なんとなく海を見に行きたいっていうのと、なんとなく久しぶりに話したいって言う気がしたんで、田口ランディさんのお家にふと泊まりに行ってきた。
相変わらずとりとめもなく色んな話をして、グダグダとダラダラと仕事場とか自宅で過ごさせてもらって、いろいろ刺激を受けてなんとなく帰ってきた。
元々、彼女と話が合うなーと思ったのは、いわゆるオカルトとされているものへの扱い方が近い点。
自分は、気功でも霊でも超能力でも宇宙人でも・・・なんでもいいんだけど、いわゆる非科学的・オカルトとされているものに、小学生のようなノリで興味がある。
そして、そんなオカルト的なものを、自分は半分信じていて、半分信じていない。
半分信じているっていうのは、「そんなの絶対あり得ない」という証明がされているものなんてひとつもないし、しかも、「無い」と証明すること自体が相当困難なんじゃないかって思っているから。だからこそ、可能性や期待も込めて科学的な意味でも、半分信じている。
半分信じてないっていうのは、そうは言っても、オカルト的なことは怪しい商売に悪用されたり、色んな犯罪に使われているのも現状。人をだます手段や、自分の強欲・煩悩のために使う人が実際にいて、そういう人を全く信用していないっていう点で、半分は信じていない。
でも、そんな「目に見えないもの」や、「計り知れないもの」を、学問的に完全にデタラメ!って切り捨てて、考えさえもしないのは学問として誠実ではない。むしろ、知識人やインテリの堕落なんじゃないかと思っていて、だからこそ真面目に、どこまで分かるか、どこから分からないのか、考えれる範囲で考えたいとも思う。
特に、自分は医者として人の生き死にを扱っている仕事だからこそ、死後の世界とか、生まれる・生きてる・死ぬという現象(個体でも集団でも)とか、霊の存在とか、その辺は避けて通れない問題でもある。患者さんと向き合って話していると、そのあたりの話は聞かれることも多い。
生命倫理と称される問題。たとえば脳死議論なんかも、どこから人間の死という境界線を引くかという議論だけど、結局は「死ぬとは何か」という問い自体に迫らないと、なんとなくの表面的な議論だけで終わってしまうのが常で、全ての人が未消化で終わり、誰のためにもならない議論になってしまう。
自分の中では、そういう切実な問題でもあったりする。
日本人は、なんだかんだ言っても、「祟り」とか、「呪い」とか、「怨念」とか、「罰が当たる」とか、「穢れ」とか・・・・他の国から言わせると非科学的としか言いようがないものを知らないうちに信じていて、自分でも「そのなんとなく信じている感じ」がどこから来てるかっていうのは興味があったりする。
でも、そういう非科学的なものや、オカルト的と言われるものは、学問の分野ではほとんど取り扱われることがないのも現実で、縦絵割の社会ですごく住み分けがなされてしまっている。
日本において、そういうオカルト的なことを知識人が考えるのがタブーになってきたのは、福澤諭吉以来なんじゃないかと個人的に思っている。(愛読書の「逆説の日本史」(井沢元彦)にも時々出てくる。)
*******************************
福沢諭吉『福翁自伝』(岩波文庫)より
(1899年刊行)
*******************************
反故を踏みお札を踏む
また私の十二、三歳のころと思う。兄が何か反故を揃えているところを、私がドタバタ踏んで通ったところが、兄が大喝一声、コリャ待てと酷く叱り付けて「お前は眼が見えぬか、これを見なさい、何と書いてある、奥平大膳大夫と御名があるではないか」と大層な剣幕だから「アア左様でございましたか、私は知らなんだ」と言うと「知らんと言っても眼があれば見えるはずじゃ、御名を足で踏むとは如何いう心得である、臣士の道は」と、何か六かしい事を並べて厳しく叱るから謝らずにはいられぬ。
「私が悪うございましたから堪忍して下さい」と御辞儀をして謝ったけれども、心の中では謝りも何もせぬ。
「何のことだろう、殿様の頭でも踏みはしなかろう、名の書いてある紙を踏んだからッて構うことはなさそうなものだ」と甚だ不平で、ソレカラ子供心に独り思案して、兄さんのいうように殿様の名の書いてある反故を踏んで悪いと言えば、神様のお名のある御札を踏んだらどうだろうと思って、人の見ぬ所で御札を踏んでみたところが何ともない。
「ウム何ともない、コリャ面白い、今度はこれを洗手場(ちょうずば)に持って行って遣ろう」と、一歩を進めて便所に試みて、その時はどうかあろうかと少し怖かったが、後で何ともない。
「ソリャ見たことか、兄さんが余計な、あんなことを言わんでも宜いのじゃ」と独り発明したようなものだが、こればかりは母にも言われず姉にも言われず、言えば屹(きつ)と叱られるから、一人で窃(そつ)と黙っていました。
*******************************
稲荷様の神体を見る
