近藤ようこさんの漫画『死者の書』(ビームコミックス)を読んだ。
当直中は電話で集中が分断されるので、夜中の合間は漫画を読んで過ごすのが習慣になっている。
霊的感度の高い民俗学者である折口信夫『死者の書』を初めて漫画家したもの。
すごい完成度だった。
まさに能の抽象的な世界を漫画にするとこうなる、というお手本のような。
この話が内包するテーマは深く広い。
・機織りという営みが、単に衣服をつくることを超え、自然と人間との神聖な交流(神事)であったこと。
・芸術というものの本質(これは最後まで読まないとわからない)
・「語り」と人により伝えられる古代世界
・鎮魂の形 それはお能をはじめとした芸能や説教付しの語りの世界の中で脈々と行われてきた。
・曼荼羅図が示す世界観
・お寺という場所(トポス) 当麻寺(當麻寺;たいまでら、奈良県葛城市 7世紀)当麻曼荼羅の信仰(蓮から作った繊維で糸をつくり、曼荼羅を描く)と、中将姫伝説
(ふと思いついたものだけ)
古典の入り口として、近藤さんの漫画は常に素晴らしいきっかけを与えてくれる。
導き手のおかげで、色々なゲートをくぐることができる。
優れた教師とは、そういう導き手の存在のことだ。
漫画を読み、こうした古代の通路やチャンネルをつくることが、すでに鎮魂になっているのだろう。それは世阿弥作の能『当麻』も同じものだと思う。
■
近藤ようこさんは、日本の古典世界に対して深い造詣がある。
初期作品『見晴らしガ丘にて』は、場所(トポス)そのものを視点にした漫画だった。
登場人物の微細な心理描写に舌を巻いたが、そうした人間への観察眼は、時を遡り、中世の語りの世界(説教節)を含め古典世界へと関心は回帰する。
『妖霊星―身毒丸の物語』『説経小栗判官』『水鏡綺譚』など、誰もが漫画家不可能と思われていた世界を、能楽のような抽象的な絵のタッチで、その本質を確実に描いている。
古典の世界に触れるきっかけとして、近藤さんの漫画は素晴らしく質の高いものだ。
○近藤ようこ『説経 小栗判官』(2016-02-08)
○近藤ようこ「水鏡綺譚」(2016-02-02)
○近藤ようこ「五色の舟」(2015-09-27)
■
漫画版『死者の書』も、誰もが取り組むことさえ考えなかった異次元の折口作品を、深い霊性を受け取るようにイメージへと変換して表現されていた。その力量に脱帽。
改めて、折口さんの『死者の書』を再読してみようと思う。
描かれる世界は、八世紀、平城京の都が栄えていた頃。
当時、神に仕える女性は、俗世間とは隔離した生活を送り、まさに神と人をつなぐ通路としての役割として、館の奥深くで育てられていた。
藤原南家の娘である郎女(いらつめ)は、春分の日の夕暮れ、二上山の峰の間にホトケ(ブッダ)の荘厳なVisionを見てしまう。
二上山の峰は、春分の日と秋分の日には、常にその峰に太陽が通る場でもあり、自然が育む霊場として古代からあらゆる和歌で歌われている。
郎女(いらつめ)は仏の世界を全身全霊で体験した。
当時の女性には漢文やお経の学問は不要とされた時期だったが、法華経を千部写経するという衝動につき動かされる。
1年後、千部を書き終えた瞬間に郎女は再度霊的な感応状態となり、二上山のふもとにある、女人禁制の万法蔵院へと流浪してしまう。
万法蔵院は、当麻寺(當麻寺:たいまでら)がある場。
この物語は場所(トポス)が重要な役割を果たす。
そこに、語り部の姥が現れた。
当時、漢字や文字の普及により、<語り部>として語りで物語を伝える文化は古いとされ、すでに時代遅れとされようとしていたようだ。
ただ、その<語り部>のお婆は、この純粋で素直な郎女(いらつめ)だけに古代の音(音づれ)を伝えることを願い、トポス(土地)の声を語る。
