映画版「薔薇の名前」 を見ました。
スリリングでかつ知的。かつ映像も素晴らしい。最高だったー!
****************
ショーン・コネリー (出演), クリスチャン・スレーター (出演), ジャン=ジャック・アノー (監督)
<内容紹介>
宗教裁判が激化している中世のヨーロッパで、イタリアの修道院での会議にイギリスの修道士ウィリアム(ショーン・コネリー)と、見習いのアドソ(クリスチャン・スレーター)が参加していた。
そこで不審な死を遂げた若い修道士の死の真相解明を任された二人が謎を探るうちに、再び殺人事件が発生する・・・。
『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の名匠ジャン=ジャック・アノー監督による、中世の雰囲気を存分に醸し出す、謎に充ちたゴシック・サスペンスの傑作!
****************
多方面の友人から薦められたので改めて見てみた。以前買った小説版は長くて、上巻しか読んでない・・・。
■
「薔薇の名前」のタイトルにも示唆されるように、「唯名論」のようなものも裏テーマにあるようだ。
「名前」が普遍観念で実在か、「薔薇」こそが具体的事物で実在で「名前」は形式に過ぎないのか・・・
というようなこと。当時の宗学論争なども。
<本質的ではない>ことに話がそれ出しても、人間の情熱は不毛な論争を繰り返すとことに使われることもよく分かる。人間は自分が作り出した閉鎖回路(closed system)から逃げられなくなる。作ったことも忘れるし、出ることも忘れる。
不毛で果てしない宗学論争も、映画で客観的に見ると滑稽に見えた。
実際、当時の厳格なキリスト教では「笑い」はタブー視されていたよう。この映画でも重要な伏線になっていた。
「笑い」でGODを相対化してしまうと、すべての教義が崩壊してしまう。「笑い」には絶対性を崩壊する力がある。「笑い」の記述があるアリストテレス「詩学」を、なかったことにするため命をかけて守ろうとする人物も出てきた。
それだけ、人間は「名前」に縛られると言う事だろう。
「名前」は固定化する。固着化する。前提を疑わなくなると「名前」に付着するイメージに、呪術的に自分が縛られることになる。
村上春樹さんの「ねじまき鳥クロニクル」にも、アーシュラ・K. ル=グウィンの「ゲド戦記 影との戦い」にも、「名前」が重要なテーマになってたのを思い出した。
ゲド戦記の「影との戦い」では、「真(まこと)の名」を知ることの戦いでもある。「真の名」を知ることは、自分が見ないふりをして抑圧してきた「影」との対決であり、「影」との統合にもなる。それは人間のこころの成長のプロセスでもある。
魔法や呪術の世界では「名前」を知らないと魔法がかけられない。そのため、呪術的世界では絶対に自分の名前を明かさない、ということもあった。
名前を与えると言う事は、無意識内の無形のものに、意識世界での生命を与えることに等しい。見えない世界から見える世界へ橋をかける。
名前という枠を与えることで、人間は認識しやすくなる。
逆にいえば、僕らは「名前」を当てられていないものに未知を感じ、恐怖や恐れを感じるということでもある。
ただ、この映画では「名前」が自分の心にクサビを打つように「名前」に縛られてしまう愚かさをも感じた。
登場人物で、唯一あの女性だけが「名前」を与えられていないことにこそ重要な意味があるのだろう。「薔薇の名前」というタイトルも示唆的だ。(これは映画を見てもらった方がいい。)
===================
村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」
===================
私の名前を見つけてちょうだい。
あなたは私のことをとてもよく知っている。
私もあなたのことをとてもよく知っている。
でも、私は私のことをぜんぜん知らないの。
===================
私たちが進化するためには、死というものがどうしても必要なのよ。
死というものの存在が鮮やかで巨大であればあるほど、私たちは死にもの狂いでものを考えるわけ。
自分でうまくやれた、別の自分になれたと思っていても、そのうわべの下にはもとのあなたがちゃんといるし、何かあればそれが「こんにちは」って顔を出すのよ。
あなたはよそで作られたものなのよ。
だからあなたは仕返しされてるのよ。
自分が捨てちゃおうとした世界から、あなた自身から。
===================
ここは血なまぐさい暴力的な世界です。強くなくては生き残ってはいけません。
でもそれと同時に、どんな小さな音をも聞き逃さないように静かに耳を澄ませていることもとても大事なのです。
よいニュースというのは、多くの場合、小さな声で語られるのです。
===================
手がかりは何もない
でもね、僕は少しずつわかってきたんだ。何かをしなくちゃいけないんだということがね。
ただじっと座って帰りを待ってちゃダメだ。僕はいろんなことを自分の手で明確にしなくちゃならないんだ。
ここで何かが自分に求められているという予感なり感触なりを、僕はどうしても震い落とすことができないんだ。
僕が逃げることができないというのは、そういうことなんだよ。
僕の手でこの世界に引き戻すんだよ。
そうしないことには、僕という人間もまた、このまま失われ続けることになるんじゃないかと思う。
===================
一見関係ないようで、春樹ワールドに近接したものを感じた。
映画で出てくる女性を主人公にすると、「ねじまき鳥」の世界に重なるような。
人間は過去生の影響を受け続ける?