ソレカラ一つも二つも年を取れば、おのずから度胸も好くなったとみえて、年寄りなどの話にする神罰冥罰なんということは大嘘だと独り自ら信じ切って、今度は一つ稲荷様を見てやろうという野心を起して、私の養子になっていた叔父様の家の稲荷の社の中には何が這入っているか知らぬと明けて見たら、石が這入っているから、その石を打擲(うっちや)ってしまって代りの石を拾うて入れて置き、また隣家の下村という屋敷の稲荷様を明けて見れば、神体は何か木の札で、これも取って捨ててしまい平気な顔をしていると、間もなく初午になって幟(のぼり)を立てたり太鼓を叩いたり御神酒を上げてワイワイしているから、私は可笑しい。
「馬鹿め、乃公(おれ)の入れて置いた石に御神酒を上げて拝んでるとは面白い」と、独り嬉しがっていたというような訳で、幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有いだのということは一寸もない。
ト筮(うらない)呪詛(まじない)一切不信仰で、狐狸が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした。
*******************************
この自伝で福澤諭吉が言いたいことは、『ご神体も、お札も、単なる石っころだし、単なる紙に書かれた文字に過ぎないし、単なるモノに過ぎないでしょ。ふんづけたりしても別に何も起こらないし、こんなの迷信でしょー。こんなの信じてもしょうがないでしょー。』
ってこと。
勿論、こういう発想は日本が明治維新で急速に近代化していく上では大事な考え方だったのかもしれない。
だけど、この近代人風?の考えに、日本人は未だに毒されているんだろうと思っちゃいます。
日本古来の考えでは、恨みを持って死んだ人は怨霊になるから、禊ぎや祓いをして、ちゃんと祈って奉ることで御霊となって自分を守ってくれる聖なるカミサマへと転じる。
菅原道真の天神様とか、厩戸皇子(ウマヤドノミコ)を聖徳太子と呼ぶとか、・・・日本には無数の例がある。
日本に古来からある古神道・修験道・民俗信仰とかのアニミズムがあって、そこに仏教や儒教や陰陽道とかが複雑に絡まりあって、日本の土着的な信仰は出来ている。
日々の色んな習慣に当たり前のように含まれているんで、意識すらしないことが多いけど、僕らが当たり前と思って行っているものは他の国ではオカルトと思われるようなことがものすごく多い!
日本の民話とか古典とか芸術が、さらに複雑に絡みあって相互作用しながら出来てますしねー。
オカルト的なことを知識人が語らなくなったりしたのは、日本ではつい最近のことなんだと思います。だからこそ、近代的な考え方にあまり毒されず、太古の昔に思いを馳せつつ、自分の素朴な感情に従って色々勉強したいって思いますね。
そう言えば、ランディさんも学問としてオカルトを扱わなくなったのはいつからなのか?ということを丁度調べていたようなのですね。
そしたら、それはカントの『純粋理性批判』以降なんじゃないかって言ってた。
この辺はランディさん自体が色々調べているようなので、いつか文章にしてまとめるかもしれない。だから、そのネタになりそうなことを色々聞いちゃったんで、このブログではあまり多くを語らないことにします。
でも、個人的に自分も調べてみようかなーって思うほど、興味深いことが多い。
カントなんかも、名前は良く知ってるけどどんな人か知らなかったから、Wikipediaで調べてるとすごく興味深い人ですね。
======================================
イマヌエル・カント(1724~1804年)
・『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。ドイツ観念論哲学の祖でもある。
・1740年にはケーニヒスベルク大学に入学する。哲学教授クヌッツェンの影響のもと、ライプニッツやニュートンの自然学を研究した。
・1755年、最初の論文『Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels(天界の一般的自然史と理論)』で太陽系は星雲から生成されたと論証した。その後、学位論文『火について』、就職資格論文『形而上学的認識の第一原理の新しい解釈』。
・1766年、『視霊者の夢』を出版。後年、エマヌエル・スヴェーデンボリについて「スヴェーデンボリの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である、と彼は述べている」(K・ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)。
・1770年(46歳)のときからケーニヒスベルク大学哲学教授になる。就職論文として『可感界と可想界の形式と原理』(原文:ラテン語)。後の『純粋理性批判』につながる重要な構想が述べられている。
