日常

学びと自由

2014-08-01 06:27:57 | 考え
例えば。
僕らが外国語を学習するのは、そこに不自由を感じずに自由を感じるため。
一度は基礎的なことを学ぶ。それはあくまでも自由になるために。

仕事における色んな技術や知識も同じもの。
それは未知の言語を習得することと似ている。
そこに不自由を感じているから学ぶのであり、そこから自由を感じるようになれば、基礎的な学びは終了している。不自由を感じているか、自由を感じているかはひとつのポイントになる。
自由を感じるために、一度は学ばないといけない。そこを通過した上で、知識や技術から自由になれる。

あとは、後学のために自分なりのヒントを考え、さらなる創造を生んでいく未来の人たちへと、トーチを渡す。


中学生に「勉強は好きなんですか?どうしたら好きになれるんですか。」と聞かれた。

学ぶということは宇宙や自然と一つになること。
知るということはそういう宇宙の叡智を思い出すこと。想起すること。

だから、好きとか嫌いの次元の問題ではなくて、そういう次元を超えた世界での営みだと思う。それは誰もがつながっている。
心を介して大自然とつながった学びの最中には、好きとか嫌いとか、そういう個の感情や個そのものが、自分の中に全く見当たらない。
別の表現をすれば、個の意識が元々は存在しなかった、ということも同時に思いだす。


・・・・
答えになってたかなぁ。



■村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

「自由にものを考えるというのは、つまるところ自分の肉体を離れるということでもあります。自分の肉体と言う限定された檻を出て、鎖から解き放たれ、純粋に論理を飛翔させる。論理に自然な生命を与える。それが思考における自由の中核にあるものです。」
「ずいぶんむずかしそうだね」
灰田は首をふった。
「いいえ、考えようによっては、とくにむずかしいことではありません。多くの人が時に応じて知らず知らずでそれを行い、そうすることでなんとか正気を保っています。ただ、自分がそうしていることに本人が気づかないだけです。」



2 コメント

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はじめまして (たまみ)
2014-08-03 10:48:13
はじめまして、です。
少し前からブログを時々拝見させていただいております。
「自由になるために学ぶ」という考え方にはちょっとビックリしました。
仕事をしている中でいつもなんとなく不安でなんとなく中途半端な感じがつきまとっていたのですが、それこそが不自由で、自由になれるまでもっともっと基礎的な努力が必要なんですね、きっと。
面白いことを気づかせていただき、ありがとうございます。

そらにしても、中学生からの質問ですが、中学生のレベルで答えてあげるとすれば(例えばいなばさんの中学生時代とか、受験勉強のようないわるゆる勉強という意味で、とか)なんて答えてあげますか?
よければ、知りたいですー(=^x^=)
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対話 (いなば)
2014-08-03 20:23:57
>たまみさん
コメント有難うございます。
そうですね。僕らは自由のために学んでいるのだと思いますね。本来は偏見から自由になるのが学問なのですが、今は偏見を補強するために、不自由になるために知識を得ている学者が多く、とても残念に思っています。

あと、勉強に関しては、基本的に<今後の人生、自分自身で問題を解決するため、その予行演習として学校で学ぶことの学びをしている>という風に教えています。その辺りは、一般常識とすこし話しているフォーカスが違うように感じることが多々ありますため、別スレッドで、学生との対話編、という形で載せますね。(^^
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