ただ、人間の「瞳」には、全ての過去生の記憶が刻まれているらしい。
愛も悲しみも・・・、全部を見てきた「瞳」。
■
いろんなことを示唆する映画でした。映像も素晴らしい。
「本」とか「書物」というものへの愛も伝わった。
映像表現も素晴らしく、登場人物のキャラクターがすべて濃くて面白い。
全員が何か秘密を持ち、その秘密を全員が共有していることで危ういバランスがとれているような、そういう絶妙な人間描写が最高だった。
そして、膨大な過去の集積の上にある「今」という時代に生まれ落ちていることに、日々感謝をしないといけないと強く思いました。
----------------------------
ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」
----------------------------
「夢は一巻の書物だ。そして、書物はすべて夢なのだ。」
----------------------------
「迷宮を脱け出す規則さえ見つけられれば、この世はどれほど美しくなることだろうか」
----------------------------
「真理に対する不健全な情熱からわたしたちを自由にさせる方法を学ぶこと、それこそが唯一の真理だからだ。」
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スリリングでかつ知的。かつ映像も素晴らしい。最高だったー!
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ショーン・コネリー (出演), クリスチャン・スレーター (出演), ジャン=ジャック・アノー (監督)
<内容紹介>
宗教裁判が激化している中世のヨーロッパで、イタリアの修道院での会議にイギリスの修道士ウィリアム(ショーン・コネリー)と、見習いのアドソ(クリスチャン・スレーター)が参加していた。
そこで不審な死を遂げた若い修道士の死の真相解明を任された二人が謎を探るうちに、再び殺人事件が発生する・・・。
『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の名匠ジャン=ジャック・アノー監督による、中世の雰囲気を存分に醸し出す、謎に充ちたゴシック・サスペンスの傑作!
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多方面の友人から薦められたので改めて見てみた。以前買った小説版は長くて、上巻しか読んでない・・・。
■
「薔薇の名前」のタイトルにも示唆されるように、「唯名論」のようなものも裏テーマにあるようだ。
「名前」が普遍観念で実在か、「薔薇」こそが具体的事物で実在で「名前」は形式に過ぎないのか・・・
というようなこと。当時の宗学論争なども。
<本質的ではない>ことに話がそれ出しても、人間の情熱は不毛な論争を繰り返すとことに使われることもよく分かる。人間は自分が作り出した閉鎖回路(closed system)から逃げられなくなる。作ったことも忘れるし、出ることも忘れる。
不毛で果てしない宗学論争も、映画で客観的に見ると滑稽に見えた。
実際、当時の厳格なキリスト教では「笑い」はタブー視されていたよう。この映画でも重要な伏線になっていた。
「笑い」でGODを相対化してしまうと、すべての教義が崩壊してしまう。「笑い」には絶対性を崩壊する力がある。「笑い」の記述があるアリストテレス「詩学」を、なかったことにするため命をかけて守ろうとする人物も出てきた。
それだけ、人間は「名前」に縛られると言う事だろう。
「名前」は固定化する。固着化する。前提を疑わなくなると「名前」に付着するイメージに、呪術的に自分が縛られることになる。
村上春樹さんの「ねじまき鳥クロニクル」にも、アーシュラ・K. ル=グウィンの「ゲド戦記 影との戦い」にも、「名前」が重要なテーマになってたのを思い出した。
ゲド戦記の「影との戦い」では、「真(まこと)の名」を知ることの戦いでもある。「真の名」を知ることは、自分が見ないふりをして抑圧してきた「影」との対決であり、「影」との統合にもなる。それは人間のこころの成長のプロセスでもある。
魔法や呪術の世界では「名前」を知らないと魔法がかけられない。そのため、呪術的世界では絶対に自分の名前を明かさない、ということもあった。
名前を与えると言う事は、無意識内の無形のものに、意識世界での生命を与えることに等しい。見えない世界から見える世界へ橋をかける。
名前という枠を与えることで、人間は認識しやすくなる。
逆にいえば、僕らは「名前」を当てられていないものに未知を感じ、恐怖や恐れを感じるということでもある。
ただ、この映画では「名前」が自分の心にクサビを打つように「名前」に縛られてしまう愚かさをも感じた。
登場人物で、唯一あの女性だけが「名前」を与えられていないことにこそ重要な意味があるのだろう。「薔薇の名前」というタイトルも示唆的だ。(これは映画を見てもらった方がいい。)
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村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」
