映画『天国は、ほんとうにある』
2014/12/13に公開されるみたい。
この本の原作は、
○トッド・バーポ,リン・ヴィンセント,阿蘇品友里(翻訳)『天国は、ほんとうにある―天国へ旅して帰ってきた小さな男の子の驚くべき物語』青志社(2011/10/17)
虫垂炎の手術で臨死体験をした4歳のコルトン君が語る、あちらの世界の話し。
コルトン君の素直な発言からは、色々と考えさせられることが多かった。それぞれの文化背景や宗教的背景で、あるイメージや体験を言語に変換するとき、そこで微妙な差異が生まれることも興味深かった。
天国という表現自体がキリスト教でのコトバだから、日本では極楽、桃源郷、常世、、、、色んなコトバを各自がイメージすればいいのだと思う。
映画化されるのがいまから楽しみ。
■
こうして海外でも映画化されて大ヒットしているのは、日本でも映画「かみさまとのやくそく」が日本でジワジワと広がっている現象とシンクロしていると思う。
この現象が何故今起きているのか・・・、その全体的な布置を把握することが大切だ。
表面だけに惑わされずに。波ではなくて海を観察する。
そういう素敵な映画のシンポジウムを、自分もさせて頂くのは光栄なことだ。
<関連>
○映画『かみさまとのやくそく』(2014-03-25)
○ロバート・コールズ「子どもの神秘生活」(2014-04-03)
○池川明「ママ、生まれる前から大好きだよ! -胎内記憶といのちの不思議」(2014-05-25)
■
僕らが生きている世界は多層構造になっているようだ。
どこか単一の層を唯一のリアリティーだと誤解して、そこだけに引きずられるわけではなく、それぞれの世界をすべて尊重しながら、それぞれが調和して生きていくことが大事だ。
それは日常生活でも各々が常に遭遇する課題だ。
そんな未来像を、時間軸を少し前側にはみ出して示唆しているのだと思う。
そこに気付けるかどうかは、感性の世界でもある。自分を信じることができるかどうかにも関わってくる。
それは藝術や文化活動や自然との素直な対話によって、静かに育まれるものだ。
■
先日、ロンドンでの映画「かみさまとのやくそく」上映会の時にSkypeで講演をさせていただいた。(通訳の方を介して・・・)
The borderland between this life and afterlife through my daily clinical practice
その時の様子を江國まゆさんという方が丁寧に報告してくださっている。感謝。有難うございます。
○自分がどう思うのか BY 江國 まゆ 2014年10月16日
■
『天国は、ほんとうにある―天国へ旅して帰ってきた小さな男の子の驚くべき物語』(2011/10/17)より
*************
「あのね、ぼくがさけんだのはね、イエスが、ぼくを、連れてきたからだよ。イエスはね、パパの祈りにこたえてるから、ぼくは、もどらないとだめって言ったの。でね、ぼく、パパってさけんだんだよ」
(・・・・)
それで、イエスは、私の祈りに応えた? 直接、私の祈りに? 神に向かってわめき散らし、神を非難し、神の知恵と誠実さを失った私に? なぜ、神があんな祈りに応えたんだろう? なんだって、その慈悲に値したんだろう?
牧師でもある父トッドは、自分の祈りが聞き届けられ、イエスによって息子が助かったと聞き、うろたえます。
彼が怒りを爆発させようとも罵倒しようとも、イエスは息子を腕に抱き、そして生死の境から甦らせてくれたのです。
私が学んできたことは、いったいなんだったのだろう?
