意識には色んな層がある。
浅い層や深い層。
それはどっちがいいとかではなくて、単にあると言うこと
それに自覚的であるかということだけだ。
浅い層は日常生活と関連している。
この層は、他者に同意されて承認されることが多い。
《あれは木だよね。そうだよ、木だよ。》
この層は一番大事な場所。
この日常生活の表面にある意識の層が壊れると、「話が通じない」人になる。「あちらに行っちゃった」人になる。
ただ、人との摩擦で、一番壊れやすい場所でもある。
そういう浅い層から、何かの感情がそっと手をひくと、少し深い層に入る。
たとえば、恐怖の感情で引き込まれた少し深い層では、木が幽霊に見えてくる人もいるだろう。
《あれは幽霊だよね。いや、ただの木だよ。》
この辺りから個人的な意識の層にはいっていくので、そう見える人にはそう見えるし、そう見えない人には見えない。
そして、集団で何かを共有すると、同時に深い層に引き込まれるので、集団的な意識変容状態になることもある。だから、集団で木が幽霊に見えてもおかしくない。
個人的に、意識の深いところに沈んでいく体験のひとつは、「夢」だ。
夢の中では空を飛び、時間や空間の境界は虚ろになり錯綜する。
自分や他者、自分や世界、いろんなものとの境界が曖昧になる。
そして、そのこと自体が、どうでもよくなる。
時間の前とか後ろとか、空間の近さとか遠さとか、そういうのはあまり勘定に入らなくなる。
きっと、(したことないけど)暝想や座禅や祈りっていうのは、意識の深い場所に行く洗練された手段なのだろう。
ただ、スポーツでも、学問でも、恋愛でも、ある何かに強く深く引っ張られていくと、きっと同じような意識の深い場所に連れて行かれる。
だから、その手段には優劣なんてものはない。
突き放せば、それは趣味や好みの問題だ。
そして、すぐれた芸術や文学や音楽には、そんな深い場所へ引き込む力がある。
・・・・・・・・・・・・
僕らは、目の前で暴力を受けている人を見ると、きっと「痛み」を感じるだろう。
それは、他人と自分が、何かしらでつながっているということの自分への「あかし」のようなものだ。
だから、どんどん深い場所にもぐると、深い井戸の底でまどろんでいると、全ての境界はあいまいで、淡く、全てがつながってくる。
そこは、「存在」と表現される場所かもしれない。
これはハイデガーとか、仏教とか、哲学とか宗教も言っていると思う。
その場所に名前をつけることはむずかしく、「それ」でも「あれ」でもいい。
そういう場所へは、いろんな挫折、強い離別、死の体感、激しい恐怖・・・人間に生まれる強い感情がいざなう、人の意識にある深い井戸の底だ。底なしの底。
深い深い場所。
深い深い森。
スポーツでも学問でも芸術でも、手段はなんでもいいけれど、その場所の存在を知っている人は、本気で何かと逃げずに向き合い、自分がめくり返るほどの、自分がおびやかされるほどの意識状態を経た「あかし」だ。
それはいいとかわるいではない。そういうものだ。
深い場所に行くと、境界はあいまいで、つながっている。
それは「存在」のようなもの。
そこから日常の浅い層に浮上してくると、「私が存在している」「木が存在している」と逆向きで、「存在が私している」「存在が木している」というように見えてくる。
そして、そういう意識状態を経た人は、きっと人に対して優しいはずだ。
意識には色んな層がある。
浅い層や深い層。
それはどっちがいいとかではない。
ただ、どちらも守るべき大切な場所だ。
浅い層や深い層。
それはどっちがいいとかではなくて、単にあると言うこと
それに自覚的であるかということだけだ。
浅い層は日常生活と関連している。
この層は、他者に同意されて承認されることが多い。
《あれは木だよね。そうだよ、木だよ。》
この層は一番大事な場所。
この日常生活の表面にある意識の層が壊れると、「話が通じない」人になる。「あちらに行っちゃった」人になる。
ただ、人との摩擦で、一番壊れやすい場所でもある。
そういう浅い層から、何かの感情がそっと手をひくと、少し深い層に入る。
たとえば、恐怖の感情で引き込まれた少し深い層では、木が幽霊に見えてくる人もいるだろう。
《あれは幽霊だよね。いや、ただの木だよ。》
この辺りから個人的な意識の層にはいっていくので、そう見える人にはそう見えるし、そう見えない人には見えない。
