「自分を信じる」とはどういうことだろうか、と考える機会があった。
そのことに関して、自分が考えたことを書いてみたい。
自分が得た感動というものがある。
たとえば、登山で見た朝日や夕日の素晴らしさや美しさ。
1日が始まり1日が終わるという単純なサイクルが、こんなにも壮大で感動的な営みなんだ!ということが、心や皮膚やすべてに突き刺さった瞬間があった。
自分の心に突き刺さる、そんな感情の渦の全て。
そんな体験を、文章に書いて伝えることもできる、写真にとって伝えることもできる。
でも、それは常に部分でしかなく、決して全体ではない。
部分にすぎなくても、その全体のエネルギーが途方もなく大きければ、伝播する熱も大きくなる。
でも、伝わるのは、部分に過ぎない。
その全体を感じて知っているのは、実はこの地球上に、自分ただ一人しかいない!それは過去でも現在でも未来でも、自分ただ一人しかいない!
そういう、「全体」を感じたこと。
これは自分だけの体験であり、自分のオリジナルであり、一回性の体験であり二度と追体験できない。
相対的なものが多いこの世界で、数少ない絶対性の体験なのではなかろうか。
自分を信じること。
それは、そんな自分に突き刺さった、「全体」を感じた「絶対性」の体験を信じること。
そういうことなんだと思う。
それは人との出会いでもいい、何かに感動したことでもいい。
音楽でも、風景でも、絵でも、漫画でも・・・
本当になんでもいい。
それは、その人にしかない。
他人をマネしても、絶対にそこにはない。
それは、自分を掘り起こさないとわからない。
掘ることは孤独な作業だけれど、掘れば必ずそこにあると思う。
激しい感情の渦でつかまれた体験があるはず。
それは、その人しか全体を知らないもの。
過去にも、現在にも、未来にも、ただその人にしか全体を感じとっている人は存在しない。
だから、僕はそれは信じたいと思う。
それが、「自分を信じる」ことだと、思う。
まだ未完成ですけど、とりあえず現時点で書き残してみました。
これを手がかりに、また考えてみるかもしれません。
そのことに関して、自分が考えたことを書いてみたい。
自分が得た感動というものがある。
たとえば、登山で見た朝日や夕日の素晴らしさや美しさ。
1日が始まり1日が終わるという単純なサイクルが、こんなにも壮大で感動的な営みなんだ!ということが、心や皮膚やすべてに突き刺さった瞬間があった。
自分の心に突き刺さる、そんな感情の渦の全て。
そんな体験を、文章に書いて伝えることもできる、写真にとって伝えることもできる。
でも、それは常に部分でしかなく、決して全体ではない。
部分にすぎなくても、その全体のエネルギーが途方もなく大きければ、伝播する熱も大きくなる。
でも、伝わるのは、部分に過ぎない。
その全体を感じて知っているのは、実はこの地球上に、自分ただ一人しかいない!それは過去でも現在でも未来でも、自分ただ一人しかいない!
そういう、「全体」を感じたこと。
これは自分だけの体験であり、自分のオリジナルであり、一回性の体験であり二度と追体験できない。
相対的なものが多いこの世界で、数少ない絶対性の体験なのではなかろうか。
自分を信じること。
それは、そんな自分に突き刺さった、「全体」を感じた「絶対性」の体験を信じること。
そういうことなんだと思う。
それは人との出会いでもいい、何かに感動したことでもいい。
音楽でも、風景でも、絵でも、漫画でも・・・
本当になんでもいい。
それは、その人にしかない。
他人をマネしても、絶対にそこにはない。
それは、自分を掘り起こさないとわからない。
掘ることは孤独な作業だけれど、掘れば必ずそこにあると思う。
激しい感情の渦でつかまれた体験があるはず。
それは、その人しか全体を知らないもの。
過去にも、現在にも、未来にも、ただその人にしか全体を感じとっている人は存在しない。
だから、僕はそれは信じたいと思う。
それが、「自分を信じる」ことだと、思う。
まだ未完成ですけど、とりあえず現時点で書き残してみました。
これを手がかりに、また考えてみるかもしれません。
自信について。
私は頭では何となく理解しましたが、まだ実感として湧かないので、これからの歩みが楽しみです。
「時空のわくに閉じ込められた小我に対して、あまねくあるものは大我であり、理性的には、『大我の中に各人のメロディーがある』といわれている。しかし本当はそうではない。これも、メロディーの中に大我があるというのが
正しい。メロディーがその人のすべてであり、その中に含まれているだけの大我しかその人にはない。また、そこにあるだけしか、そのメロディーの人にはわからない。今弾いている音楽がその人にとってのすべてであるとすれば、その中に表現されている森羅万象がその人にとっての森羅万象なのである。」
この方は、本当に数学のさらに先に言って、そこから数学とか世界を見ている感じがするね。
視点自体が、すでに僕らを包み込んでいる気がする!
「メロディーがその人のすべてであり」
「今弾いている音楽がその人にとってのすべてであるとすれば、その中に表現されている森羅万象がその人にとっての森羅万象なのである。」
とか、しびれるねー。
自分も、なるべく日常言語にある言葉を駆使して表現するように努力しているからわかりにくくなっちゃうんだけど、自分の中では「部分」と「全体」に関してのイメージなんだよね。
なかなか「全体」を分ることってほとんどないけど、それは「自己」でも「他者」でも「世界」でもね。
でも、自分の全身を貫いた体験ってのは、数少ない「全体」なんじゃないかと思うのよね。短期・長期記憶というシステムの中でも忘却されず、常に現在に、永遠に現在に存在しているものっていうのがある。
そんな、「永遠の現在」を感じることができること、それが「全体を感じた体験」、まあ感動などと言ったりする類のことかなぁと。
そして、それはつまり、永遠の現在の問題として付き合っていくべきである「自分」そのものだから、「自分を信じる」ことになるのではないかと。
なんか、LaStradaさんと、岡さんの引用のおかげで、自分の中で「永遠の現在」って言葉が自然に出てきた!
ありがとうー。確かに、この辺の時間間隔も考えに入れた方がいいなー。
こうやって、自分の中だけで閉じないで考えると、自己は他者から見いだせられる。面白いもんだなー。