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私の名前を見つけてちょうだい。
あなたは私のことをとてもよく知っている。
私もあなたのことをとてもよく知っている。
でも、私は私のことをぜんぜん知らないの。
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私たちが進化するためには、死というものがどうしても必要なのよ。
死というものの存在が鮮やかで巨大であればあるほど、私たちは死にもの狂いでものを考えるわけ。
自分でうまくやれた、別の自分になれたと思っていても、そのうわべの下にはもとのあなたがちゃんといるし、何かあればそれが「こんにちは」って顔を出すのよ。
あなたはよそで作られたものなのよ。
だからあなたは仕返しされてるのよ。
自分が捨てちゃおうとした世界から、あなた自身から。
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ここは血なまぐさい暴力的な世界です。強くなくては生き残ってはいけません。
でもそれと同時に、どんな小さな音をも聞き逃さないように静かに耳を澄ませていることもとても大事なのです。
よいニュースというのは、多くの場合、小さな声で語られるのです。
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手がかりは何もない
でもね、僕は少しずつわかってきたんだ。何かをしなくちゃいけないんだということがね。
ただじっと座って帰りを待ってちゃダメだ。僕はいろんなことを自分の手で明確にしなくちゃならないんだ。
ここで何かが自分に求められているという予感なり感触なりを、僕はどうしても震い落とすことができないんだ。
僕が逃げることができないというのは、そういうことなんだよ。
僕の手でこの世界に引き戻すんだよ。
そうしないことには、僕という人間もまた、このまま失われ続けることになるんじゃないかと思う。
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一見関係ないようで、春樹ワールドに近接したものを感じた。
映画で出てくる女性を主人公にすると、「ねじまき鳥」の世界に重なるような。
人間は過去生の影響を受け続ける?
ただ、人間の「瞳」には、全ての過去生の記憶が刻まれているらしい。
愛も悲しみも・・・、全部を見てきた「瞳」。
■
いろんなことを示唆する映画でした。映像も素晴らしい。
「本」とか「書物」というものへの愛も伝わった。
映像表現も素晴らしく、登場人物のキャラクターがすべて濃くて面白い。
全員が何か秘密を持ち、その秘密を全員が共有していることで危ういバランスがとれているような、そういう絶妙な人間描写が最高だった。
そして、膨大な過去の集積の上にある「今」という時代に生まれ落ちていることに、日々感謝をしないといけないと強く思いました。
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ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」
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「夢は一巻の書物だ。そして、書物はすべて夢なのだ。」
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「迷宮を脱け出す規則さえ見つけられれば、この世はどれほど美しくなることだろうか」
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「真理に対する不健全な情熱からわたしたちを自由にさせる方法を学ぶこと、それこそが唯一の真理だからだ。」
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(・・・って言っても、別に深く語れるわけじゃなくて「いいよね!あれって、なんかいいよね!」って言うだけだけど(笑)!)
原作本、上巻まで読んだとはさすがですね!原作では、村の少女は出てこないそうですね。ジャン・ジャックアノーが「エーコは理論派だが、僕はヒューマンドラマが描きたかったから、少女とアドソのエピソードを付け加えた」というようなことを言っていました。
言われてみると、少女のエピソードは余分だったような気が?
でも、小説に比べて映画は時間に制限があるので、あれが無かったらますます分かりにくい映画になっちゃったかな。
『薔薇』は少女の象徴とも取れるので、記号学的解釈とかしなくても『薔薇の名前』という題名の解決がつく感じがするし、映画的に収まりがいいのかな・・・。(半納得。)
登場人物が全て、吐きそうに濃厚で目が離せませんね。知的障害があるサルバトーレの、火刑の時の歌声の清らかさが哀しい。
白濁したぎょろ目で、毒を口につめこんだあげく火達磨で転がって死ぬ!って派手なパフォーマンスで、なんとなく「殉教?!」って気にさせられるけど、笑いを禁じていたホルへ修道士自身が、ギャグなほど矛盾しているところも面白い~!
「笑い」に対してあんなに厳格なのに、院内で同性愛はわりと大丈夫だし、異端宗教の信者も、ゆるく共存できてたし。(目が見えないから、「笑い声」しか取り締まれなかった?)
