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大尊敬している漫画家の近藤ようこさんと、遊行寺でトークをさせていただいた。
とても嬉しく素晴らしい時間だった。夢のような時間。
近藤ようこさんは、菩薩のようなたたずまいだった。
しかも、まさに「死者の書」((原作)折口信夫:ビームコミックス)の最終章を描いているという極めて貴重な時間にお越しいただき、本当にほんとうに感謝しております。ありがとうございました。
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自分は近藤ようこさんの超名作『見晴らしガ丘にて』(1985年)を、中学生の時に読んで感動したのを覚えている。
近藤さんも「あの作品を超えるようなものを今でも書きたいですね」とおっしゃっていた。
もちろん、近藤さんの作品はどの作品もすごいのだが・・・。
どんな人でも、若い時の作品にはすべてのエッセンスが込められている。
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■
近藤ようこさんの漫画は、能楽と似ていると思う。だから、すこしだけその真髄が分かりにくいのだろう。
お能では、舞台装置がほとんどない。
棒が一本立っているだけだったりする。
それは、観客がそこにイマジネーションを付与することで、この現実世界ではなくイマージュの世界で初めて完成する芸術だからだ。
観る側の働きかけが必要とされる。
双方向がそったく同時で卵の殻が割れるように舞台へと意識を働きかけることで作品は完成する。
別の言い方をすれば、観客の働きかけがないと、作品は永遠に未完成なのだ。
近藤さんの漫画は背景をあえて描かず、積極的に余白を描き、余計なものは極限までそぎ落とす漫画を描かれる。
これは、読み手にイメージの余白を与えているという事だ。
読み手のイメージで、「間」を自由に補完することが許されている。
だから、近藤さんの線は極めてシンプルになる。
それは、熟達したプロだけに許される高密度の情報場の世界なのだと自分は感じている。
■
中世の説教節である小栗判官を初めて聞いたのは盲目の琵琶法師から。生声と語りで聞いたのだった。もうその琵琶法師はなくなられた。今、琵琶法師はほとんどいなくなっている。
その後、岩佐又兵衛という天才絵師の絵巻物で見た(宮内庁の三の丸尚蔵館に保管されている)。
横に横につながる絵巻物は、漫画の原点だと自分は思う。
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時を経て、近藤ようこさんの『説経 小栗判官』で再度この物語りに再会した。
そのとき、何かこの物語が自分の中に流れ込んできたのを身体感覚で実感したのだった。
物語や神話は、先人の思いの乗り物となり、時空を超えてゲートはつながる。
■
対談場所の遊行寺は『小栗判官』が蘇生する重要な場所。
踊念仏の一遍上人、時宗の総本山。
この場所で、死から生への次元転換が起きる。
遊行寺には明治天皇も来られていて、同伴したのは山岡鉄舟、井上馨、品川弥二郎、大隈重信、岩倉具視、西郷隆盛だった。
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■
『小栗判官』は様々な説話や伝説などが重層的に融合して作られていて、原型を再現することは難しい。
鞍馬、毘沙門天、正八幡、蛇と人間の交わり、馬術、死と再生、神と仏、遊行寺、熊野、美濃、愛と誠、ハンセン氏病、差別、・・・
人間の様々な面が乱反射している世界。
それは人間の暗黒面をも含んでいる。
死者を鎮魂するのは生者の役目だと思う。
死者は死者を鎮魂できない。
だから、鎮魂は生きている人に託されている重要な仕事なのだと思う。
鎮魂というのも、難しいことではないと自分は思っている。
先人・死者の思いをよく聞いて、それを受け取り、次に手渡すということ。
お墓参りという行為も、亡くなった人から何か抽象的なものを受け取り、次につなげるための、身体的な記憶のようなものだと思う。
そういう行為があるからこそ、常に身体感覚として思い出す事ができる。
様々な歴史の層の上に、今の私たちが載っている、ということを。
近藤ようこさんと、小栗や照手姫のお墓参りをできて、彼らもきっと喜んでいるだろう。
「わたしたちを忘れないで。わたしたちはずっとこにいて、あなたたちを見守っている。
わたしたちができなかったことを、あなたたちはきっと成し遂げて」、と。
■近藤ようこ『説経 小栗判官』より(冒頭)
この物語の由来を
明らかにいたしますれば
国を申さば 美濃の国
安八(あんぱち)の郡(こおり)
墨俣(すのまた)
「垂井おなこと」の神の
ご神体は
正八幡でございます
この荒人神も
神になられる以前には
人間でいらっしゃいました
その
人間でいらっしゃった頃の
物語でございます