そして、集団で何かを共有すると、同時に深い層に引き込まれるので、集団的な意識変容状態になることもある。だから、集団で木が幽霊に見えてもおかしくない。
個人的に、意識の深いところに沈んでいく体験のひとつは、「夢」だ。
夢の中では空を飛び、時間や空間の境界は虚ろになり錯綜する。
自分や他者、自分や世界、いろんなものとの境界が曖昧になる。
そして、そのこと自体が、どうでもよくなる。
時間の前とか後ろとか、空間の近さとか遠さとか、そういうのはあまり勘定に入らなくなる。
きっと、(したことないけど)暝想や座禅や祈りっていうのは、意識の深い場所に行く洗練された手段なのだろう。
ただ、スポーツでも、学問でも、恋愛でも、ある何かに強く深く引っ張られていくと、きっと同じような意識の深い場所に連れて行かれる。
だから、その手段には優劣なんてものはない。
突き放せば、それは趣味や好みの問題だ。
そして、すぐれた芸術や文学や音楽には、そんな深い場所へ引き込む力がある。
・・・・・・・・・・・・
僕らは、目の前で暴力を受けている人を見ると、きっと「痛み」を感じるだろう。
それは、他人と自分が、何かしらでつながっているということの自分への「あかし」のようなものだ。
だから、どんどん深い場所にもぐると、深い井戸の底でまどろんでいると、全ての境界はあいまいで、淡く、全てがつながってくる。
そこは、「存在」と表現される場所かもしれない。
これはハイデガーとか、仏教とか、哲学とか宗教も言っていると思う。
その場所に名前をつけることはむずかしく、「それ」でも「あれ」でもいい。
そういう場所へは、いろんな挫折、強い離別、死の体感、激しい恐怖・・・人間に生まれる強い感情がいざなう、人の意識にある深い井戸の底だ。底なしの底。
深い深い場所。
深い深い森。
スポーツでも学問でも芸術でも、手段はなんでもいいけれど、その場所の存在を知っている人は、本気で何かと逃げずに向き合い、自分がめくり返るほどの、自分がおびやかされるほどの意識状態を経た「あかし」だ。
それはいいとかわるいではない。そういうものだ。
深い場所に行くと、境界はあいまいで、つながっている。
それは「存在」のようなもの。
そこから日常の浅い層に浮上してくると、「私が存在している」「木が存在している」と逆向きで、「存在が私している」「存在が木している」というように見えてくる。
そして、そういう意識状態を経た人は、きっと人に対して優しいはずだ。
意識には色んな層がある。
浅い層や深い層。
それはどっちがいいとかではない。
ただ、どちらも守るべき大切な場所だ。
それでも、「深い層」について語っている人を見ると偉そうだし、《すぐれた芸術や文学や音楽》で一瞬でもそれを感じたら、やはり「深い層」はきっと素晴らしい所なのだと信じたくなる。しかし、「深い層」で得たものをどうやって「浅い層」で活かすのかは非常に難しいと思います。特に、「浅い層」の大部分を覆っている政治的な問題に関しては。賢い人々でも、政治が関わると愚かになるのには驚かされます。ハイデガーもナチスに賛成したほどですし。
そうですね。
「浅い層」は日常生活で、そこで意志疎通をするし、ここが基礎になっているのは間違いないんですよね。
でも、ここでディスコミュニケーション、いわゆる「話が通じない」状態になったとき、どうするかというところが僕の中にあって、「深い層」は一つの突破口になりうるのではないかと。
「浅い層」と「深い層」を行ったり来たりできるか、それが大事だと思います。
そして、どちらにも優劣をつけないことも大事。
優劣や善悪をつけた時点で、物事は歪みはじめ、ねじれはじめるもので。
つなげかた次第で科学にもオカルトにもインチキにも、なんにでもなりますよね。
この辺は、僕も考察中です。
でも、特定の宗教はないけれど宗教的な考えは大好きな日本にとって、日本の昨今のスピリチュアルブームとか、占いや血液型好きとかは、そういう心理学的な事柄もあるのかなぁなんて思ったりもします。
評価者。自分がどのように評価されているのかわかるし、他者もなにかしら評すればよいのだから、ある意味わかりやすい関係性にある。批評するということは、社会に参加する、もっとも簡単な方法と思う。