私は同僚の牧師たちにそう話した。
神は、神とほんとうに繋がることは可能だと、思い出させてくれたのだ。
私は学んだ。祈りを天国に届けるためには、いわゆる教会的な、神聖に響く祈りなんて、ほんとうはいらないのだと。
「みなさんも、神に、自分の気持ちを伝えようとするでしょう」と私。
「でも、神はもうそれを知っているのです」
なによりも大切なのは、聞かれていると悟ったことだ。私たちは、全員、聞かれている。
*************
■
(心理学者ユングのお墓に刻まれた文字)
********************
『Vocatus atque non vocatus deus aderit
(呼ばれても、呼ばれなくても、、神はそこにいる)』
********************
(村上春樹さんの「1Q84 book3」では、『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』という表現になっていた。)
********************
村上春樹「1Q84 book3」
「その家はまだ今でもチューリッヒ湖畔に建っている。ユングの子孫によって管理されているが、残念ながら一般には公開されていないから、内部を目にすることはできない。話によればそのオリジナルの『塔』の入り口には、ユング自身の手によって文字を刻まれた石が、今でもはめ込まれているということだ。『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』、それがその石にユングが自ら刻んだ言葉だ」
タマルはもう一度間をおいた。
「『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』」と彼はもう一度静かな声で繰り返した。
「意味はわかるか?」
牛河は首を振った。「いや、わからない」
「そうだよな。どういう意味だか俺にもよくわからん。あまりにも深い暗示がそこにはある。解釈がむずかしすぎる。
でもカール・ユングは自分がデザインして、自分の手で石をひとつひとつ積んで建てた家の入り口に、何はともあれその文句を、自分の手で鑿を振るって刻まないではいられなかったんだ。
そして俺はなぜかしら昔から、その言葉に強く惹かれるんだ。」
********************
■
エベン・アレグザンダー「プルーフ・オブ・ヘヴン--脳神経外科医が見た死後の世界」早川書房 (2013/11/29)より
(脳外科医のアレグザンダー医師が臨死体験をして、こちらに戻ってきた時に覚えていたメッセージ)
********************
・あなたは永遠に深く愛されています
・この世に怖れることなど何もありません
・あなたのすることにただ一つの間違いもありません
********************
■
ぼくらは生の中を生きていて死を考えるから、視点が偏りがちになる。
時には死の中を生きて、そこから生を見る練習をするといい。
自分が死んだとしてこの世界を観察してみる。
そうなると、生の本質がおのずから分かる。
何のために自分が生を受けたのか、なぜこうして生まれてきたのか、という哲学的な命題も、両方の観点から考えないと分からないようになっている。
それは、プラトンが『パイドン』の中で言っていることにも通じる。
○プラトン「パイドン -魂の不死について」(2011-08-03)
「哲学者は死を恐れない。
死とは魂と肉体との分離であり、哲学者は魂そのものになること、
すなわち、死ぬことの練習をしている者であるのだから。」
2014/12/13に公開されるみたい。
この本の原作は、
○トッド・バーポ,リン・ヴィンセント,阿蘇品友里(翻訳)『天国は、ほんとうにある―天国へ旅して帰ってきた小さな男の子の驚くべき物語』青志社(2011/10/17)
虫垂炎の手術で臨死体験をした4歳のコルトン君が語る、あちらの世界の話し。
コルトン君の素直な発言からは、色々と考えさせられることが多かった。それぞれの文化背景や宗教的背景で、あるイメージや体験を言語に変換するとき、そこで微妙な差異が生まれることも興味深かった。
天国という表現自体がキリスト教でのコトバだから、日本では極楽、桃源郷、常世、、、、色んなコトバを各自がイメージすればいいのだと思う。
映画化されるのがいまから楽しみ。
■
こうして海外でも映画化されて大ヒットしているのは、日本でも映画「かみさまとのやくそく」が日本でジワジワと広がっている現象とシンクロしていると思う。
この現象が何故今起きているのか・・・、その全体的な布置を把握することが大切だ。
表面だけに惑わされずに。波ではなくて海を観察する。
そういう素敵な映画のシンポジウムを、自分もさせて頂くのは光栄なことだ。
<関連>
○映画『かみさまとのやくそく』(2014-03-25)