その土地は、五十年前に謀反の罪で殺された滋賀津彦が眠る土地でもあった。
<語り部>のお婆から、滋賀津彦と耳面刀自(みみものとじ)の話を聞かされることになる。
滋賀津彦は、大津皇子(663~686)であり天武天皇の第三皇子。文武に優れたが謀反を疑われ処刑、二上山に葬られた悲劇の王子。
耳面刀自(みみものとじ)は、(いらつめ)の祖父の叔母である。壬申の乱後は消息不明となる。
女人禁制の当麻寺(たいまでら)に入った罰として、高貴な姫は物忌みとして小屋に居続ける。
そこに、滋賀津彦の亡霊が現れ、「今は昔」となり、古代とつながる。
物語はさらに深みへと展開していく。
■
当時の<語り部>は、「古事(ふること)」を語る存在として、重要な存在だった。
それが日本神話である「古事記(ふることふみ)」の母体となっているはず。
ただ、当時は「文字」の出現により「語り」の伝承は軽視されはじめた時代でもあった。
この折口「死者の書」のきっかけとなったのは、当麻曼陀羅とも、山越阿弥陀図ともされる。
古代日本の感性は、神や仏を人間と断絶した世界と描くのではなく、すべての空間に偏在する霊性の場(トポス)のようなものとして描いていた。
空間の中に時間を溶解させるように。
當麻曼荼羅(当麻寺)
中将姫絵伝(当麻寺)
(当麻曼荼羅(根本曼荼羅、国宝)部分)
山越阿弥陀図(平安時代末期~鎌倉時代 永観堂禅林寺)
山越阿弥陀図(鎌倉時代(13世紀))
■
能にも、まさに『当麻』という世阿弥の作品がある。
舞台は同じ大和国 当麻寺(たいまでら)(奈良県葛城市 二上山の麓)。
もちろん、折口もこの謡曲は一般教養として知っていただろう。
旧暦二月十五日はブッダの命日であり、しかも彼岸の中日(春分の日)にあたる日 でもある。その時期はブッダの魂がこの世を見守りに来るかのように、二上山の二つの頂の間から、清らかな光がさしてくる日でもある。
『観無量寿経』には、あの世(西方浄土)を強く体験するために、さまざまなものを凝視して瞼の裏に焼きつけ、浄土のイメージを作るという瞑想法が説かれている。
西へ沈みゆく太陽を観察し、西から光がさす様子を脳裏に焼きつけ、清らかな水を観察して極楽浄土にある七宝の池の様子をイメージする。
「日想観」は、ふたつの頂の間に沈む日輪を観想し、極楽がある西方浄土のあの世の世界に思いを馳せ、心の眼でそのVisionを体感するもの。
戦乱と陰謀にあけくれた荒れた時代に、民衆は「あの世」にこそ深い救済を求めたのだった。
世阿弥作『当麻』より。
熊野へ向かう僧侶の一行が当麻寺に至る。
そこは一遍上人をはじめ多くの信仰を集める霊験あらたかな古寺。
そこへ老尼(シテ)と女(ツレ)が現れる。
二人は、この寺の本尊である曼荼羅は、中将姫が蓮の糸で作られたものであるという故事を語る。
そして、自分たちこそ阿弥陀仏・観音菩薩の化身であると明かし西の空に消える。
夜、僧が祈りを捧げていると、音楽が聞こえてきた。そして、西の二上山の二つの頂の間から、清らかな光もさしてくる。
その光に包まれて、今や菩薩となった中将姫の霊(後シテ)が現れる。
今度はこの世の迷える人々を救うべくやって来たのだった。
中将姫は弥陀の有難い教えを説き、阿弥陀仏による救済を讃美して讃歎の舞を舞うのであった。
こうした能楽の世界も重なり、この「死者の書」は当麻寺(當麻寺:たいまでら)を場所(トポス)として生と死が、現代と古代や未来とが交錯する。
こうした大作を簡潔に表現した歌人でもあり民俗学者でもある折口信夫という人は、現代人に何を伝えようとしているのだろうか。
近藤ようこさんという優れた表現者を介して、さらに深く興味が沸きました。
是非お読みください!
