■ポップでおバカなんだけど、実は深い
「愛しのローズマリー」(監督:ファレリー兄弟、2001年アメリカ)という映画を観た。
(元々は、ランディさんの家に泊まりに行ったとき、面白いよー!って言われて一緒に途中まで見たんだけど、時間切れになっちゃったんで家に持って帰って続きをひとりで見たのです。)
すごくバカバカしいところもあるんだけど、実は結構感動してしまって、実は最後泣けてしまって、「あー、自分が一番好きな映画って、実はこういうのかもしれない」って思った。
Amazonに書いてある映画の内容もかなりポップな感じで書かれているので、あらすじを軽くご紹介。
**************************
父親の影響で超面食いのハルは、自己精神治療師に催眠術をかけられ、彼の目には巨漢の女性が美女に見えるようになる。そんなときに彼はローズマリーに出会ってひとめぼれ。彼の目にはセクシー美女だが、実はローズマリー、体重136キロの巨漢だった!
アブナイギャクがおはこのファレリー映画、今回もご多分に漏れずだが、テーマは「人間は見た目じゃない」。外見も人間性のひとつだと思うが、この映画はそれだけでいいの?と、観客にも疑問を投げかけてくる。主人公は外見ばかりを重視する現代人をデフォルメしたキャラクターなのだ。個性派のジャック・ブラックはハルにドンピシャのハマリ役。そしてグゥイネス・パルトロウが、ハルの目に映るセクシーなローズマリーと真の姿のローズマリーを熱演。ファットスーツで136キロになったグゥイネスは必見だ。
**************************
(まあ、これは映画説明にも書いてある内容だしネタばれにはならないかな。)
基本的に娯楽映画で、アメリカっぽいギャグ満載で、馬鹿馬鹿しいところも笑える。
でも、監督のファレリー兄弟は実はかなり深い問題を描いていると思った。
それは、「認識論」「美意識」「障害者」などのこと。
■「認識」「美意識」
僕らが世界を認識するとき、ありのままに素直に認識するということがいかに難しいかということ。
そして、いかに社会の常識と称される何らかの大きな価値観に左右されて、自分が世界を認識したり判断したり、美醜を認識しているかということ。
見てくれの表面的な美意識は、実は大した根拠があるわけではない。
それは実は流行に左右されることも多くて、今日の美意識でイイと言われているものは、来年の美意識の流行ではダサイと言われていることも多い。
「他人がイイ」と言っているから、それに流されてなんとなく「自分もイイ」と錯覚していることも多い。
(実際、数年前のファッション雑誌を見ると、なんとなく、特に根拠もなく「ダサイ」と思ってしまうのが不思議なことだ。ワンレンボディコンとか、肩パットがメチャクチャ入ったジャケットとか・・・そんな例は無数にありますよね)
そして、人間を見るとき、いかに外見に左右されてしまうか。
自分の認識が、外見に左右され、その人の内面が外見と相関関係にあるような錯覚をしがちだということ。
その人そのものや内面というものは、外見とパラレルではない。
僕らが、視覚情報から多くの情報を受け取ることで、いかに良くも悪くもそこに影響されてしまうかということを示唆していると思った。
人間の内面にある心の美しさを見るには、「見えないものを見る」ことを意識しないといけないし、それはその人が持つ魅力や、人としての深さや奥行きのような、目に見えないものを認識する働きかけを自分からしなければいけなのだろう。
池にいる鯉のように、口を開けて餌をくれるのをボーっと待っているような認識の仕方だと、容易に視覚情報に騙されてしまう。
その人を知ろうとする、自分からの能動的な働きかけが大事なんだろう。
そんな風にして、美意識とは自分の認識次第で、社会や時代に応じて可変的なものかもしれない。仏教的には『無常』ということ?