深い層にいるときには、他者は自分と不可分になる。お互いを含むあらゆる事象・現象を、真実として共有すべく努める。これもまた真なり、と言う難しさ。深い層にばかりいて、この難しさをひとりで負いきれなくなったとき、似た者同士の集団に、安楽を求める場合がある。集団はその中で互いにうなづきあい、ときに集団の外に対して評価者になってしまう。そして、いつの間にか浅い層の住人に戻ってくる。社会から遠いようで、実は楽に関わりを持つことができている。
結局、どんな過程であれ、浅い層と深い層を行ったり来たりするようになっていると思う。どの層に現在いるのか、意識できると自分の調和をとりやすいと思う。
深い層では、基本的にはどんどん統合されていくと思うんですよね。
境界のようなものが、いかに人為的なものかということを思い知りつつ。
まあ、自分にとって近いものから融合していくって言うのが自然な気がします。
どんな人でも、意識の浅い層と深い層を行ったり来たりしてるんですよね。
それは、起きて、寝る。っていうサイクルを、人間である以上、そのメカニズムに組み込まれていることが、それを象徴的に表しているような気がしますよ。
起きているのは脳が中心で、寝ているのは身体が中心。
脳だけの感動ってやっぱり浅い感じがするのです。というのも、それは錯覚であったり、洗脳であったり、思い違いであったり、まあ麻薬とかお酒もそうかもしれませんが、いくらでも脳っていじれる気がするんですよね。
でも、鳥肌が立つとか、足が震えて立てないとか、そういうのって、深いと思うんです。
そして、僕は浅いのがダメだとか深いのがイイとかではないっていうのが一番大事で、僕らはすぐそこに善悪の価値判断をまぜこぜしちゃうんですよね。それは違うと思うのです。
「意識の浅い層、深い層があるよね。行ったり来たりしないと危ないよね。」「そうだよね。」
っていう程度の事なんです。それ以上でも、それ以下でもないんですよねぇ。
自己の探求とは、地上へ積み重ねることではなく、地下へ掘り進むことである、自己とはその掘られた穴のことだ…として、「掘り進んだ先には、何が待っているのか?」と夜が明けるまでずっと考えてしまった。
深い深い場所。
そこは、きっと広くて揺らいでいて、固体ではなく、液体のような。海の底ような。もしくは、風の谷のナウシカの腐海のような場所。あの海を誰しも持っているのだと思う。どれくらい掘るか掘らないかはその人の自由。
誰しもが持っているというよりは、海はきっとやはり地下でつながっているんだろうね。まだ深く掘り進んでいない人も地上に出て深い穴からその場所へ降りることができる。それは、本を読むことでも、映画を見ることでも、演奏を聴くことでもそうだけど。昔は感動しなかったけど、今読んでみるとやたらと感動してしまうことって、誰でも体験したことがある思うけど、それはそれだけ自分の坑道が深くなった/地下から直接その穴(作品)に通じたということだろうな。道は二つあって。
長い時を経て残っている作品たちは深い穴で、媒体である弾き手は自分自身の坑道を掘り進めて海の底からその穴に入り地上へ伝える必要がある。
残らなかった穴(弾かれなくなった作品)は、通る人(弾く人、聴く人)が少なくなってしまった、ということ。残された楽譜も弾かれなくなってしまったらただの紙切れにすぎない。何の世界でも、名作というのは、こわさがある。それは、地上から井戸の底を覗くようなこわさ。つまりそれは深さ。
まだ自分の中で整理できていないのは、人は誰でも一日に一度、意識を失い、眠り、その深い海に沈んでいるということの意味。起きている間は掘り進み、眠りにつくと、土の中を通り抜けてその海に辿りついているのだろうか。1日1度訪れる海の底で共有している「何か」。自他の境界線のなくなった場所…。
大地がつながっていて、地面を共有しているのと同じように、私には、どうしてもその深い場所を、みなで共有/共存しているように、その海の底に眠っている人たちが浮いているように、思えてならないなぁ。(こわっ)。完全なる妄想ですが。。
まだよく分からないけれど、そこを無意識のうちに共有しているから、藝術がうまれるようにも思える。それは、井戸を覗いたら、ぞくっとする、理由もない「怖さ」を共有しているのと似ていて。