神の尊厳を守るには笑いは危険と盲信、そのあげく、神(聖書)が禁じた殺人を犯してでも「笑い」を阻止!の本末転倒。
そもそも「笑い」で宗教が崩されるって心配する時点で、宗教心ぺラいし!
執着心は本来の目的(愛や平和)を見失わせて、人をあらぬ方向へ暴走させる厄介なものですが、「大義」「権力」と執着心が一緒になり、盲目の怪物と化したのがホルへ。
『ね~、ホルへってヘンでしょ?・・・でも、自分の周りに(あるいは自分の中にも)ホルへはいないか?』っていう問いを、この映画からはかんじました。(教育界を考えると・・・ホルへ的教員、いっぱいいる~!涙)
笑いは心の遊びの部分だから、やっぱりそこが無くなると人の精神も社会もヤバイよ!ってことですね。
あああ、笑いっていいな。笑い、大切。
(『薔薇の名前』つながりで、もうひとつ。ベルナルド・ギーを怪演していた俳優、F・マーリー・エイブラハムが、モーツアルトの才能にねちっこく嫉妬するサリエリを演じた映画『アマデウス』、ご覧になりましたか?もしまだでしたら、こちらも是非!モーツアルトの音楽もふんだんに入っていて豪華絢爛。アカデミー賞八部門獲得の名作です。これも執着心と「笑い」が大きなテーマになっています。)
直接のきっかけはまーこさんとの話の中でこの映画出てきたから見れました。ほんと有難うございます!
DVDデッキのすぐ横にこのDVD置いてたから、いつでも見る直前の状態に持っていってはいたんですけどねー。(^^
そして、やはりめちゃんこ面白かった!
自分の好きなものの話しするのって楽しいですよね。
ワクワクした感じが心の中に広がるからでしょうかね。
村の少女は、確かに原作にはなかったような気がします。
あれも、村上春樹の世界と同じで、性行為そのものに気をとられるのではなく、一つの象徴的な<聖>行為として、男性性と女性性の合一ととらええると、あの物語に深みを与えるような気がしましたね。
あの狭い閉鎖世界では生物学的には男性しかいませんが、狭い世界ができると、結局そのなかで同性愛が起こったりしますよね。
ひとつの社会ができると、社会的な性別が生まれる気がしますね。そういう意味で、誰もが自分の中にある男性性と女性性を発達しないといけないのでしょう。
最近読んだ、河合隼雄「とりかへばや、男と女」や、「星占いのしくみ」石井 ゆかり、 鏡 リュウジ(平凡社 (2009/11/14))にもこんな一節がありました。
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河合隼雄「とりかへばや、男と女」
『男性と女性について考えるとき、それぞれが内なる異性を持っており男女の関係が、内なる異性も入れて男女4人の関係になる、という考えは非常に示唆的である。
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石井ゆかり、鏡リュウジ「星占いのしくみ」
『恋愛がうまくいけば問題は解決する、のではなく、問題があるから恋愛がうまくいっていない。』
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『アニマやアニムスのイメージを誰かに投影した時、その人に対する恋愛感情が生まれる。』
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『アニマやアニムスが無視されたり傷つけられたりしていると、問題が起こる。
自分のペルソナがアニマやアニムスの成長度合いと釣り合わないと、状況がおかしくなる。』
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『ペルソナ、アニマ、アニムスが成長したり発見されるプロセスが実を結ぶと、内なる男性と女性はめでたく結婚でき、バランスの悪かった人格が1段階成熟して、問題が解決に向かうことになる。』
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『恋は、こうした女性性やアニムスのバランスが崩れた部分が、ある特定の人物に投影されるところから生まれる事がほとんど。
恋する相手は、その人の中にあってまだ発見されていないものを体現している存在だ。と言えます。
表面的に見えているペルソナだけではなく、お互いの心の中にあるアニマ、アニムスたちも関わり、変化を遂げた上で2人が結ばれるならば、これ以上の事は有りません。』
===============
とのこと。
やはり、人間誰もが経験する恋愛関係の中に、自分の中の男性や女性を再認識する重要な鍵が隠れているようです。
・・・・・
薔薇の名前、に戻ると、ほんとおっしゃるとおり、登場人物が奇奇怪怪、魑魅魍魎、おもしろキャラのオンパレードでそれがすごい!漫画的だなぁと思いました。
そして、そういう変わった人こそ、そこに個性が際立って、ある意味愛すべきキャラに変容するんですよねー。
「笑い」は、世界を開ける働きがありますし、それは閉鎖社会にとっては一番おそるべき魔術的なものだったんでしょうね。
たしかに、笑いを恐れたあのおじさんも、最後までニコリとも笑いませんでしたし。笑
古事記でアマテラスが天岩戸に隠れて世界が闇に包まれた時も、アメノウズメがあそこ丸出しで踊って、神々がどっと笑った事が気になって、アマテラスがチラ見して、そこでアメノタヂカラオに引っ張られて、それで世界に光が戻りましたよね。
笑いは大事!!