■障害や欠点とされるもの
そういう映画表現の中で、監督であるファレリー兄弟の、障害者の方々に対する深い愛情を見た。
人間は、誰もが何かしらの欠点を抱えて生きている。
人には言えない欠点も多いだろう。
障害者の方々は、隠すことができない目に見える形で障害を負っていて、それが短所とされることが実際は多い。
ただ、長所や短所というものは、実は自分が世界をどう認識しているかの副産物として生まれるものであり、可変的なもの。
短所を長所と認識することで、実は世界は180度反転しうる。
短所が長所へ、醜は美へ。
いかに『世間』と言われる実態がないもので自分の認識が歪みられているか、そんな深く大真面目なことを、面白おかしく、説教じみていないコメディータッチで小学生にも分かるように語っている映画なんだと思う。
一見深いテーマを、こういう風にユーモアで語る映画は素晴らしい。
まさしく映画でしか表現できないものも多くて、『こういう表現こそ映画だなー』と改めて思った。
娯楽としても見れるし、認識論のような哲学的問題としても見ることができる。
しかも、ブラックジョーク満載なので、日本でこんなのを作ったら色んな批判が出て作れないかもしれない。そんな意味でも、表現者としてのファレリー兄弟は偉いなーと思った。
外見を気にして、自分はなんでもてないんだろうって、他者の目ばかり気にしている人にもとても勇気をくれる映画だと思った。
ある人を好きか嫌いかっていうのは、基本的に「ワタシ」と「アナタ」の問題であるということ。
もちろん、そこで関係性が閉じられることでの危険性もあるかもしれないけど、その関係性が結果として外部に対していい影響を及ぼすならば、広い意味では開かれた関係性だと思えるし、とてもイイことだと思う。
人間関係はテトリスのようなもの。ある方向に向いていると誰とも合わなくても、形はそのままでも向きを変えることで誰かとピッタリはまることは多い!
(→この、『人間社会=テトリス論』は、このブログ読んでる一部の人とご飯食べた時大いに盛り上がったネタですが、色々深く考えると面白いネタですよね~!)
映画「愛しのローズマリー」は、おバカな感じ満載ではあるけど、実は隠れた名作なんじゃなかろうか。監督の深い深い愛情を感じてしまう。
なんとなく失恋して落ち込んだり、人間関係で落ち込んだり、自分の価値観を見失いそうなときに、結構効く映画かもしれませんよ。
p.s.
LaStradaさんのブログに書いてあった湯川秀樹の言葉も、この映画の世界観に近いのかもしれないと、ふと思った。
==========================================
「現実は痛切である。あらゆる甘さが排斥される。
現実は予想出来ぬ豹変をする。あらゆる平衡は早晩打破せられる。
現実は複雑である。あらゆる早合点は禁物である。
それにもかかわらず現実はその根底において、
常に簡単な法則に従って動いているのである。
達人のみがそれを洞察する。
それにもかかわらず現実はその根底において、常に調和している。
詩人のみがこれを発見する。
達人は少ない。詩人も少ない。
われわれは凡人はどうしても現実にとらわれ過ぎる傾向がある。
そして現実のように豹変し、現実のように複雑になり、
現実のように不安になる。そして現実の背後に、より広大な真実の世界が
横たわっていることに気づかないのである。
現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。
真実はやがて現実となるのである。」
(湯川秀樹「目に見えないもの」より)
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「愛しのローズマリー」(監督:ファレリー兄弟、2001年アメリカ)という映画を観た。
(元々は、ランディさんの家に泊まりに行ったとき、面白いよー!って言われて一緒に途中まで見たんだけど、時間切れになっちゃったんで家に持って帰って続きをひとりで見たのです。)
すごくバカバカしいところもあるんだけど、実は結構感動してしまって、実は最後泣けてしまって、「あー、自分が一番好きな映画って、実はこういうのかもしれない」って思った。
Amazonに書いてある映画の内容もかなりポップな感じで書かれているので、あらすじを軽くご紹介。
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父親の影響で超面食いのハルは、自己精神治療師に催眠術をかけられ、彼の目には巨漢の女性が美女に見えるようになる。そんなときに彼はローズマリーに出会ってひとめぼれ。彼の目にはセクシー美女だが、実はローズマリー、体重136キロの巨漢だった!
