表現することである。そのような文章を前置きにこの本は始まる。
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この映画は一見すると衝撃的なシーンで終わっているが、それは必ずしも絶望ではないと、今回は思った。
絶望にするか希望にするか、悲劇にするか喜劇にするか、最終的なシナリオは見ているものが決める問題なのだ。
絶望を感じるのは、視聴者が「映画」での「視覚」情報に強くひきずられすぎなことを皮肉にも証明しているのかもしれない。
■「終わり」ではなく「続く」
ラストの場面で印象的な歌がある。
============================
愛するジーン
あなたが そばにいる
だから もう何も 怖くない
忘れていたわ
わたしは独りぼっちじゃない
これは最後の歌ではないわ
バイオリンの音もしなければ
コーラスもない ダンサーもいない
これは「最後から2番目の歌」
それだけのこと
ママの言いつけを守るのよ
忘れないで パンを包むこと
ちゃんとなさい ベッドも直すのよ
これは最後の歌じゃないわ
バイオリンの音もしなければ
コーラスもない ダンサーもいない
これは「最後から2番目の歌」
それだけのこと
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They say it's the last song
They don't know us, you see
It's only the last song
If we let it be
これは最後の歌じゃない
分かるでしょう?
私たちがそうさせない限り
最後の歌にはならないの
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汽車の警笛
甘いオレンジ
ブルーベリーの実
ラインダンス
クモの巣
パン屋の看板
甘いオレンジ
ラインダンス
生きることが見ることなら
かたずを呑んで
待つわ 胸を躍らせて
次に何が起こるのか
新しい世界を 見るために
見るために
見るために
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最後まで音の振動がビョークの体全体から流れていた。
僕らが「終わり」と言葉で規定すると、本当に「終わる」。構造が閉じるのだ。
「最後から2番目」と歌うことで世界が開かれて展開する。そうすれば物語は永遠に「続く」。
だから、映画は終わらずに「続く」のだ。閉じずに開かれるのだ。
死で人生が閉じるのではなく、本当は人生は次の世界に開かれていく。続いていく。
映画を体験した人は自分の中に小さな死を通過する。そのことが、新しい生へとつながって連続していくのだと思う。
だけど、映画全体からは、人はどんなに残酷ですさまじい状況におかれても、心の中だけは無限だ。そこには大きな広がりやたくさんの色が溢れている。誰がなんと言おうと、心の中だけは誰にも侵せない。というメッセージを強く感じました。
視覚と聴覚の話、興味深いですね。
人間は目で「見る」ことでいろんなことを限定しているのかもしれませんんね。
本当に、このポイントは無限に広がるテーマだよね~
視覚的に捉えられるものの限界、または視覚的に切り取られた世界だからこそ意識を向けないもの、それは大いにあるように思います。
英語の
I've seen it all
There is no more to see
"see"はまさに「見る」というより「視覚が捉えて見える(目に入ってくる)」ということもありますが、そこから派生して「体験を通して実感する」という意味も含みます。
とすると、
I've seen it all
は、「全てを見てきた」→「視覚的を超えて、実感としても感じられる意味で『全てを見てきた』」と言っているんだろうなぁ。
英語、また改めて読みます!
こころの自由さとか、こころの中までは誰にも侵されないというもの。
それがビョークのミュージカルシーンから強く感じました。
同じような悲劇的なことを感じるにも、踊りながら、歌いながらそのことを言葉にするだけで、その人自体が鎮魂されていく。そういうプロセスを垣間見た気がします。
視覚って、もちろん能力の一つではあるけど、そのことで見える世界と見えない世界という風にに分割することにもなるわけで、結果として世界を分断させてしまう。その境界やあわいの世界がわからなくなりますね。 視覚障害者は、見えない世界で一つになっていますから。
患者さんで盲目の人と話していると、その内的な世界の深さを、少し話すだけで直観的に感じます。時々鳥肌立つこともあるし、いかに自分が自意識過剰に世界を切り取っているかを自覚させられる。 『喪失と獲得』っていうのも深いテーマです。
またこの年齢になって再度この映画を見ると、色々感じることが違うと思う。深い映画や本は何度度の鑑賞にも耐えられるから。また見なおしたら、ぜひ感想聞かせてくださいな。
>>>>>>>>>>>ともこ様
『"see"はまさに「見る」というより「視覚が捉えて見える(目に入ってくる)」ということもありますが、そこから派生して「体験を通して実感する」という意味も含みます。』
そうだよねー。
何かを「凝視して見る」というより、なんとなく見えてしまうとか、別に見ようと意識しないけど目に入ってくるとかそういう漠然とした感じもあるし、見える転じて分かるって意味もあったりしするし。
英語のプロ中のプロであるともこさんに、またその辺聞いてみたい。
日本語でも、「見えた!」っていうとき、視覚的に見えたという意味も含むけど、見切れたとか、その深い部分の真髄が体感したとか、身体感覚を伴うものとしても使いますすよね。単に視覚情報として切り取るというだけではない、すごく深い深い本質的なものが見えたという意味でも使う。
その意味で、視覚的な「見える」っていうのは、逆説的に、表面的なものしか見えていないって否定的な意味に転じたりすることもある。
人の外見で判断するとか、表面だけで判断するっていうのは、否定的な意味で「見えてない」っていう逆の意味にも転じちゃいますよね。
「心の目」っていう比喩もあるし、これは視覚的な表面的な目をむしろ否定しているような言い方だし。
そういえば、恵比寿の東京都写真美術館で見てきた写真も、『心の眼 稲越功一の写真』っていうタイトルだった。
http://www.syabi.com/details/inakoshi.html
写真は表面的な視覚映像をとらえるものだけど、その先の見えないものや写真にうつらないものを表現しようとする。それ自体は方法論的な矛盾のようで、奥深い無限の広がりも同時に感じる。裏の裏を返すと表になるような感じで、深いなー。
ま、智子さんも新婚旅行終わってゆっくりしたら、是非DVDででも見てみてくださいよー。旦那さんとみると、暗ーい気持ちになるかもしれんから要注意ですけど!