モーツアルトの映画『アマデウス』!!見ました!
すごく面白かった!見て以降、レクイエムの聞き方がすこし変わりました。あと、モーツァルトの笑い声が、耳から離れません。
あ、そういえば、人の笑い声って、なんだか面白いですよねー。すごく個性が出ると言うか。タレントで言えば、ものまねのコロッケの笑い声とか、ネプチューンのホリケンの笑い声とか、いつも気になりますー。(マニアック?笑)
笑い声、面白いです。そうそう、ホリケンって妙に気になる(笑)!そこにはいないような不思議な存在感。私の好きな笑い声って誰だろう?と考えたら高田純二と藤井隆かも。銀色夏生が「高田純二の、人に好かれようと一個も思ってない感じが大好き」って言ってましたが、同感!そして月並みな感想だけど、子供の笑い声には何かすごくいいもんが入ってると思う。モンスターズインクの、子どもの笑い声は強力なエネルギー源になることがわかったっていうオチ、いいとこ突くなあと思いました。
ところでイナバさん、1日に何回声出して笑う?笑いを研究テーマにしている哲学の教授(オーストラリア人・すっごく授業が面白い!先月、アブラハム・H. マズローやったよ! )がいて、彼の授業の中で聞かれたんです。私は30回くらいかな?って思ったんだけど、ほとんどの院生が「1日に1,2回」って答えてた。そ、そんなに少ない(@■@;)?ウチの家族がお笑い好きだからかな?って考えてみたんだけど、多分、英語教室で毎日小学生集団と会うからだ、と気がついた。小学生ってちっちゃなヨゴレ芸人だから!毎日、腹の底から大爆笑。笑い好きの自分、しみじみ仕事から受けている大きな恩恵に気づかされ、感謝。
(ちなみに、アメリカの調査で、1日に声を出して笑う回数、成人は平均1日10~15回くらい。ところが、子どもは200~300回なんだって!教授が「こんなに笑う子ども達が、大人になってこんなに笑わなくなるなんて、その間に一体何が起こったんだと思う?」と問われました。これ、一生答えを考え続けるかも。)
自分も、楽譜に修整のあとがひとつもないシーンは感動しました。
三島由紀夫も、文章はそんな感じみたいですよ。講演とかも、話し言葉がそのまま書き言葉になるような、修正なしですごかったようです。
おそらく天才にとっては、一瞬ですべての全体像ができて、あとはその全体像の映像を忘れないで急いで書き写したりする、という感じなのでしょうねぇ。
笑いの回数の話は奥が深い話ですねぇ。
自分は15回くらいかなぁ。ただ、人と話すことがない日は笑わないですよねぇ。(^^;
成人は平均1日10~15回くらい。子どもは200~300回というのは驚き!!
でも、確かにその通りかも。何かを得ると同時に「笑い」を失っているんでしょうね。恐ろしいことです。
人間は常にエゴに監視されて支配されているような存在ですが、そのエゴが外れてセルフとひとつになる瞬間は、眠りと笑い、だと自分は思っています。誰もが眠りの時と笑いの時は、エゴイズムにはなれない気がしますね。まさに梵我一如の境地になっているというか。
ラフターヨガ(「Laughter ラフター=「笑い」ヨガ)なんかも、まさにそういうことだと思いますね。笑うことでエゴを外して、ブラフマンとアートマンをひとつにする。
そう考えると、笑いは深い!自分も笑いやユーモアというのを大事にしているつもり。
ちなみに、奈良に行くときの新幹線で、梅原猛先生の『哲学する心』(講談社学術文庫) (2002/4/10) を読んだのです。
梅原先生は、「笑いの哲学」からはいったということを知って驚きました。
笑いの効用は笑の意味を追求して、最終的には弥勒のアルカイックスマイルにたどりつき、そこから仏教研究に入ったとのこと!!
深いですねー。
弥勒のアルカイックスマイルに到達できたら、もうこの世は卒業!という感じがします。(^^
(^_^) (^o^) (^^) (^-^)
(●^o^●) (^◇^) (*^_^*) (*´ー`)
(*´∀`*) (*´ω`*) (*´艸`*)
ヽ(=´▽`=)ノ o(^o^)o \(^_^ )( ^_^)/
σ(^_^) σ(´∀`) !(^^)! (^Q^)/