■
折口信夫『死者の書』
「こう こう こう。
先刻さっきから、聞えて居たのかも知れぬ。あまり寂しずけさに馴れた耳は、新な声を聞きつけよう、としなかったのであろう。だから、今珍しく響いて来た感じもないのだ。
こう こう こう――こう こう こう。
確かに人声である。鳥の夜声とは、はっきりかわった韻(ひびき)を曳いて来る。声は、暫らく止んだ。静寂は以前に増し、冴え返って張りきっている。
この山の峰つづきに見えるのは、南に幾重ともなく重った、葛城の峰々である。
伏越(ふしごえ)・櫛羅(くしら)・小巨勢(こごせ)と段々高まって、果ては空の中につき入りそうに、二上山と、この塚にのしかかるほど、真黒に立ちつづいている。
当麻路をこちらへ降って来るらしい影が、見え出した。
二つ三つ五つ……八つ九つ。九人の姿である。
急な降りを一気に、この河内路へ馳かけおりて来る。
九人と言うよりは、九柱の神であった。白い著物(きもの)・白い鬘(かずら)、手は、足は、すべて旅の装束(いでたち)である。頭より上に出た杖をついて――。この坦(たいら)に来て、森の前に立った。
こう こう こう。
誰の口からともなく、一時に出た叫びである。
山々のこだまは、驚いて一様に、忙しく声を合せた。
だが、山は、忽(たちまち)一時の騒擾(そうじょう)から、元の緘黙(しじま)に戻ってしまった。
こう。こう。お出でなされ。藤原南家郎女(いらつめ)の御魂(みたま)。」
■
折口信夫『死者の書』
「物の音。
――つた つたと来て、ふうと佇たち止るけはい。
耳をすますと、元の寂しずかな夜に、
――激たぎち降くだる谷のとよみ。
つた つた つた。
又、ひたと止やむ。
この狭い廬の中を、何時まで歩く、跫音(あしおと)だろう。
つた。
郎女は刹那、思い出して帳台の中で、身を固くした。
次にわじわじと戦おののきが出て来た。
天若御子(あめわかみこ)――。
ようべ、当麻語部嫗(たぎまのかたりのおむな)の聞した物語り。
ああ其お方の、来て窺うかがう夜なのか。
――青馬の 耳面刀自(みゝものとじ)。
刀自もがも。女弟(おと)もがも。
その子の はらからの子の
処女子(おとめご)の 一人
一人だに わが配偶(つま)に来よ
まことに畏しいと言うことを覚えぬ郎女にしては、初めてまざまざと、圧(おさ)えられるような畏(こわ)さを知った。
あああの歌が、胸に生き蘇(かえ)って来る。
忘れたい歌の文句が、はっきりと意味を持って、姫の唱えぬ口の詞(ことば)から、胸にとおって響く。
乳房から迸(ほとばし)り出ようとするときめき。
帷帳がふわと、風を含んだ様に皺(しわ)だむ。
ついと、凍る様な冷気――。
郎女は目を瞑(つぶ)った。
だが――瞬間睫(まつげ)の間から映った細い白い指、まるで骨のような――帷帳を掴んだ片手の白く光る指。
なも 阿弥陀ほとけ。あなたふと 阿弥陀ほとけ。
何の反省もなく、唇を洩れた詞。
この時、姫の心は、急に寛(くつろ)ぎを感じた。
さっと――汗。全身に流れる冷さを覚えた。
畏い感情を持ったことのないあて人の姫は、直に動顛した心を、とり直すことが出来た。
のうのう。あみだほとけ……。」
○折口信夫『死者の書』(青空文庫)
■
折口信夫『山越しの阿弥陀像の画因』より
「私は別に、山越しの弥陀の図の成立史を考えようとするつもりでもなければ、また私の書き物に出て来る「死者」のおもかげが、藤原南家郎女の目に、阿弥陀仏とも言うべき端厳微妙な姿と現じたという空想の拠り所を、聖衆来迎図に出たものだ、と言おうとするのでもない。