・カントの当初の構想では、『純粋理性批判』は単独でその批判の全貌を示すものになるはずであった。しかし、構想の大きさと時間の制約により理論哲学の部分のみを最初に出版した。残る実践哲学および「美と趣味の批判」は後に『実践理性批判』および『判断力批判』として出版されることになった。これらを総称し「三批判書」と呼ぶ。
彼は、人間のもつ純粋理性、実践理性、判断力とくに反省的判断力の性質とその限界を考察し、『純粋理性批判』以下の三冊の批判書にまとめた。「我々は何を知りうるか」、「我々は何をなしうるか」、「我々は何を欲しうるか」という人間学の根本的な問いがそれぞれ『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』に対応している。カントの批判とは否定ではなく吟味をさす。
======================================
カントは、最初は自然科学をとことん勉強して、そこから哲学に入って、1766年には『視霊者の夢』っていう本で霊的なものをとことん調べている。
そこで理性で考えることの限界を感じて、1781年に『純粋理性批判』を書いていたりするみたい。
そういう風に考えると、カントも格段に親近感が湧く。
カントも、そういう非科学的なことを、しっかりと自分の理性で考え抜いた人なんですね。
デカルトとかカントとか、名前だけはスーパースターでよく知ってるけど、ちゃんと真面目に勉強してみたことないから、この機会に調べるのもいい機会かもしれない。
リーマンショック以来、今はなんとなく混沌としていて、これからこの世界がどんな方向に向かうかなんて、誰にも分からない。
でも、突然に突拍子がない方向性に向かうわけでもなく、全ては地続きに連続して変化していくものなんでしょう。
そんな不安渦巻く混迷した現在から、未来を構想していかないといけない。
そのとき、やはり古典となった大先生を読んでみると、未来の方向性がおのずから分かるかもしれない。そうやって、マクロな意味で点と点が線になっていくんだと思う。
その過去の点の存在すらを知らないと、未来の世界がどういう曲線を描くかは偶然の産物に錯覚するかもしれないけど、丁寧に過去の線をプロットしていくと、未来を描く曲線は実は点線として必然的に浮き上がってくるのかもしれない。
未来をどういう方向性に持っていくのは、僕らの世代の微力な人たちが集まった総和の結果ですしね。
そんな無限の他者で未来は自然と形作られていくんでしょう。
相変わらずとりとめもなく色んな話をして、グダグダとダラダラと仕事場とか自宅で過ごさせてもらって、いろいろ刺激を受けてなんとなく帰ってきた。
元々、彼女と話が合うなーと思ったのは、いわゆるオカルトとされているものへの扱い方が近い点。
自分は、気功でも霊でも超能力でも宇宙人でも・・・なんでもいいんだけど、いわゆる非科学的・オカルトとされているものに、小学生のようなノリで興味がある。
そして、そんなオカルト的なものを、自分は半分信じていて、半分信じていない。
半分信じているっていうのは、「そんなの絶対あり得ない」という証明がされているものなんてひとつもないし、しかも、「無い」と証明すること自体が相当困難なんじゃないかって思っているから。だからこそ、可能性や期待も込めて科学的な意味でも、半分信じている。
半分信じてないっていうのは、そうは言っても、オカルト的なことは怪しい商売に悪用されたり、色んな犯罪に使われているのも現状。人をだます手段や、自分の強欲・煩悩のために使う人が実際にいて、そういう人を全く信用していないっていう点で、半分は信じていない。
でも、そんな「目に見えないもの」や、「計り知れないもの」を、学問的に完全にデタラメ!って切り捨てて、考えさえもしないのは学問として誠実ではない。むしろ、知識人やインテリの堕落なんじゃないかと思っていて、だからこそ真面目に、どこまで分かるか、どこから分からないのか、考えれる範囲で考えたいとも思う。
特に、自分は医者として人の生き死にを扱っている仕事だからこそ、死後の世界とか、生まれる・生きてる・死ぬという現象(個体でも集団でも)とか、霊の存在とか、その辺は避けて通れない問題でもある。患者さんと向き合って話していると、そのあたりの話は聞かれることも多い。
生命倫理と称される問題。たとえば脳死議論なんかも、どこから人間の死という境界線を引くかという議論だけど、結局は「死ぬとは何か」という問い自体に迫らないと、なんとなくの表面的な議論だけで終わってしまうのが常で、全ての人が未消化で終わり、誰のためにもならない議論になってしまう。
自分の中では、そういう切実な問題でもあったりする。
日本人は、なんだかんだ言っても、「祟り」とか、「呪い」とか、「怨念」とか、「罰が当たる」とか、「穢れ」とか・・・・他の国から言わせると非科学的としか言いようがないものを知らないうちに信じていて、自分でも「そのなんとなく信じている感じ」がどこから来てるかっていうのは興味があったりする。
