ひとを観察していて思う。
<おそれ>を誘発して、人を動かす言葉や商売が増えている。
からだには構造があり、こころにも構造がある。構造には歴史がある。
こころの構造にも歴史がある。
■
<おそれ>という感情は、ひとの成長の中できわめて初期の段階で学習される。生後6ヵ月以内のあっという間の出来事。
こころは、先住民の小人たちにより急ピッチで作られるのだ。それは違法建築、手抜き建築と揶揄されようと、施工主から急いで作ることを迫られるためしょうがないことだ。なぜなら、それはただの骨組の仮設工事であり、常に手入れを必要とするものとして作られたはずなのだから。
<こころの構造>の中で、初期の支柱として<おそれ>を学ぶ必要があるのは、生命保持のため、歴史的に要請されたものだった。過去、原始の自然状態の中で人類は生活していたのだから。
<こころの仮設工事>は仮のものだったが、プロセスであり仮であったことを忘れてしまう。それは病の遠因にもなる。人は歴史を忘れることはできても、そこから離れることは出来ない。
わたしたちは、時という家の中に、時という空間の中にも住んでいる。
(Bridges, K.M.B.1932)
■
ひとを表面的に動かす安易な手段は、<おそれ>を誘発させること。
そこは、ひとを根本で支えている支柱だから。
根っこが少し揺れると、全体は大きく揺れる。
医療系の本でもテレビでもそういうものが溢れている。
こうしないと危険だ・危ないとか、こうではないとダメだとか、絶対にこうだとか。
<おそれ>を刺激し、そこで動く感情の動きを消費行動と結びつける。
おそらく、そこに関与している人たちもほぼ無意識でしている。そして、クローズドサークルが作られている。
人間は、共鳴する存在なのだ。
ただ、自分は、そういう活動には一切参加しない。
まったく違う原理で動いている人たちと連動して動いていく。
それは多様性や愛や調和と言われるような、いのちの原理のことを指す。
■
<おそれ>を誘発して人を操作したい人は、たいてい、別の人の行動も<おそれ>の観点から解釈することになる。
その家や空間から出ることができなくなっているから仕方がない。枠そのものを眺めることは難しい。
色眼鏡のフィルターがかかった窓から、この世界の風景を眺めて満足することになる。
<おそれ>は戦いや暴力と結びつきやすい。
規模が大きくなると、戦いや戦争などへ、雪だるま式に発展していく。
■
自分の中を深くよく見てみる。
<おそれ>というのは独立した事象であって、自分がそこと何をLinkさせ接続させているのか、という極めて個人的な歴史の反映なのだと、気づくことができる。
<おそれ>は、その人の<こころの構造>という建築物の中で、支柱を構成していることがあり、そこを外されることは、意識が崩れるような<おそれ>を伴うのだろう。
だから、なかなか変化せず、時が経ち、季節は巡る。
春は夏に、夏は秋に、秋は冬に、そして冬はまた春になる。
ただ、時に人には暴風雨や台風が訪れ、構造は部分的に崩れる。
もちろん、また作りなおせばいい。何も心配はいらない。ひとりでできないときは、協力してもらえばいい。そのために、この地球には多くの人が存在しているのだから。
■
肩こりをほぐすように、<おそれ>がその人の心や体からほぐれていけるといい。硬直や緊張や闘争ではなく。
開かれるドアは藝術や美の力によることが多い。
そういう意味で、藝術は極めて医療的でもある。その人の支柱となる深い場所への作用をもたらすから。
それは大抵、不合理で不条理であり、合理化することはできない。
<おそれ>がこころの構造の支柱として構築されるのではなく(支柱を入れ替えるのは、こころの変容における大仕事を意味している。だから人は切羽詰まらないと、なかなか取り組もうとしない)、部屋を彩るインテリア程度であれば、それはむしろ楽しみの対象となるのだから。
■
からだやこころには構造があり、歴史がある。
ひとのからだに触れ、こころに触れていると、そんな<時>の手触りをザラリと、フワリと、サラサラと、感じることがある。
それは、その個人の言葉や行動となり、この世界に一瞬一瞬表現され続け、宇宙の歴史にも刻々と刻まれ続けている。
ひとが宇宙を構成する要素として、あくまでも宇宙自体の学習材料として。
<おそれ>を誘発して、人を動かす言葉や商売が増えている。
からだには構造があり、こころにも構造がある。構造には歴史がある。
こころの構造にも歴史がある。
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<おそれ>という感情は、ひとの成長の中できわめて初期の段階で学習される。生後6ヵ月以内のあっという間の出来事。