○ロバート・コールズ「子どもの神秘生活」(2014-04-03)
○池川明「ママ、生まれる前から大好きだよ! -胎内記憶といのちの不思議」(2014-05-25)
■
僕らが生きている世界は多層構造になっているようだ。
どこか単一の層を唯一のリアリティーだと誤解して、そこだけに引きずられるわけではなく、それぞれの世界をすべて尊重しながら、それぞれが調和して生きていくことが大事だ。
それは日常生活でも各々が常に遭遇する課題だ。
そんな未来像を、時間軸を少し前側にはみ出して示唆しているのだと思う。
そこに気付けるかどうかは、感性の世界でもある。自分を信じることができるかどうかにも関わってくる。
それは藝術や文化活動や自然との素直な対話によって、静かに育まれるものだ。
■
先日、ロンドンでの映画「かみさまとのやくそく」上映会の時にSkypeで講演をさせていただいた。(通訳の方を介して・・・)
The borderland between this life and afterlife through my daily clinical practice
その時の様子を江國まゆさんという方が丁寧に報告してくださっている。感謝。有難うございます。
○自分がどう思うのか BY 江國 まゆ 2014年10月16日
■
『天国は、ほんとうにある―天国へ旅して帰ってきた小さな男の子の驚くべき物語』(2011/10/17)より
*************
「あのね、ぼくがさけんだのはね、イエスが、ぼくを、連れてきたからだよ。イエスはね、パパの祈りにこたえてるから、ぼくは、もどらないとだめって言ったの。でね、ぼく、パパってさけんだんだよ」
(・・・・)
それで、イエスは、私の祈りに応えた? 直接、私の祈りに? 神に向かってわめき散らし、神を非難し、神の知恵と誠実さを失った私に? なぜ、神があんな祈りに応えたんだろう? なんだって、その慈悲に値したんだろう?
牧師でもある父トッドは、自分の祈りが聞き届けられ、イエスによって息子が助かったと聞き、うろたえます。
彼が怒りを爆発させようとも罵倒しようとも、イエスは息子を腕に抱き、そして生死の境から甦らせてくれたのです。
私が学んできたことは、いったいなんだったのだろう?
私は同僚の牧師たちにそう話した。
神は、神とほんとうに繋がることは可能だと、思い出させてくれたのだ。
私は学んだ。祈りを天国に届けるためには、いわゆる教会的な、神聖に響く祈りなんて、ほんとうはいらないのだと。
「みなさんも、神に、自分の気持ちを伝えようとするでしょう」と私。
「でも、神はもうそれを知っているのです」
なによりも大切なのは、聞かれていると悟ったことだ。私たちは、全員、聞かれている。
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■
(心理学者ユングのお墓に刻まれた文字)
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『Vocatus atque non vocatus deus aderit
(呼ばれても、呼ばれなくても、、神はそこにいる)』
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(村上春樹さんの「1Q84 book3」では、『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』という表現になっていた。)
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村上春樹「1Q84 book3」
「その家はまだ今でもチューリッヒ湖畔に建っている。ユングの子孫によって管理されているが、残念ながら一般には公開されていないから、内部を目にすることはできない。話によればそのオリジナルの『塔』の入り口には、ユング自身の手によって文字を刻まれた石が、今でもはめ込まれているということだ。『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』、それがその石にユングが自ら刻んだ言葉だ」
タマルはもう一度間をおいた。
「『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』」と彼はもう一度静かな声で繰り返した。
「意味はわかるか?」
牛河は首を振った。「いや、わからない」
「そうだよな。どういう意味だか俺にもよくわからん。あまりにも深い暗示がそこにはある。解釈がむずかしすぎる。
でもカール・ユングは自分がデザインして、自分の手で石をひとつひとつ積んで建てた家の入り口に、何はともあれその文句を、自分の手で鑿を振るって刻まないではいられなかったんだ。
そして俺はなぜかしら昔から、その言葉に強く惹かれるんだ。」
