ルネ・デカルトの『方法序説』(1637年)。
「方法的懐疑」を説いた。
確かなものに到達するまで、まず疑うことから始めた。
自然を疑い、対象として分離して、自然科学も生まれたんだろう。
だけど、それは同時に色んな副作用を生んだとも思う。
今後は、それとは逆の姿勢が大事になる。
最初の向きが違えば、到達する場所も違う場所へ行くからだ。
大事なことは、まず最初に「信じる」ということ。
すべてを「信じる」ことからはじめるということ。
自分は、今後、そこからはじめる。
そうしないと、新しい学問への道は生まれないんじゃないかな。
うたがわない。
まず、しんじる。すべてを信じる。
そこが次の時代のはじまりとなる予感がする。
■
森信三
「信とは、人生のいかなる逆境も、わが為に神仏から与えられたものとして回避しない生の根本態度をいうのである。」
『森信三 一日一語』より
■
村上春樹「1Q84」より
○Ella Fitzgerald, "It's Only a Paper Moon"
○It's Only A Paper Moon (Frank Sinatra - with Lyrics)
It's Only A Paper Moon
Without your love
It's a honky-tonk parade
Without your love
It's a melody played in a penny arcade
It's a Barnum and Bailey world
Just as phony as it can be
But it wouldn't be make-believe
If you believed in me
君の愛がなければ
それはただの安物芝居に過ぎない
ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
全てが本物になる
「方法的懐疑」を説いた。
確かなものに到達するまで、まず疑うことから始めた。
自然を疑い、対象として分離して、自然科学も生まれたんだろう。
だけど、それは同時に色んな副作用を生んだとも思う。
今後は、それとは逆の姿勢が大事になる。
最初の向きが違えば、到達する場所も違う場所へ行くからだ。
大事なことは、まず最初に「信じる」ということ。
すべてを「信じる」ことからはじめるということ。
自分は、今後、そこからはじめる。
そうしないと、新しい学問への道は生まれないんじゃないかな。
うたがわない。
まず、しんじる。すべてを信じる。
そこが次の時代のはじまりとなる予感がする。
■
森信三
「信とは、人生のいかなる逆境も、わが為に神仏から与えられたものとして回避しない生の根本態度をいうのである。」
『森信三 一日一語』より
■
村上春樹「1Q84」より
○Ella Fitzgerald, "It's Only a Paper Moon"
○It's Only A Paper Moon (Frank Sinatra - with Lyrics)
It's Only A Paper Moon
Without your love
It's a honky-tonk parade
Without your love
It's a melody played in a penny arcade
It's a Barnum and Bailey world
Just as phony as it can be
But it wouldn't be make-believe
If you believed in me
君の愛がなければ
それはただの安物芝居に過ぎない
ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
全てが本物になる
すごい力だと思ってます。(^O^)
箸でつっついてないで、丸かじりすれば
案外美味しいなんてことも
あるよね☆
すいっち
有難うございます。そういう素直な時期を、そろそろ思い出した方がいいですよね。
いまはなんでも不信から始まって物事のシステムを作ろうとしてますが、それは常に不信の残響音が響き続ける呪縛的なシステムのような気がしますね。
信からはじめる、っていうのは、簡単でいて、パワフルな力を持っていると思います。(^^
信じ、尊敬し、愛することができる存在が見つかった人は、幸せな人だといっていい。
信仰とは求めるものでもあるが、求めて必ず見つかるというものでもないからだ。
それは出会うものであり、向こうからやってくるものでもある。
その出会いは、「偶然」かもしれない。
人はみな、人生のどこかでそのような「偶然」に出会う、と考えた宗教家もいた。
「偶然」がむこうからやってきて、人をとらえる。
すべての人を引き寄せようとする。
その大きな見えない力を彼らは「他力」と呼んだ。
「他力」が物理的な引力以上の、たしかな力になるかどうかは、それを一途に信じるかどうかにかかっている。
だから、愚者のように率直に信ぜよ、と親鸞はいうのだろう。
信じるってことは、自分の選んだ道をひたすら歩き続けることのような氣がします。
私も、信じることから、始めようかな、
と思いました。。。
五木さんの言葉、深いですね。そして素敵ですね。
そういうのを聞くと、人間って言うのは信じる者を求めている存在なのかな、と思いますね。
信じるというのは表面では裏きられることと表裏一体なのでそこに恐れが伴いますが、そのさらに深い層を見ると、実はそういうこととまったく無関係な層が広がっていると思いますね。どんなことでも、信じることを貫けば、意味が変容していくような。そんな気が突然しました。だから、自分もいろんなことを信じようかな、と改めて思いました。(^^
いつもありがとうございます。
私も「信じることが大切」だと信じています。
これまでの、学問でしっかりと疑いぐせがついてしまいました。それをそのまま、人間関係に持ち込むと、何もかも疑わしく感じて「愛」とは縁遠くなってしまうような気がしています。ときと場合によっては、信じることは難しいかもしれませんけれど、前向きに信じ続けたいと思います。
批判的精神を失ってはいけません。それは医師としての自殺であり、自分だけではなく他人まで巻き込む盲信への道です。
オウム事件の教訓は本当に大事だと自分も思います。
信じる心そのものは大事なのだと思いますが、信じる対象と、信じる行為が洗脳でないかどうか、その辺りがポイントになると思いますね。
いまは時代が集団洗脳の様相を呈しているので、自分のあたまで考え、自分のからだやこころで判断していくこと。そういうことが求められているのだと思います。 医療の基本は、相手の可能性を信じることがベースにあります。いまは悪い状態でもいい状態に変化していくのではないか、、、、そういうことを信じながら、医療は行われているのだと思います。
それもオウム真理教が主張していたことです。世の中のみんなが洗脳されており、麻原だけが真理を知っているのだということでした。そしてどんどん閉鎖的になり、教団の外部の人の言うことを全く聞かなくなりました。もしいなばさんが、既に「世の中の人々は集団洗脳されている」と主張する教祖や師匠や超能力者や霊能者などの言うことを信じ込んでいるとすれば、危険な状態だと言えます。林郁夫医師が通った道を辿らないために、批判的精神を保ち続けてください。
深く共感しています。
自分の体と心は、他ならぬ自分のもの。
病との対峙は、闘いになることもあるでしょうし、闇に閉ざされるような孤独な面もあるのではないか、と思います。
信頼関係によって起きる、人と人の化学反応は、希望や生きる悦びに、とても良い影響があると思います。
有難うございます。
医療の現場で、相手を疑うことからはじまるのと、相手を信じることからはじまるのでは、かなり結果が異なると思います。
この意味で信じるとは、相手の表面だけではなく、深い部分を信じる、という意味も含んでいます。
それはもともと人間の魂と表現された場所でしょうか。その魂の領域ではすべて分かっている。深い場所をぐっと信じれば、浅い場所はいづれ変わっていくのだと思います。
大抵の場合、その根っこにある深い場所を信じずに疑っていると、表面もぐらぐらと揺れてくる、そういう印象を持っていますね。
ひとを信じるというのは、表層だけではなく深層を見るろいうこととつながっているので、だからこそ日々の日常こそが大事なのだと思いますね。(^^