そんなものものしい企ては、最初から、してもいぬ。
ただ山越しの弥陀像や、彼岸中日の日想観の風習が、日本固有のものとして、深く仏者の懐に採り入れられてきたことが、ちっとでもわかってもらえれば、と考えていた。」
「私の女主人公南家藤原郎女の、幾度か見た二上山上の幻影は、古人相共に見、また僧都一人の、これを具象せしめた古代の幻想であった。
そうしてまた、仏教以前から、われわれ祖先の間に持ち伝えられた日の光の凝り成して、さらにはなばなと輝き出た姿であったのだ、ともいわれるのである。」
○折口信夫「山越しの阿弥陀像の画因」(青空文庫)
■
小林秀雄『無常という事』
(昭和十七年 梅若万三郎の『当麻』を見て)
「中将姫の精魂が現れて舞う。
音楽と踊りと歌との最小限度の形式、音楽は叫び声の様なものとなり、踊りは日常の起居の様なものとなり、歌は祈りの連続の様なものになって了っている。
そして、そういうものがこれでいいのだ、他に何が必要なのか、と僕に絶えず囁いている様であった。
音と形との単純な執拗な流れに、僕は次第に説得され征服されて行く様に思えた。」
■
世阿弥『当麻』
「後夜の鐘の音 後夜の鐘の音 鳧鐘(フショウ)の響き
称名の妙音の 見仏聞法(ケンブツモンボウ)の
いろいろの法事 げにもあまねき 光明遍照 十万の衆生を
ただ西方に 迎へ行く 御法の舟の 水馴棹
御法の舟の さ(棹・梭)を投ぐる間の 夢の
夜はほのぼのとぞ なりにける」
○當麻寺のHP
→當麻曼荼羅
→當麻寺の歴史
当直中は電話で集中が分断されるので、夜中の合間は漫画を読んで過ごすのが習慣になっている。
霊的感度の高い民俗学者である折口信夫『死者の書』を初めて漫画家したもの。
すごい完成度だった。
まさに能の抽象的な世界を漫画にするとこうなる、というお手本のような。
この話が内包するテーマは深く広い。
・機織りという営みが、単に衣服をつくることを超え、自然と人間との神聖な交流(神事)であったこと。
・芸術というものの本質(これは最後まで読まないとわからない)
・「語り」と人により伝えられる古代世界
・鎮魂の形 それはお能をはじめとした芸能や説教付しの語りの世界の中で脈々と行われてきた。
・曼荼羅図が示す世界観
・お寺という場所(トポス) 当麻寺(當麻寺;たいまでら、奈良県葛城市 7世紀)当麻曼荼羅の信仰(蓮から作った繊維で糸をつくり、曼荼羅を描く)と、中将姫伝説
(ふと思いついたものだけ)
古典の入り口として、近藤さんの漫画は常に素晴らしいきっかけを与えてくれる。
導き手のおかげで、色々なゲートをくぐることができる。
優れた教師とは、そういう導き手の存在のことだ。
漫画を読み、こうした古代の通路やチャンネルをつくることが、すでに鎮魂になっているのだろう。それは世阿弥作の能『当麻』も同じものだと思う。
■
近藤ようこさんは、日本の古典世界に対して深い造詣がある。
初期作品『見晴らしガ丘にて』は、場所(トポス)そのものを視点にした漫画だった。
登場人物の微細な心理描写に舌を巻いたが、そうした人間への観察眼は、時を遡り、中世の語りの世界(説教節)を含め古典世界へと関心は回帰する。
『妖霊星―身毒丸の物語』『説経小栗判官』『水鏡綺譚』など、誰もが漫画家不可能と思われていた世界を、能楽のような抽象的な絵のタッチで、その本質を確実に描いている。
古典の世界に触れるきっかけとして、近藤さんの漫画は素晴らしく質の高いものだ。
○近藤ようこ『説経 小栗判官』(2016-02-08)
○近藤ようこ「水鏡綺譚」(2016-02-02)