こころは、先住民の小人たちにより急ピッチで作られるのだ。それは違法建築、手抜き建築と揶揄されようと、施工主から急いで作ることを迫られるためしょうがないことだ。なぜなら、それはただの骨組の仮設工事であり、常に手入れを必要とするものとして作られたはずなのだから。
<こころの構造>の中で、初期の支柱として<おそれ>を学ぶ必要があるのは、生命保持のため、歴史的に要請されたものだった。過去、原始の自然状態の中で人類は生活していたのだから。
<こころの仮設工事>は仮のものだったが、プロセスであり仮であったことを忘れてしまう。それは病の遠因にもなる。人は歴史を忘れることはできても、そこから離れることは出来ない。
わたしたちは、時という家の中に、時という空間の中にも住んでいる。
(Bridges, K.M.B.1932)
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ひとを表面的に動かす安易な手段は、<おそれ>を誘発させること。
そこは、ひとを根本で支えている支柱だから。
根っこが少し揺れると、全体は大きく揺れる。
医療系の本でもテレビでもそういうものが溢れている。
こうしないと危険だ・危ないとか、こうではないとダメだとか、絶対にこうだとか。
<おそれ>を刺激し、そこで動く感情の動きを消費行動と結びつける。
おそらく、そこに関与している人たちもほぼ無意識でしている。そして、クローズドサークルが作られている。
人間は、共鳴する存在なのだ。
ただ、自分は、そういう活動には一切参加しない。
まったく違う原理で動いている人たちと連動して動いていく。
それは多様性や愛や調和と言われるような、いのちの原理のことを指す。
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<おそれ>を誘発して人を操作したい人は、たいてい、別の人の行動も<おそれ>の観点から解釈することになる。
その家や空間から出ることができなくなっているから仕方がない。枠そのものを眺めることは難しい。
色眼鏡のフィルターがかかった窓から、この世界の風景を眺めて満足することになる。
<おそれ>は戦いや暴力と結びつきやすい。
規模が大きくなると、戦いや戦争などへ、雪だるま式に発展していく。
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自分の中を深くよく見てみる。
<おそれ>というのは独立した事象であって、自分がそこと何をLinkさせ接続させているのか、という極めて個人的な歴史の反映なのだと、気づくことができる。
<おそれ>は、その人の<こころの構造>という建築物の中で、支柱を構成していることがあり、そこを外されることは、意識が崩れるような<おそれ>を伴うのだろう。
だから、なかなか変化せず、時が経ち、季節は巡る。
春は夏に、夏は秋に、秋は冬に、そして冬はまた春になる。
ただ、時に人には暴風雨や台風が訪れ、構造は部分的に崩れる。
もちろん、また作りなおせばいい。何も心配はいらない。ひとりでできないときは、協力してもらえばいい。そのために、この地球には多くの人が存在しているのだから。
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肩こりをほぐすように、<おそれ>がその人の心や体からほぐれていけるといい。硬直や緊張や闘争ではなく。
開かれるドアは藝術や美の力によることが多い。
そういう意味で、藝術は極めて医療的でもある。その人の支柱となる深い場所への作用をもたらすから。
それは大抵、不合理で不条理であり、合理化することはできない。
<おそれ>がこころの構造の支柱として構築されるのではなく(支柱を入れ替えるのは、こころの変容における大仕事を意味している。だから人は切羽詰まらないと、なかなか取り組もうとしない)、部屋を彩るインテリア程度であれば、それはむしろ楽しみの対象となるのだから。
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からだやこころには構造があり、歴史がある。
ひとのからだに触れ、こころに触れていると、そんな<時>の手触りをザラリと、フワリと、サラサラと、感じることがある。
それは、その個人の言葉や行動となり、この世界に一瞬一瞬表現され続け、宇宙の歴史にも刻々と刻まれ続けている。
ひとが宇宙を構成する要素として、あくまでも宇宙自体の学習材料として。