日常

近藤ようこ「水鏡綺譚」

2016-02-02 14:50:23 | 
近藤ようこさんの「水鏡綺譚」(ちくま文庫:2015/11/11)
・・・泣けた・・・。

放浪の主人公のワタルは「立派な人間になる」ために旅をする。
旅の道中には、精霊や鬼、異界の存在と、隣の部屋に襖一枚で通じるような近さで交流し合う。
時には傷つき、時には学びながら、終わりのない旅を続ける。
記憶をなくした同行者は失われた「たましい」を探しながら・・・。

オビに高橋留美子さん(高校の同級生!)の推薦文がある。
「水鏡綺譚は、長年忘れがたい未完の物語であった。
 旅が終わった今、この物語は愛しい泉の如く、心にあり続ける」




近藤ようこさんの「間」や「空間」のとり方は天才的で前衛的です。幾何学的でもあります。
何も書かないところに、読み手がイメージを補完することで相補的に完成されていく漫画世界でもあります。

漫画家が尊敬する漫画家、と言われるのがうなずけます。
能楽のように抽象度の高い絵の構成の中に、様々な世界が錯綜した世界を簡潔に描くのです。


今週末、近藤ようこさんとは、説教節『小栗判官』の重要な土地である遊行寺にて対談をさせて頂きます。こんなに光栄なことはございません。





岩佐又兵衛 絵巻「をぐり」(小栗判官物語絵巻)


遊行寺は、時宗総本山で踊り念仏の一遍上人の聖地です。

鎌倉の戦乱時代、法然、親鸞と受け継がれたスピリットは、一遍上人にて踊りという芸術までに宗教は昇華されてしまうのです。




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『一遍上人全集』より

「昔、空也上人へ、ある人が『念仏はどのように心得て、となえるべきか』とたずねたところ、
『捨ててこそ』
とだけおっしゃって、他に何もおっしゃらなかった」
と、西行法師の『撰集抄』に載せられている。

これは、本当にすばらしい言葉である。

念仏の行者は知恵も迷いも捨て、
世俗的な善悪の世界にもかかわらず、
身分の貴賎高下にもとらわれず、
地獄を恐れる心も捨て、
極楽を願う心も捨て、
さらに浄土教をはじめ仏教の各宗の教えも捨て、
一切のことを捨てて申す念仏こそが、阿弥陀如来の本願にはかなうのである。

このように声をうちあげうちあげ念仏をとなえていると、
仏も消え、我も消えて、仏我一如となり、
そこになおさら何かありがたい教えがある、などということもなくなるのである。
世俗の善悪の世界はそのままが浄土の世界となる。
念仏の外に浄土を求めてはいけないし、この世俗の世界を嫌ってはならない。



(称名の声のある所)すべて生きとし生けるもの、さらに山河草木、吹く風や立つ波の音までさえも、念仏の境界でないものはない。
(だから)人だけが弥陀超世の大悲の本願に救われるのではない。

またこのように愚僧が申す事も納得しにくうございましたら、
納得しにくいまま、愚僧が申すことも捨ててしまって、
何ともかともあてはめて考えたりしないで、本願にまかせて念仏をなさるべきである。


念仏は安心があって申すのも、安心がなくても申すのも、どちらも阿弥陀如来の他力超世の本願に違背することはない。
阿弥陀如来の本願には欠けている所も、余計なところもない。
もうこの他に、何をかくかく心すべしと言うべきことがあろうか。
ただ、是非分別のつかぬ愚者の心になりきって、そのまま念仏なさるべきである。

一遍
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自分は、高校生まで漫画で学問の基礎を築いた人間です。
失読症ではないかと言うほど、高校生までは活字が読めず、漫画や絵画には大いに救われました。

近藤ようこさんの漫画からも、自分は多くのかけがえのないものを受け取っています。










近藤ようこさんの「水鏡綺譚」を読んでいると、人間も仏も、日々交流しているのに気付いていないだけなんじゃないかという思いが強くなります。

お釈迦になる、お陀仏、・・・など。
生から死へ、という次元転換と、ヒトから仏へ、という次元転換とが日本語の中には同等の地平で語られています。
そこには、日本語を構築してきた先人の思いが秘かに込められているようです。
この世の現象すべてが『仏』だと思えば、生き方も変わるでしょう。


涅槃経に出てくるという有名な言葉があります。
『一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじょうしつうぶっしょう)』


「全ての生きとし生くるものは、仏性(仏になる可能性)を有している」
と訳すのが通常ですが、曹洞宗の開祖である道元禅師は悩みました。
仏性が「有る」とすると、「無い」という相対的な言葉も同時に生まれてしまいます。
すると、ではネコには仏性があるのかないのか?石ころにはあるのかないのか?・・・
という問いが無限に生まれてきてしまうのです。
当時も、そういう論争があったのです。


そこで、「読み」を変えました。
『一切衆生悉有仏性』
一切は衆生なり。悉有(すべて)が仏性なり。

全世界、全存在、全宇宙が仏性である。仏である。と。
自分の行いも、すべて仏の行いであると思って生きなさい、と。

そうすれば、あるかないか、という二元論的な問いは消えます。

全世界、全存在、全宇宙が仏性である。仏である。
わたしも、あなたも、あれもこれも、・・・・言葉で言えるものも言えないものも、すべてが仏である。


近藤ようこさんの「水鏡綺譚」の読後に、そういう言葉がこだまのように聞こえてきたのでした。