アブナイギャクがおはこのファレリー映画、今回もご多分に漏れずだが、テーマは「人間は見た目じゃない」。外見も人間性のひとつだと思うが、この映画はそれだけでいいの?と、観客にも疑問を投げかけてくる。主人公は外見ばかりを重視する現代人をデフォルメしたキャラクターなのだ。個性派のジャック・ブラックはハルにドンピシャのハマリ役。そしてグゥイネス・パルトロウが、ハルの目に映るセクシーなローズマリーと真の姿のローズマリーを熱演。ファットスーツで136キロになったグゥイネスは必見だ。
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(まあ、これは映画説明にも書いてある内容だしネタばれにはならないかな。)
基本的に娯楽映画で、アメリカっぽいギャグ満載で、馬鹿馬鹿しいところも笑える。
でも、監督のファレリー兄弟は実はかなり深い問題を描いていると思った。
それは、「認識論」「美意識」「障害者」などのこと。
■「認識」「美意識」
僕らが世界を認識するとき、ありのままに素直に認識するということがいかに難しいかということ。
そして、いかに社会の常識と称される何らかの大きな価値観に左右されて、自分が世界を認識したり判断したり、美醜を認識しているかということ。
見てくれの表面的な美意識は、実は大した根拠があるわけではない。
それは実は流行に左右されることも多くて、今日の美意識でイイと言われているものは、来年の美意識の流行ではダサイと言われていることも多い。
「他人がイイ」と言っているから、それに流されてなんとなく「自分もイイ」と錯覚していることも多い。
(実際、数年前のファッション雑誌を見ると、なんとなく、特に根拠もなく「ダサイ」と思ってしまうのが不思議なことだ。ワンレンボディコンとか、肩パットがメチャクチャ入ったジャケットとか・・・そんな例は無数にありますよね)
そして、人間を見るとき、いかに外見に左右されてしまうか。
自分の認識が、外見に左右され、その人の内面が外見と相関関係にあるような錯覚をしがちだということ。
その人そのものや内面というものは、外見とパラレルではない。
僕らが、視覚情報から多くの情報を受け取ることで、いかに良くも悪くもそこに影響されてしまうかということを示唆していると思った。
人間の内面にある心の美しさを見るには、「見えないものを見る」ことを意識しないといけないし、それはその人が持つ魅力や、人としての深さや奥行きのような、目に見えないものを認識する働きかけを自分からしなければいけなのだろう。
池にいる鯉のように、口を開けて餌をくれるのをボーっと待っているような認識の仕方だと、容易に視覚情報に騙されてしまう。
その人を知ろうとする、自分からの能動的な働きかけが大事なんだろう。
そんな風にして、美意識とは自分の認識次第で、社会や時代に応じて可変的なものかもしれない。仏教的には『無常』ということ?
■障害や欠点とされるもの
そういう映画表現の中で、監督であるファレリー兄弟の、障害者の方々に対する深い愛情を見た。
人間は、誰もが何かしらの欠点を抱えて生きている。
人には言えない欠点も多いだろう。
障害者の方々は、隠すことができない目に見える形で障害を負っていて、それが短所とされることが実際は多い。
ただ、長所や短所というものは、実は自分が世界をどう認識しているかの副産物として生まれるものであり、可変的なもの。
短所を長所と認識することで、実は世界は180度反転しうる。
短所が長所へ、醜は美へ。
いかに『世間』と言われる実態がないもので自分の認識が歪みられているか、そんな深く大真面目なことを、面白おかしく、説教じみていないコメディータッチで小学生にも分かるように語っている映画なんだと思う。
一見深いテーマを、こういう風にユーモアで語る映画は素晴らしい。
まさしく映画でしか表現できないものも多くて、『こういう表現こそ映画だなー』と改めて思った。
娯楽としても見れるし、認識論のような哲学的問題としても見ることができる。
しかも、ブラックジョーク満載なので、日本でこんなのを作ったら色んな批判が出て作れないかもしれない。そんな意味でも、表現者としてのファレリー兄弟は偉いなーと思った。
外見を気にして、自分はなんでもてないんだろうって、他者の目ばかり気にしている人にもとても勇気をくれる映画だと思った。
ある人を好きか嫌いかっていうのは、基本的に「ワタシ」と「アナタ」の問題であるということ。
もちろん、そこで関係性が閉じられることでの危険性もあるかもしれないけど、その関係性が結果として外部に対していい影響を及ぼすならば、広い意味では開かれた関係性だと思えるし、とてもイイことだと思う。
人間関係はテトリスのようなもの。ある方向に向いていると誰とも合わなくても、形はそのままでも向きを変えることで誰かとピッタリはまることは多い!