でも、そういう非科学的なものや、オカルト的と言われるものは、学問の分野ではほとんど取り扱われることがないのも現実で、縦絵割の社会ですごく住み分けがなされてしまっている。
日本において、そういうオカルト的なことを知識人が考えるのがタブーになってきたのは、福澤諭吉以来なんじゃないかと個人的に思っている。(愛読書の「逆説の日本史」(井沢元彦)にも時々出てくる。)
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福沢諭吉『福翁自伝』(岩波文庫)より
(1899年刊行)
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反故を踏みお札を踏む
また私の十二、三歳のころと思う。兄が何か反故を揃えているところを、私がドタバタ踏んで通ったところが、兄が大喝一声、コリャ待てと酷く叱り付けて「お前は眼が見えぬか、これを見なさい、何と書いてある、奥平大膳大夫と御名があるではないか」と大層な剣幕だから「アア左様でございましたか、私は知らなんだ」と言うと「知らんと言っても眼があれば見えるはずじゃ、御名を足で踏むとは如何いう心得である、臣士の道は」と、何か六かしい事を並べて厳しく叱るから謝らずにはいられぬ。
「私が悪うございましたから堪忍して下さい」と御辞儀をして謝ったけれども、心の中では謝りも何もせぬ。
「何のことだろう、殿様の頭でも踏みはしなかろう、名の書いてある紙を踏んだからッて構うことはなさそうなものだ」と甚だ不平で、ソレカラ子供心に独り思案して、兄さんのいうように殿様の名の書いてある反故を踏んで悪いと言えば、神様のお名のある御札を踏んだらどうだろうと思って、人の見ぬ所で御札を踏んでみたところが何ともない。
「ウム何ともない、コリャ面白い、今度はこれを洗手場(ちょうずば)に持って行って遣ろう」と、一歩を進めて便所に試みて、その時はどうかあろうかと少し怖かったが、後で何ともない。
「ソリャ見たことか、兄さんが余計な、あんなことを言わんでも宜いのじゃ」と独り発明したようなものだが、こればかりは母にも言われず姉にも言われず、言えば屹(きつ)と叱られるから、一人で窃(そつ)と黙っていました。
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稲荷様の神体を見る
ソレカラ一つも二つも年を取れば、おのずから度胸も好くなったとみえて、年寄りなどの話にする神罰冥罰なんということは大嘘だと独り自ら信じ切って、今度は一つ稲荷様を見てやろうという野心を起して、私の養子になっていた叔父様の家の稲荷の社の中には何が這入っているか知らぬと明けて見たら、石が這入っているから、その石を打擲(うっちや)ってしまって代りの石を拾うて入れて置き、また隣家の下村という屋敷の稲荷様を明けて見れば、神体は何か木の札で、これも取って捨ててしまい平気な顔をしていると、間もなく初午になって幟(のぼり)を立てたり太鼓を叩いたり御神酒を上げてワイワイしているから、私は可笑しい。
「馬鹿め、乃公(おれ)の入れて置いた石に御神酒を上げて拝んでるとは面白い」と、独り嬉しがっていたというような訳で、幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有いだのということは一寸もない。
ト筮(うらない)呪詛(まじない)一切不信仰で、狐狸が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした。
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この自伝で福澤諭吉が言いたいことは、『ご神体も、お札も、単なる石っころだし、単なる紙に書かれた文字に過ぎないし、単なるモノに過ぎないでしょ。ふんづけたりしても別に何も起こらないし、こんなの迷信でしょー。こんなの信じてもしょうがないでしょー。』
ってこと。
勿論、こういう発想は日本が明治維新で急速に近代化していく上では大事な考え方だったのかもしれない。
だけど、この近代人風?の考えに、日本人は未だに毒されているんだろうと思っちゃいます。
日本古来の考えでは、恨みを持って死んだ人は怨霊になるから、禊ぎや祓いをして、ちゃんと祈って奉ることで御霊となって自分を守ってくれる聖なるカミサマへと転じる。
菅原道真の天神様とか、厩戸皇子(ウマヤドノミコ)を聖徳太子と呼ぶとか、・・・日本には無数の例がある。
日本に古来からある古神道・修験道・民俗信仰とかのアニミズムがあって、そこに仏教や儒教や陰陽道とかが複雑に絡まりあって、日本の土着的な信仰は出来ている。
日々の色んな習慣に当たり前のように含まれているんで、意識すらしないことが多いけど、僕らが当たり前と思って行っているものは他の国ではオカルトと思われるようなことがものすごく多い!
