日常

コトバの伝達

2014-02-14 14:01:10 | 考え
コトバの伝達について考える。

色んな本でもネット空間でも、「言葉」の概念レベルでは大抵のことが言い尽くされている。
愛が大事だ、親切にすることが大事だ、相手の立場になって物事を考える・・・・などなど。

そういう言葉は日常的にやり取りされている。
ただ、氾濫しているのは記号化したコトバであって、それは人間の浅い層で絶え間なく移動する情報のひとかけらに過ぎない。
頭の中で情報としてやり取りされている限り、そこで感じられる温もりは一時的なものでしかない。



僕らは、ほんとうにだいじなものは何か、必ず分かっているはずだ。
いまさら、新しいものはない。思い出すことが大事だ。
人間は3歳で重要な情緒がそろい、5歳では成人と同じだけ情緒が分化している。
そんな成長の過程の中で、重要なことはほぼ全て理解しているはず。
魂の深いレベルでは分かっているはずだ。



だからこそ、なぜあるときに届く言葉があり、ある時に届かない言葉があるのか。
残るものと残らないものがあるのか。
浅いものと深いものとがあるのか。
温度が持続しないものと持続するものがあるのか。

その辺りを、日々の臨床における対話(Dialogue)の中でよく考えていた。
これは、医療の現場でよく思う事でもある。


・・・・・・

たいせつなことは、コトバそのものの力(言霊)以外にも、コトバが届く媒体としての空間が準備されているか、そこに時は満ちているか、そういうことが大事なのではないかと思っている。


そのためには、まず自分自信が頭と心の蓋を外し、自然そのものと共鳴し、嘘偽りのない存在の状態であることが、まずスタートなのだと思う。自然と和すること。頭で嘘をつかないこと。


そんな状態になると、自分はすべてのプラスもマイナスも受け入れることができる。そこに偏見はない。怒りも悲しみも喜びもすべて、自分の器に受け入れることができる。そこにわだかまりはない。


木々や花々や草草のように、風や水のように、自分が自然と共鳴し和していれば、その場全体が自然そのものとなり、ある共鳴状態を起こす。その場が共振することで準備ができる。
そんな場でコトバが放たれると、コトバはそのオリジナルな形を保ちながら、無垢で純粋で原石なまま運ばれる。相手の魂が深い眠りについていても、思わず目を覚ますことがある。朗報が記載された速達を受け取るように。




言葉の放ち方も重要だ。

相手の魂をめがけて言葉を放つと、時に暴力的で支配的に感じられしまうこともある。
それは人を一時的に魅惑するけれど、長くは続かないものだ。


だから、自分の重心と相手の重心の間あたりに言葉を放つ。
こちらが届け、相手が受け取る。その歩みが同じくらいになるように。
卵の殻が破れる時、内側からのヒナの刺激と外側からの親からの刺激とが同程度の時に、卵が割れるように。そして、生まれる。


水の波紋がゆっくりとつたわるように、コトバの波紋をゆっくりと相手へ届ける。
それは、自分なりの相手への敬意表現でもある。
不用意にいきなり土足で相手の聖域(サンクチュアリ)には入ることはしない。

その場やその空間を感じ、聞き手の重心の位置を把握し、自分と聞き手全員との重心やバランスに気を配りながら。 コトバ同士が互いに共鳴を起こす。その場に存在する波動としての人間も、巻き込まれ、共鳴していく。



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医療の臨床現場では自分はそういうわきまえで相手と接している。
それは相手への敬意であり、相手を尊重しているという非言語のメッセージでもある。
生きている以上、存在は全て肯定されているのだ。それは幾度となく確認して、確認しすぎることはない。


相手の魂に触れるとき、それは相手の聖なる空間に入るときでもある。
十二分に敬意を払いながら。敬意は払いすぎて払いすぎることはないものだから。
そして、相手の許可が得られればその聖なる空間に導かれて入ることもある。
時が満ちていないときは、引き返すこともしょっちゅうある。

時が満ちているかどうかは、自然の運行に近いものもあるので、そこに逆らうことはしない。

すべては、しかるべき時に、しかるべき時が満ちて起こるものだ。