(→この、『人間社会=テトリス論』は、このブログ読んでる一部の人とご飯食べた時大いに盛り上がったネタですが、色々深く考えると面白いネタですよね~!)
映画「愛しのローズマリー」は、おバカな感じ満載ではあるけど、実は隠れた名作なんじゃなかろうか。監督の深い深い愛情を感じてしまう。
なんとなく失恋して落ち込んだり、人間関係で落ち込んだり、自分の価値観を見失いそうなときに、結構効く映画かもしれませんよ。
p.s.
LaStradaさんのブログに書いてあった湯川秀樹の言葉も、この映画の世界観に近いのかもしれないと、ふと思った。
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「現実は痛切である。あらゆる甘さが排斥される。
現実は予想出来ぬ豹変をする。あらゆる平衡は早晩打破せられる。
現実は複雑である。あらゆる早合点は禁物である。
それにもかかわらず現実はその根底において、
常に簡単な法則に従って動いているのである。
達人のみがそれを洞察する。
それにもかかわらず現実はその根底において、常に調和している。
詩人のみがこれを発見する。
達人は少ない。詩人も少ない。
われわれは凡人はどうしても現実にとらわれ過ぎる傾向がある。
そして現実のように豹変し、現実のように複雑になり、
現実のように不安になる。そして現実の背後に、より広大な真実の世界が
横たわっていることに気づかないのである。
現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。
真実はやがて現実となるのである。」
(湯川秀樹「目に見えないもの」より)
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ぐぃねす・ぱるとろうも、じゃっく・ぶらっくも、僕は大好きです。
ぐぃねすは「ぷるーふ・おぶ・まい・らいふ」は素晴らしかったし、じゃっくは、じゅーど・ろうやきゃめろん・でぃあずも出てた「ほりでぃ」や、「なちょ・りぶれ」「すくーる・おぶ・ろっく」がよかったです。
なんというか、畏れのようなものを持ちつつ、そんな大いなるものに敬意を持ちつつ文章を紡ぐ人というか。
物理学のシュレディンガー、朝永振一郎しかり。数学者の岡潔しかり・・・
突き抜けて超一流の人は、ほんと文章書いても素晴らしいんだなー。
男主人公のジャック・ブラックは、面白かったー! School of rockも、近所のツタヤでは高い評価だったし、今度見てみようっと。
女主人公のグウィネス・パルトローは・・・あんまりどんな演技だったか覚えてない。笑
それにしても、「愛しのローズマリー」はテーマがかなり深くて驚いたー。
みんなに観てもらって、この辺をネタに話すのも面白いだろうなーって思ったよー。
温かい気持ちになれそうですね^^今観たいです~
教えていただいた「カワイイTV」(チェックしました^^)で扱われている材料も世代や場所によってカワイイにもなり、ダサイにもなるところが面白いです。
そしてテトリス、まさにそうですね!おぉ、なんだかスゴクわかりやすい。
同じ形のものが違うタイミングで現れたら、それもまたピッタリ合ったり合わなかったり・・・まさに人間社会ですね!
いやー興味持ってもらえたら、ぜひ見てほしい!!
僕は相当に深い話だと思いました。
笑えるし、最後には少し泣けるのですよ。
僕も映画ではあまり泣かないけど、何故か最後に感動して泣いちゃったー。
見たら、感想教えてほしい!
「カワイイTV」、若さとかが爆発してて面白いでしょ!
ギャルカルチャーも女子高生カルチャーも、どんどん新しいものを発掘して新陳代謝してて。。。
あの若さのエネルギーはいつもたまげる。
ああいう混沌の中から色んなものが生まれてくるんだろうなぁと思っちゃいます。
テトリス論、これも何時間も話せそうだよねー笑
自意識過剰で、『これがほしい、これがほしい』って思うとほしくないものが来る。笑
でも、その事実をあるがままに受け入れて、少し頭を柔らかくして工夫すると、意外や意外でピッタリはまるようになったりね。
いやー。ほんとテトリスは奥が深いよなー。人間社会と同じ!