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■
エベン・アレグザンダー「プルーフ・オブ・ヘヴン--脳神経外科医が見た死後の世界」早川書房 (2013/11/29)より
(脳外科医のアレグザンダー医師が臨死体験をして、こちらに戻ってきた時に覚えていたメッセージ)
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・あなたは永遠に深く愛されています
・この世に怖れることなど何もありません
・あなたのすることにただ一つの間違いもありません
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ぼくらは生の中を生きていて死を考えるから、視点が偏りがちになる。
時には死の中を生きて、そこから生を見る練習をするといい。
自分が死んだとしてこの世界を観察してみる。
そうなると、生の本質がおのずから分かる。
何のために自分が生を受けたのか、なぜこうして生まれてきたのか、という哲学的な命題も、両方の観点から考えないと分からないようになっている。
それは、プラトンが『パイドン』の中で言っていることにも通じる。
○プラトン「パイドン -魂の不死について」(2011-08-03)
「哲学者は死を恐れない。
死とは魂と肉体との分離であり、哲学者は魂そのものになること、
すなわち、死ぬことの練習をしている者であるのだから。」
多層構造世界を尊重して生きていく・・・考えさせられました。これからブログ楽しみにしています ^^
『稲葉医師は、アレグザンダー医師が「あの世」から持ち帰った三つのメッセージを引用し、非常に重要なメッセージであると述べた。
あなたは永遠に深く愛されています
この世に怖れることなど何もありません
あなたのすることにただ一つの間違いもありません』
私ごとで恐縮ですが、この2年弱で、1万人以上の勤労者の方と面談させていただきました。なかには、浮かない顔をしていたり、何かに追い詰められているかのような思い込みがあったり、根拠のない自責の念を持っている方もいらっしゃいました。
先生がおっしゃるようなことを私自身も伝えていける伝道師の一人でありたいと思っています。
素晴らしい記事を有難うございます。
いつかお会いできるのを楽しみにしています。(^^
>安藤さん
そうですね。こちらが精いっぱい、心の底から話す事が大事ですよね。そのためには、まず自分自身が常に自分と対話しないといけないな、と日々感じております。(^^
以前コメントささていただいた、たまみと申します。
私は「死」が怖いです。
ものすごいリアリティをもって自分の死んだの後の永遠の無が迫ってくる瞬間がしょっちゅうあります。
それは四、五歳の頃から始まり、今でも続いていて、幼い頃は恐怖のあまり絶叫してしまうこともあり、親から心配されたこともありました。
稲葉さんは本当に「死」が怖くないですか?
永遠に続く無が怖くないですか?
多忙につき吾がブログのチェック遅れました。失礼しました。
「死」というのは、概念の「死」だと思います。それはある種の「自我の死」だと思いますよ。自分の意識の中にある何個かの自我が死ぬとき、何かしらの恐怖を伴うようです。
眠る瞬間と同じで、わたしたちは主観的には「死」を感知することができないので、そこが死の大いなる不思議の一つです。そのことが、人間は肉体としては死ぬけれど、魂(意識)としては死なない、ということの意味だと思います。主観的な死を経験することはできないのです。あ、いま死んだ、というのは、永遠に分からない構造になっているのです。だから、自分は、恐れる必要はないと思うのです。
自分の中で、肉体死ということに対する葛藤がないので、生きているのも死んでいるのもほとんど変わらないと言うか、同じと言うか、もし今死んでいても絶対に分からない、と思っているので、そういう意味での心理的葛藤がなくなりました。
死というのは、生を考えるのにとてもいい素材だと思います。プラトンも、哲学とは死ぬ練習の事だ、と言っています。
いろいろな哲学者や文学者が死をかたるのは、やはりそれは生と表裏一体であり、死と生は同じものの違う側面だ、ということを学習するプロセスなのかな、と思うのです。
村上春樹『ノルウェイの森』
「生は死の対極として存在しているのではなく、その一部として存在している」
レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)『手記』
「充実した一日が幸せな眠りをもたらすように、充実した一生は幸福な死をもたらす。」
「このところずっと、私は生き方を学んでいるつもりだったが、最初からずっと、死に方を学んでいたのだ。」
ミヒャエル・エンデ(Michael Ende)『モモ』
「もし人間が死とは何かを知っていたら、こわいとは思わなくなるだろうにね。
