5/28土曜は、大宮薪能に行ってきた。神聖で幽玄でとても素晴らしい場だった!
超満員の大入り。すごい熱気だった。
●第35回記念 大宮薪能 5月28日(土)
素謡【金春流】翁(おきな) 金春 安明
能 【観世流】巴(ともえ) 武田 宗典
狂言【和泉流】魚説法(うおせっぽう)野村 萬斎
能 【金春流】石橋(しゃっきょう) 本田 光洋
■
大宮薪能は今回で35回目。
場所は2000年以上の歴史を持つ武蔵一宮である氷川神社の中だった。
神社という聖域内に、生者と死者とが交差する聖域としての能舞台が作られる。その周囲には結界のように薪がたかれる。
薪能とは言っても、薪だけの照明では舞台が暗くなるからか、少しの照明は添えられていた。
開始時間は夕方の17時40分。
まだ辺りは明るいが、太陽が沈む前の時間。
肌寒くなる前の爽やかな風が吹き、よく晴れた心地よい気候だった。雲や光の線が美しい季節だ。
まずはじめに、神官たちが火打石で火を起こすところからはじまった。
石と石との摩擦で火が起こる。
人間の意識が石の運動エネルギーを起こし、石から火が生まれる。
さきほどまで何もなかった空間に、人間と石とが意識を合わせて交わることで火が生まれる。そこに生命が生まれ、場に宿った。
生まれた火は、生命を手渡すようにたいまつへと分け与える。
元の火は減りもせず増えもせず。そのままであり続けながら、火は分与され移動していく。
人の心が共鳴すること、希望をわけあたえられることを『心に火が灯る』と表現する。
日々心の世界で起きている『心に火が灯る』内的世界を、神社で観察しているようだった。
人と自然とが、ある意図を持ち適切に交わると『火が灯る』。
火は、分け与えても減ることはなく、火は火としての本質を共有しながら次々に分与されていく。その光景は、内的世界でも日々繰り返されている。
『火を灯す』儀式は、見る側の心の儀式としても作用していたのだった。
■
最初は翁の謡いではじまった。
翁は、舞台上で、ヒトがカミ(翁)へと変容する瞬間を目撃する演目。
演者全員が正座し、板の間に額がつくほどの深い挨拶をしてはじまり、同じような深い挨拶でおわった。
それは翁という演目に対しての礼でもあり、能舞台や神社の場に対しての礼でもあり、この場に参加しているすべての人の中に翁の要素が潜在していて、その翁の萌芽に対しての礼でもあると感じた。
■
次の演目は巴(ともえ) 。
お誘いいただいた武田宗典さんがシテ(主役)を演じられた。
戦死した木曽義仲の妻(巴御前)は、女性であるが故に戦で死ぬことができなかった。死に場を失った巴御前は、自分の死や夫や主君への愛などへの執心ゆえに、生と死のあわいの世界に閉じ込められ、亡霊となる。
能では、生者と死者とは 等価な存在として出てくる。
圧巻だったのは、亡霊として出てくる巴御前にさらに死者である夫の思いや行動が重なり、死者が二重写しのようにして舞われた場面。本当に二つの存在が重なり振動しているような素晴らしい舞いだった。
死者や思い(想念)は、そうして何重にも重なることができるようだ。
能舞台では、生者に重なるように死者が重なり合う。そうした形で死者の思いを舞いや謡いと共に傾聴することになる。
それは、カウンセリングや心理療法と同じことだ。
心の中にある受け入れがたい葛藤。
その矛盾や葛藤を受け入れる力が内在していると信じながら、相手の心の治癒的なプロセスを邪魔しないよう、敬意と共感のまなざしで相手の話を聞く。心が変容する触媒として、器として。
死者や亡霊の世界でも同じ原理が働いているのだろう。
巴御前という死者の心の流れを阻害しないように、相手へ敬意と共感のまなざしを向けながら、話を聞く。
その時、こちら側が一切ジャッジしないことが大事だ。心の中で行ったジャッジは、無意識に相手へ伝わる。相手の思いをこちらがしっかり受け取ると思いながら聞くことが、相手への敬意の波紋となり伝わるのだろう。
シテは、生と死の接点となる。波打ち際のように。
時空を超えた聖域の中で、時は熔解する。
『今は昔』として、今と昔とがつながることになる。
■
次の演目は魚説法。
今度共演させていただく野村萬斎さんがシテ役。
魚の名前を適当に並べてお経のように読み、偽の坊主を演じる狂言。
コトバ遊びの要素と、難解なお経をからかうような要素とが入っている。軽快な問答は、一気に場を和ませた。
能舞台では、こうして能と狂言とが、緊張と緩和として、硬い作用とやわらかい作用として均衡をとる。
野村萬斎さんの一挙一動にも、力と技と軽みとが均衡をたもっていて、素晴らしかった。
■
最後の演目は石橋(しゃっきょう)。
前半のゆっくりしたリズムと変わり、後半は一気に動的なリズムへ。
白獅子と赤獅子、二体の獅子の舞い(獅子舞)に圧倒された。この世ならない宴に参加しているような。
今回の番組構成は、動と静とが様々な形で織りなされていた。
それは人の意識のリズムと波長を合わせるようなリズムで、素晴らしい構成と場でした。
神社内での薪能のような神聖な場づくりは、お客さんも全員参加しているようなもの。
場づくりの意識が高まることが、未来の社会の在り方ともつながっていくのではないかと感じた。
また来年も、是非とも大宮薪能に参加したい。
お忙しい中、公演の後に食事にまで付き合って頂いた能楽師の武田宗典さん。本当に本当に有難うございました。(^^
超満員の大入り。すごい熱気だった。
●第35回記念 大宮薪能 5月28日(土)
素謡【金春流】翁(おきな) 金春 安明
能 【観世流】巴(ともえ) 武田 宗典