○近藤ようこ「五色の舟」(2015-09-27)
■
漫画版『死者の書』も、誰もが取り組むことさえ考えなかった異次元の折口作品を、深い霊性を受け取るようにイメージへと変換して表現されていた。その力量に脱帽。
改めて、折口さんの『死者の書』を再読してみようと思う。
描かれる世界は、八世紀、平城京の都が栄えていた頃。
当時、神に仕える女性は、俗世間とは隔離した生活を送り、まさに神と人をつなぐ通路としての役割として、館の奥深くで育てられていた。
藤原南家の娘である郎女(いらつめ)は、春分の日の夕暮れ、二上山の峰の間にホトケ(ブッダ)の荘厳なVisionを見てしまう。
二上山の峰は、春分の日と秋分の日には、常にその峰に太陽が通る場でもあり、自然が育む霊場として古代からあらゆる和歌で歌われている。
郎女(いらつめ)は仏の世界を全身全霊で体験した。
当時の女性には漢文やお経の学問は不要とされた時期だったが、法華経を千部写経するという衝動につき動かされる。
1年後、千部を書き終えた瞬間に郎女は再度霊的な感応状態となり、二上山のふもとにある、女人禁制の万法蔵院へと流浪してしまう。
万法蔵院は、当麻寺(當麻寺:たいまでら)がある場。
この物語は場所(トポス)が重要な役割を果たす。
そこに、語り部の姥が現れた。
当時、漢字や文字の普及により、<語り部>として語りで物語を伝える文化は古いとされ、すでに時代遅れとされようとしていたようだ。
ただ、その<語り部>のお婆は、この純粋で素直な郎女(いらつめ)だけに古代の音(音づれ)を伝えることを願い、トポス(土地)の声を語る。
その土地は、五十年前に謀反の罪で殺された滋賀津彦が眠る土地でもあった。
<語り部>のお婆から、滋賀津彦と耳面刀自(みみものとじ)の話を聞かされることになる。
滋賀津彦は、大津皇子(663~686)であり天武天皇の第三皇子。文武に優れたが謀反を疑われ処刑、二上山に葬られた悲劇の王子。
耳面刀自(みみものとじ)は、(いらつめ)の祖父の叔母である。壬申の乱後は消息不明となる。
女人禁制の当麻寺(たいまでら)に入った罰として、高貴な姫は物忌みとして小屋に居続ける。
そこに、滋賀津彦の亡霊が現れ、「今は昔」となり、古代とつながる。
物語はさらに深みへと展開していく。
■
当時の<語り部>は、「古事(ふること)」を語る存在として、重要な存在だった。
それが日本神話である「古事記(ふることふみ)」の母体となっているはず。
ただ、当時は「文字」の出現により「語り」の伝承は軽視されはじめた時代でもあった。
この折口「死者の書」のきっかけとなったのは、当麻曼陀羅とも、山越阿弥陀図ともされる。
古代日本の感性は、神や仏を人間と断絶した世界と描くのではなく、すべての空間に偏在する霊性の場(トポス)のようなものとして描いていた。
空間の中に時間を溶解させるように。
當麻曼荼羅(当麻寺)
中将姫絵伝(当麻寺)
(当麻曼荼羅(根本曼荼羅、国宝)部分)
山越阿弥陀図(平安時代末期~鎌倉時代 永観堂禅林寺)
山越阿弥陀図(鎌倉時代(13世紀))
■
能にも、まさに『当麻』という世阿弥の作品がある。
舞台は同じ大和国 当麻寺(たいまでら)(奈良県葛城市 二上山の麓)。
もちろん、折口もこの謡曲は一般教養として知っていただろう。
旧暦二月十五日はブッダの命日であり、しかも彼岸の中日(春分の日)にあたる日 でもある。その時期はブッダの魂がこの世を見守りに来るかのように、二上山の二つの頂の間から、清らかな光がさしてくる日でもある。