そして死を恐れないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにも出来なくなるはずだ。」
キューブラー・ロス(Elisabeth Kübler-Ross)『ライフレッスン』
「死にゆく人は自分が失うものとその価値を知っている。みずからを欺いているのは生きている人の方なのだ。」
マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger)『存在と時間』
「われわれは本来的な意味で他者の死を体験しはしない。いつもせいぜいのところ「立ち会って」いるだけである」
プラトン(Plato)『パイドン -魂の不死について』
「魂が自分自身だけで考察するときには、魂はかなたの世界へと、すなわち、純粋で、永遠で、不死で、同じように有るものの方へと、赴くのである。」
アンディ・ウォーホール(Andy Warhol)『ぼくの哲学』
「ぼくは死ぬということを信じていない。起こった時にはいないからわからないからだ。 死ぬ準備なんかしてないから何も言えない。」
私もできるなら、稲葉さんのように考えたいのですが、どうしても今の私の、死、の先になにかあるとは思えないのです。
主観的な死は体験できない、とおっしゃいますが、ふとした瞬間に、自分が死んだ後の世界(というのか状態というのか)を感じることがあります。
闇、とかそんな言葉では表現できないほどのなにもなさと永遠が広がり(というかただそこにあり)、絶望感に押しつぶされそうになります。
自分の死んでいる状態は自分ではわからない、から怖くない、というのは納得できません。
死んでいる自分は怖いとか感じないだろうけど、今生きている私はそのことが怖い、というか絶対に嫌なんです。
今みたいに何かを考えられなくなるのが本当に怖いんです。
なんだか。駄々をこねる子供みたいになってしまってすみません(´・_・`)
稲葉さんは、死んだ後も、今みたいに何かを考えたり感じたりできると思いますか?
お仕事忙しいと思いますので、お返事は本当にいつでもいいです。
変なコメントでごめんなさい。
失礼いたしました。
仕事が忙しくお返事遅れました。すみません。
おっしゃることはよく分かりますよ。
一条真也さまが、「死は最大の平等である」とよくおっしゃれます。
つまり、生や死はどんな人でも考えざるを得ない究極のテーマなのだと思いますね。
胎内記憶持つ子供たち
https://www.youtube.com/watch?v=64cKKkbgfzU&list=PL678702048D154851
「9歳、宇宙のしくみを語る」
https://www.youtube.com/watch?v=0elS0Y5x_vU
こういう子どもの声を聞くと、むしろ僕らは難しく考え過ぎで、もともと知ったんじゃないかな、と思うのです。思い出す事が大事で。。。
この9歳の子は、「この世界の意味は、結局は自分自身でどういう生きたいか、他人には決められないんだ、・・・」というような発言があり、まさにそうだなぁ、と。
死生観もすべて、無限の選択肢の中から、自分が選んで自分が決めていく問題なのかな、と思うわけです。
そういう意味で、自分は日々の臨床現場で数多くの方があの世へ旅立たれるお看取りの経験から、今はそのように考えることを選択している、ということですね。
そういう考えに至るまで、色々な経験を通して感じるようになりました。一人の頭だけで考えていると、やはり無理がありますし、何かの体験に勝る学びはありませんので。。。
そういう意味で、たまみさんは大変に重要なことを考えておられるし、それは普通の人よりも早い段階で問い直している、ということなのだと思います。
そこで考えたり感じた色々な経験は、きっと将来の種となり、土壌となり、肥やしとなり、大輪の花を咲かせる重要な要素になることと思いますよ。(^^
いろいろな経験を通して…っていうのは今までの私にはなかったような気がします。
一人の頭でずっと考えて、考えていることは幼い頃の自分と全く変わらぬまま…という気がします。
今の自分の死に対する考えを変えようとすることは、死から逃げてしまうことのように思い、自ら壁を作っていたように思います。
きっといなばさんも色々なことを考え悩み今に至っているんですもんね。
私も自分が納得する死のストーリを作る努力をしてみます。
完成するかどうかはわかりませんが…(´・_・`)
しつこいようですがお忙しい中、こんな質問にきちんと付き合ってくださってありがとうございます。
お仕事大変そうなのでお身体に気をつけてくださいね。
たまみ
ですので、体験することを恐れないでチャレンジしてみてください。そうして自分の価値観や考え(偏見や先入観の温床になります)が壊され、自分が更新されていく、ということが大事なことかな、と思いますね。(^^