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とても嬉しく素晴らしい時間だった。夢のような時間。
近藤ようこさんは、菩薩のようなたたずまいだった。
しかも、まさに「死者の書」((原作)折口信夫:ビームコミックス)の最終章を描いているという極めて貴重な時間にお越しいただき、本当にほんとうに感謝しております。ありがとうございました。
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自分は近藤ようこさんの超名作『見晴らしガ丘にて』(1985年)を、中学生の時に読んで感動したのを覚えている。
近藤さんも「あの作品を超えるようなものを今でも書きたいですね」とおっしゃっていた。
もちろん、近藤さんの作品はどの作品もすごいのだが・・・。
どんな人でも、若い時の作品にはすべてのエッセンスが込められている。
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近藤ようこさんの漫画は、能楽と似ていると思う。だから、すこしだけその真髄が分かりにくいのだろう。
お能では、舞台装置がほとんどない。
棒が一本立っているだけだったりする。
それは、観客がそこにイマジネーションを付与することで、この現実世界ではなくイマージュの世界で初めて完成する芸術だからだ。
観る側の働きかけが必要とされる。
双方向がそったく同時で卵の殻が割れるように舞台へと意識を働きかけることで作品は完成する。
別の言い方をすれば、観客の働きかけがないと、作品は永遠に未完成なのだ。
近藤さんの漫画は背景をあえて描かず、積極的に余白を描き、余計なものは極限までそぎ落とす漫画を描かれる。
これは、読み手にイメージの余白を与えているという事だ。
読み手のイメージで、「間」を自由に補完することが許されている。
だから、近藤さんの線は極めてシンプルになる。
それは、熟達したプロだけに許される高密度の情報場の世界なのだと自分は感じている。
■
中世の説教節である小栗判官を初めて聞いたのは盲目の琵琶法師から。生声と語りで聞いたのだった。もうその琵琶法師はなくなられた。今、琵琶法師はほとんどいなくなっている。
その後、岩佐又兵衛という天才絵師の絵巻物で見た(宮内庁の三の丸尚蔵館に保管されている)。
横に横につながる絵巻物は、漫画の原点だと自分は思う。
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時を経て、近藤ようこさんの『説経 小栗判官』で再度この物語りに再会した。
そのとき、何かこの物語が自分の中に流れ込んできたのを身体感覚で実感したのだった。
物語や神話は、先人の思いの乗り物となり、時空を超えてゲートはつながる。
■
対談場所の遊行寺は『小栗判官』が蘇生する重要な場所。
踊念仏の一遍上人、時宗の総本山。
この場所で、死から生への次元転換が起きる。
遊行寺には明治天皇も来られていて、同伴したのは山岡鉄舟、井上馨、品川弥二郎、大隈重信、岩倉具視、西郷隆盛だった。
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『小栗判官』は様々な説話や伝説などが重層的に融合して作られていて、原型を再現することは難しい。
鞍馬、毘沙門天、正八幡、蛇と人間の交わり、馬術、死と再生、神と仏、遊行寺、熊野、美濃、愛と誠、ハンセン氏病、差別、・・・
人間の様々な面が乱反射している世界。
それは人間の暗黒面をも含んでいる。
死者を鎮魂するのは生者の役目だと思う。
死者は死者を鎮魂できない。
だから、鎮魂は生きている人に託されている重要な仕事なのだと思う。
鎮魂というのも、難しいことではないと自分は思っている。
先人・死者の思いをよく聞いて、それを受け取り、次に手渡すということ。
お墓参りという行為も、亡くなった人から何か抽象的なものを受け取り、次につなげるための、身体的な記憶のようなものだと思う。
そういう行為があるからこそ、常に身体感覚として思い出す事ができる。
様々な歴史の層の上に、今の私たちが載っている、ということを。
近藤ようこさんと、小栗や照手姫のお墓参りをできて、彼らもきっと喜んでいるだろう。
「わたしたちを忘れないで。わたしたちはずっとこにいて、あなたたちを見守っている。
わたしたちができなかったことを、あなたたちはきっと成し遂げて」、と。
■近藤ようこ『説経 小栗判官』より(冒頭)
この物語の由来を
明らかにいたしますれば
国を申さば 美濃の国
安八(あんぱち)の郡(こおり)
墨俣(すのまた)
「垂井おなこと」の神の
ご神体は
正八幡でございます
この荒人神も
神になられる以前には
人間でいらっしゃいました
その
人間でいらっしゃった頃の
物語でございます
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