『観無量寿経』には、あの世(西方浄土)を強く体験するために、さまざまなものを凝視して瞼の裏に焼きつけ、浄土のイメージを作るという瞑想法が説かれている。
西へ沈みゆく太陽を観察し、西から光がさす様子を脳裏に焼きつけ、清らかな水を観察して極楽浄土にある七宝の池の様子をイメージする。
「日想観」は、ふたつの頂の間に沈む日輪を観想し、極楽がある西方浄土のあの世の世界に思いを馳せ、心の眼でそのVisionを体感するもの。
戦乱と陰謀にあけくれた荒れた時代に、民衆は「あの世」にこそ深い救済を求めたのだった。
世阿弥作『当麻』より。
熊野へ向かう僧侶の一行が当麻寺に至る。
そこは一遍上人をはじめ多くの信仰を集める霊験あらたかな古寺。
そこへ老尼(シテ)と女(ツレ)が現れる。
二人は、この寺の本尊である曼荼羅は、中将姫が蓮の糸で作られたものであるという故事を語る。
そして、自分たちこそ阿弥陀仏・観音菩薩の化身であると明かし西の空に消える。
夜、僧が祈りを捧げていると、音楽が聞こえてきた。そして、西の二上山の二つの頂の間から、清らかな光もさしてくる。
その光に包まれて、今や菩薩となった中将姫の霊(後シテ)が現れる。
今度はこの世の迷える人々を救うべくやって来たのだった。
中将姫は弥陀の有難い教えを説き、阿弥陀仏による救済を讃美して讃歎の舞を舞うのであった。
こうした能楽の世界も重なり、この「死者の書」は当麻寺(當麻寺:たいまでら)を場所(トポス)として生と死が、現代と古代や未来とが交錯する。
こうした大作を簡潔に表現した歌人でもあり民俗学者でもある折口信夫という人は、現代人に何を伝えようとしているのだろうか。
近藤ようこさんという優れた表現者を介して、さらに深く興味が沸きました。
是非お読みください!
■
折口信夫『死者の書』
「こう こう こう。
先刻さっきから、聞えて居たのかも知れぬ。あまり寂しずけさに馴れた耳は、新な声を聞きつけよう、としなかったのであろう。だから、今珍しく響いて来た感じもないのだ。
こう こう こう――こう こう こう。
確かに人声である。鳥の夜声とは、はっきりかわった韻(ひびき)を曳いて来る。声は、暫らく止んだ。静寂は以前に増し、冴え返って張りきっている。
この山の峰つづきに見えるのは、南に幾重ともなく重った、葛城の峰々である。
伏越(ふしごえ)・櫛羅(くしら)・小巨勢(こごせ)と段々高まって、果ては空の中につき入りそうに、二上山と、この塚にのしかかるほど、真黒に立ちつづいている。
当麻路をこちらへ降って来るらしい影が、見え出した。
二つ三つ五つ……八つ九つ。九人の姿である。
急な降りを一気に、この河内路へ馳かけおりて来る。
九人と言うよりは、九柱の神であった。白い著物(きもの)・白い鬘(かずら)、手は、足は、すべて旅の装束(いでたち)である。頭より上に出た杖をついて――。この坦(たいら)に来て、森の前に立った。
こう こう こう。
誰の口からともなく、一時に出た叫びである。
山々のこだまは、驚いて一様に、忙しく声を合せた。
だが、山は、忽(たちまち)一時の騒擾(そうじょう)から、元の緘黙(しじま)に戻ってしまった。
こう。こう。お出でなされ。藤原南家郎女(いらつめ)の御魂(みたま)。」
■
折口信夫『死者の書』
「物の音。
――つた つたと来て、ふうと佇たち止るけはい。
耳をすますと、元の寂しずかな夜に、
――激たぎち降くだる谷のとよみ。
つた つた つた。
又、ひたと止やむ。
この狭い廬の中を、何時まで歩く、跫音(あしおと)だろう。
つた。