日本の民話とか古典とか芸術が、さらに複雑に絡みあって相互作用しながら出来てますしねー。
オカルト的なことを知識人が語らなくなったりしたのは、日本ではつい最近のことなんだと思います。だからこそ、近代的な考え方にあまり毒されず、太古の昔に思いを馳せつつ、自分の素朴な感情に従って色々勉強したいって思いますね。
そう言えば、ランディさんも学問としてオカルトを扱わなくなったのはいつからなのか?ということを丁度調べていたようなのですね。
そしたら、それはカントの『純粋理性批判』以降なんじゃないかって言ってた。
この辺はランディさん自体が色々調べているようなので、いつか文章にしてまとめるかもしれない。だから、そのネタになりそうなことを色々聞いちゃったんで、このブログではあまり多くを語らないことにします。
でも、個人的に自分も調べてみようかなーって思うほど、興味深いことが多い。
カントなんかも、名前は良く知ってるけどどんな人か知らなかったから、Wikipediaで調べてるとすごく興味深い人ですね。
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イマヌエル・カント(1724~1804年)
・『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。ドイツ観念論哲学の祖でもある。
・1740年にはケーニヒスベルク大学に入学する。哲学教授クヌッツェンの影響のもと、ライプニッツやニュートンの自然学を研究した。
・1755年、最初の論文『Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels(天界の一般的自然史と理論)』で太陽系は星雲から生成されたと論証した。その後、学位論文『火について』、就職資格論文『形而上学的認識の第一原理の新しい解釈』。
・1766年、『視霊者の夢』を出版。後年、エマヌエル・スヴェーデンボリについて「スヴェーデンボリの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である、と彼は述べている」(K・ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)。
・1770年(46歳)のときからケーニヒスベルク大学哲学教授になる。就職論文として『可感界と可想界の形式と原理』(原文:ラテン語)。後の『純粋理性批判』につながる重要な構想が述べられている。
・カントの当初の構想では、『純粋理性批判』は単独でその批判の全貌を示すものになるはずであった。しかし、構想の大きさと時間の制約により理論哲学の部分のみを最初に出版した。残る実践哲学および「美と趣味の批判」は後に『実践理性批判』および『判断力批判』として出版されることになった。これらを総称し「三批判書」と呼ぶ。
彼は、人間のもつ純粋理性、実践理性、判断力とくに反省的判断力の性質とその限界を考察し、『純粋理性批判』以下の三冊の批判書にまとめた。「我々は何を知りうるか」、「我々は何をなしうるか」、「我々は何を欲しうるか」という人間学の根本的な問いがそれぞれ『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』に対応している。カントの批判とは否定ではなく吟味をさす。
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カントは、最初は自然科学をとことん勉強して、そこから哲学に入って、1766年には『視霊者の夢』っていう本で霊的なものをとことん調べている。
そこで理性で考えることの限界を感じて、1781年に『純粋理性批判』を書いていたりするみたい。
そういう風に考えると、カントも格段に親近感が湧く。
カントも、そういう非科学的なことを、しっかりと自分の理性で考え抜いた人なんですね。
デカルトとかカントとか、名前だけはスーパースターでよく知ってるけど、ちゃんと真面目に勉強してみたことないから、この機会に調べるのもいい機会かもしれない。
リーマンショック以来、今はなんとなく混沌としていて、これからこの世界がどんな方向に向かうかなんて、誰にも分からない。
でも、突然に突拍子がない方向性に向かうわけでもなく、全ては地続きに連続して変化していくものなんでしょう。
そんな不安渦巻く混迷した現在から、未来を構想していかないといけない。
そのとき、やはり古典となった大先生を読んでみると、未来の方向性がおのずから分かるかもしれない。そうやって、マクロな意味で点と点が線になっていくんだと思う。
その過去の点の存在すらを知らないと、未来の世界がどういう曲線を描くかは偶然の産物に錯覚するかもしれないけど、丁寧に過去の線をプロットしていくと、未来を描く曲線は実は点線として必然的に浮き上がってくるのかもしれない。
未来をどういう方向性に持っていくのは、僕らの世代の微力な人たちが集まった総和の結果ですしね。
そんな無限の他者で未来は自然と形作られていくんでしょう。
>自分は半分信じていて、半分信じていない。
…この立場は、僕も近いと思う。どうしようもなく惹かれてしまう感覚と、と同時に、インチキ利用野郎にはだまされたくねぇな!っていう感じと。
ソニーでも超能力研究所とかあったし、あと、僕も何かで調べてて、たしか、帝大時代にはマジメに学問的に心霊研究があったとかなかったとか…。やっぱり戦後の民主化の中で、あるしゅの断念があるのかな?