狂言【和泉流】魚説法(うおせっぽう)野村 萬斎
能 【金春流】石橋(しゃっきょう) 本田 光洋
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大宮薪能は今回で35回目。
場所は2000年以上の歴史を持つ武蔵一宮である氷川神社の中だった。
神社という聖域内に、生者と死者とが交差する聖域としての能舞台が作られる。その周囲には結界のように薪がたかれる。
薪能とは言っても、薪だけの照明では舞台が暗くなるからか、少しの照明は添えられていた。
開始時間は夕方の17時40分。
まだ辺りは明るいが、太陽が沈む前の時間。
肌寒くなる前の爽やかな風が吹き、よく晴れた心地よい気候だった。雲や光の線が美しい季節だ。
まずはじめに、神官たちが火打石で火を起こすところからはじまった。
石と石との摩擦で火が起こる。
人間の意識が石の運動エネルギーを起こし、石から火が生まれる。
さきほどまで何もなかった空間に、人間と石とが意識を合わせて交わることで火が生まれる。そこに生命が生まれ、場に宿った。
生まれた火は、生命を手渡すようにたいまつへと分け与える。
元の火は減りもせず増えもせず。そのままであり続けながら、火は分与され移動していく。
人の心が共鳴すること、希望をわけあたえられることを『心に火が灯る』と表現する。
日々心の世界で起きている『心に火が灯る』内的世界を、神社で観察しているようだった。
人と自然とが、ある意図を持ち適切に交わると『火が灯る』。
火は、分け与えても減ることはなく、火は火としての本質を共有しながら次々に分与されていく。その光景は、内的世界でも日々繰り返されている。
『火を灯す』儀式は、見る側の心の儀式としても作用していたのだった。
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最初は翁の謡いではじまった。
翁は、舞台上で、ヒトがカミ(翁)へと変容する瞬間を目撃する演目。
演者全員が正座し、板の間に額がつくほどの深い挨拶をしてはじまり、同じような深い挨拶でおわった。
それは翁という演目に対しての礼でもあり、能舞台や神社の場に対しての礼でもあり、この場に参加しているすべての人の中に翁の要素が潜在していて、その翁の萌芽に対しての礼でもあると感じた。
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次の演目は巴(ともえ) 。
お誘いいただいた武田宗典さんがシテ(主役)を演じられた。
戦死した木曽義仲の妻(巴御前)は、女性であるが故に戦で死ぬことができなかった。死に場を失った巴御前は、自分の死や夫や主君への愛などへの執心ゆえに、生と死のあわいの世界に閉じ込められ、亡霊となる。
能では、生者と死者とは 等価な存在として出てくる。
圧巻だったのは、亡霊として出てくる巴御前にさらに死者である夫の思いや行動が重なり、死者が二重写しのようにして舞われた場面。本当に二つの存在が重なり振動しているような素晴らしい舞いだった。
死者や思い(想念)は、そうして何重にも重なることができるようだ。
能舞台では、生者に重なるように死者が重なり合う。そうした形で死者の思いを舞いや謡いと共に傾聴することになる。
それは、カウンセリングや心理療法と同じことだ。
心の中にある受け入れがたい葛藤。
その矛盾や葛藤を受け入れる力が内在していると信じながら、相手の心の治癒的なプロセスを邪魔しないよう、敬意と共感のまなざしで相手の話を聞く。心が変容する触媒として、器として。
死者や亡霊の世界でも同じ原理が働いているのだろう。
巴御前という死者の心の流れを阻害しないように、相手へ敬意と共感のまなざしを向けながら、話を聞く。
その時、こちら側が一切ジャッジしないことが大事だ。心の中で行ったジャッジは、無意識に相手へ伝わる。相手の思いをこちらがしっかり受け取ると思いながら聞くことが、相手への敬意の波紋となり伝わるのだろう。
シテは、生と死の接点となる。波打ち際のように。
時空を超えた聖域の中で、時は熔解する。
『今は昔』として、今と昔とがつながることになる。
■
次の演目は魚説法。
今度共演させていただく野村萬斎さんがシテ役。
魚の名前を適当に並べてお経のように読み、偽の坊主を演じる狂言。
コトバ遊びの要素と、難解なお経をからかうような要素とが入っている。軽快な問答は、一気に場を和ませた。
能舞台では、こうして能と狂言とが、緊張と緩和として、硬い作用とやわらかい作用として均衡をとる。
野村萬斎さんの一挙一動にも、力と技と軽みとが均衡をたもっていて、素晴らしかった。
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最後の演目は石橋(しゃっきょう)。
前半のゆっくりしたリズムと変わり、後半は一気に動的なリズムへ。
白獅子と赤獅子、二体の獅子の舞い(獅子舞)に圧倒された。この世ならない宴に参加しているような。
今回の番組構成は、動と静とが様々な形で織りなされていた。
それは人の意識のリズムと波長を合わせるようなリズムで、素晴らしい構成と場でした。
神社内での薪能のような神聖な場づくりは、お客さんも全員参加しているようなもの。
場づくりの意識が高まることが、未来の社会の在り方ともつながっていくのではないかと感じた。
また来年も、是非とも大宮薪能に参加したい。
お忙しい中、公演の後に食事にまで付き合って頂いた能楽師の武田宗典さん。本当に本当に有難うございました。(^^