郎女は刹那、思い出して帳台の中で、身を固くした。
次にわじわじと戦おののきが出て来た。
天若御子(あめわかみこ)――。
ようべ、当麻語部嫗(たぎまのかたりのおむな)の聞した物語り。
ああ其お方の、来て窺うかがう夜なのか。
――青馬の 耳面刀自(みゝものとじ)。
刀自もがも。女弟(おと)もがも。
その子の はらからの子の
処女子(おとめご)の 一人
一人だに わが配偶(つま)に来よ
まことに畏しいと言うことを覚えぬ郎女にしては、初めてまざまざと、圧(おさ)えられるような畏(こわ)さを知った。
あああの歌が、胸に生き蘇(かえ)って来る。
忘れたい歌の文句が、はっきりと意味を持って、姫の唱えぬ口の詞(ことば)から、胸にとおって響く。
乳房から迸(ほとばし)り出ようとするときめき。
帷帳がふわと、風を含んだ様に皺(しわ)だむ。
ついと、凍る様な冷気――。
郎女は目を瞑(つぶ)った。
だが――瞬間睫(まつげ)の間から映った細い白い指、まるで骨のような――帷帳を掴んだ片手の白く光る指。
なも 阿弥陀ほとけ。あなたふと 阿弥陀ほとけ。
何の反省もなく、唇を洩れた詞。
この時、姫の心は、急に寛(くつろ)ぎを感じた。
さっと――汗。全身に流れる冷さを覚えた。
畏い感情を持ったことのないあて人の姫は、直に動顛した心を、とり直すことが出来た。
のうのう。あみだほとけ……。」
○折口信夫『死者の書』(青空文庫)
■
折口信夫『山越しの阿弥陀像の画因』より
「私は別に、山越しの弥陀の図の成立史を考えようとするつもりでもなければ、また私の書き物に出て来る「死者」のおもかげが、藤原南家郎女の目に、阿弥陀仏とも言うべき端厳微妙な姿と現じたという空想の拠り所を、聖衆来迎図に出たものだ、と言おうとするのでもない。
そんなものものしい企ては、最初から、してもいぬ。
ただ山越しの弥陀像や、彼岸中日の日想観の風習が、日本固有のものとして、深く仏者の懐に採り入れられてきたことが、ちっとでもわかってもらえれば、と考えていた。」
「私の女主人公南家藤原郎女の、幾度か見た二上山上の幻影は、古人相共に見、また僧都一人の、これを具象せしめた古代の幻想であった。
そうしてまた、仏教以前から、われわれ祖先の間に持ち伝えられた日の光の凝り成して、さらにはなばなと輝き出た姿であったのだ、ともいわれるのである。」
○折口信夫「山越しの阿弥陀像の画因」(青空文庫)
■
小林秀雄『無常という事』
(昭和十七年 梅若万三郎の『当麻』を見て)
「中将姫の精魂が現れて舞う。
音楽と踊りと歌との最小限度の形式、音楽は叫び声の様なものとなり、踊りは日常の起居の様なものとなり、歌は祈りの連続の様なものになって了っている。
そして、そういうものがこれでいいのだ、他に何が必要なのか、と僕に絶えず囁いている様であった。
音と形との単純な執拗な流れに、僕は次第に説得され征服されて行く様に思えた。」
■
世阿弥『当麻』
「後夜の鐘の音 後夜の鐘の音 鳧鐘(フショウ)の響き
称名の妙音の 見仏聞法(ケンブツモンボウ)の
いろいろの法事 げにもあまねき 光明遍照 十万の衆生を
ただ西方に 迎へ行く 御法の舟の 水馴棹
御法の舟の さ(棹・梭)を投ぐる間の 夢の
夜はほのぼのとぞ なりにける」
○當麻寺のHP
→當麻曼荼羅
→當麻寺の歴史
以前にもご紹介されてましたね!
気になってました。「死者の書」、
読んでみますね。
意味がすぐにはわからないけど、
ザワザワと言葉が「何かある」感じを空間に
漂わせているような。そんな感じがします。
聖地みたいな。