僕的には、霊的な物が物質的に観測される日が来るのか?(ニュートリノ的に)
あるいは、純粋に思惟の産物なのか、=つまり人間なきところに霊なしなのかってのが、第一の問いとして立てたい。
でも、考えてみると、現代物理はかなり…現実感覚からはワカランデスよね。
カントの生存年の~1804ってのみて、ビックリ!
というか、ちょうど、最近「300年住宅だ」みたいなことを言ってるので、日本の300年前とかを年表見てると、1709年って、綱吉政権が終わり、新井白石が出てきて、生類哀れみの令が廃止されていたりする。カントって、それよりか全然最近の人なんですよね。ホント歴史を実感持って勉強していくと、100年の単位がすごく近く感じるようになる。
もう、戦後の慣習(年功序列や終身雇用、大量消費社会、新制の学校制度等々)なんて、ホント”流行“みたいなものに思えてくる。100年に一度の不況焦るほどのことはない。…なんて達観も出てくる。
追伸:村上春樹の新刊、読み始めました-(売れてもいるみたい。新潮社史上空前の記録
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090529-00000081-mai-soci)
ちょっと、内容的に、オカルトめいたことも出てきて、まだ途中だけど、かなり謎多しです。
わしも、インチキ野郎とか、そんなオカルトを人をだます手段に使う人たちは本当に頭にくるし、そういう客観的に見れる立ち位置は大事。
そうそう。今恐ろしい勢いで親書を出している茂木さんも、ソニーのエスパー研究所にたぶんいたんだよね。
やはり、思想として、日本の古神道が国家神道に利用され、それが戦争の理論として変容されていったプロセスがあって、その大きいトラウマも、戦後に心霊研究とかなされなくなった原因の一つなんだろうね。
最近では、火の玉の大槻教授くらいしか見なくなったし。
でも、あの辺の科学者VS超能力者の議論って、見てて面白いよね。
でも、Isくんの言うように、先端の物理なんてほとんどオカルト的だしねー。
『シュレディンガーの猫』の議論なんてその典型例。
「シュレディンガーの猫」は、箱の中に猫をいれて、その中に猫を殺しうるラジウム(放射性物質)が反応する確率が50%だとすると、人間が観測するまでは猫が生きている状態と死んでいる状態が50%ずつで重なりあうという話。
観測者がいなければ、生きていると死んでいるが重なりあった状態が起こりうる。
この辺もなかなか通常の認識世界を超えてる~。
でも、原始時代の人からするとテレビとか携帯電話なんて、よっぽどオカルトな現象に見えるだろうし、そういう風に世界への認識の仕方ってのも変化していくんでしょうね。
ちなみに、このノーベル物理学賞もとったシュレーディンガーは、オーストリアの人なんだけど、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ哲学に深く傾倒してるからねー。最先端の理論物理学は、東洋的な見方ではないと解釈できないって色んな著作で言っていて、西洋合理主義の限界も唱えている人だし。
大哲学者のカントも、ほんの200年前の人なのよね。
数代自分の祖先をたどるだけで行けるほどの近さ!
100年サイクルで時代を認識していくと、日常の瑣末なことも、きっと残るものは残るだろうし、残らないものは永遠に未来の人が認識できないほど崩れ去っちゃうんだろうねぇ。そういう意味で、この混沌とした時代ってのは。大きい意味での自然淘汰が起きちゃうんだろうけどね。
村上春樹の新刊、『1Q84』、おれも一巻目の半分まで読んだよー。
明後日から平常の仕事が始まるんで、なんとか明日中に読めればなーって思ってる。
この新作も、時間とか暴力とかとオカルト的なものも満載だし、壮大な物語の予感するねー。
確かに、まだわしも謎多し!