掘り進むことはこれほどまでに、自分にまかされていて、それと同時に、行く手にある海の底はこれほどまでに、自分にまかされていない、ということが、面白い。正に、「みずからと、おのずから」デスネ。自分でどうにかできることと、自分ではどうにもできないこと、が並列し、同時進行している。それを味わいたいなぁと思う今日この頃です。
お互いTwitterでもマメにつぶやいているような内容ですね。
あそこでは、なるべく閉じるようにしているので(双方コミュニケーション自体がとりにくい場だと思っていて)、やはりブログの方が、こうして深めて書けるし、コメントもしやすいです。
Twitterで@で話しかけてくる人も、知らない人ばかりなので、いまいちどういう意図なのか分りかねることもあったりして・・・。
ところで、最近は村上春樹作品を読みまくっていますけど、春樹さんの作品は、こういう地下とか森とか、下に深く掘っていく概念が頻出してくることに、正直驚きました。
河合隼雄さんの心理学もそうですけど、人の心を掘り下げて、無意識にいって、そこで夢とか神話とかとつながって、そこで文化とか国境とか言語を超えて・・・という風に進んでいくのは、有る意味ではすごく普遍的な行為のような気がしてます。
だから、自意識を固めるっていうのは、やっぱり積み上げてプラスしていく発想で、上から見下ろす構造となり、それは<支配と被支配>の構造を必然的に生むのではないかと思ったりもします。
それの究極が植民地主義や奴隷制のような、人類が持つ影の歴史のようなもので。
地下は、きっとつながっていると思いますよ。
それは、ユングが「集合的無意識」と表現した場所だと思います。
人は、基本的に同じシステムを使っているわけで、脳、心臓、腎臓・・・。
僕だけポポポっていう臓器があるとか、そういうわけではなくて。(笑)
そういう意味でも、原理原則は同じはずだし。
そんな人間が作り出す夢っていうのもまさしくそうで。。。
ある程度は人としての成長のプロセスもその辺には関係しているのだと思う。
でも、何か、自分の感情や感覚を揺さぶるもの、それは怪でも不快でも、どちらでもよくて、何か自分を揺り動かすものは、「存在」とか「実存」とか言われる、根本的なとこにソッと触れているんだと思うのですよね。
それは、人が守っている大切な場所で、それこそ魂とか、古来から表現される場所かもしれない。
春樹さんが書いているのは、そういう「たましい魂」のような深い場所での交流の物語や、たましいを支配しようとするおぞましいものとの物語であったり。
そういう気がしてます。そして、それこそが世界文学になっているって言うことで。
>>>残らなかった穴(弾かれなくなった作品)
これは、痛々しいけど、そうだと思うね。
この世には星の数ほど本や音楽や、いろんなものが産み落とされているわけだけど、それが時間の重みにも耐えて、偶然にも残っていくものはほんのわずかしかなくて。
浅いものは、すぐに誰かに埋め立てられる。掘り起こそうとしても、もう原型がわからない。
でも、深いものは、表面は埋め立てられて見えなくなっても、掘り返そうとおもえば、あまりに深い穴で深い洞窟だから、かならずや形が残る。
でも、それが崩壊しないように、ある程度は現代風に手入れをしたり、空気で換気をしたりするのも大事なわけで。
地球自体が、そういう風に地層が重なって、中心にマグマのような巨大なエネルギーがうごめいて、それは時に地震となり人を大量に無目的に死においやりながら、それは破壊であり創造を産む地球の営みにもなっていて。
話しが勝手に広がっていくけど。笑
でも、アフリカの人々は、本当に夢を共有していて、夢で予言をもらって、それを指針にしていたわけで。死後の世界と夢の世界は、ほとんど同じものかもしれないし。
そうなると、時間って言うのも不可思議なもので。
過去とか未来とか、全ては夢にあるんじゃないかっていう妄想も膨らんでみたり。
「みずからと、おのずから」のあわい。
みずからは、全ては自由で、自分に任されているってこと。それは意識の世界。
おのずからは、全ては運命のように決まっていて、それは夢の中にシンボリックなものとして表現されているのかもしれない。単に常人には読み解けないだけで。それは無意識が支配する世界。
いやはや、意識と無意識って補助線をひくだけで、どんどん思考を深めることができて、面白いもんです。この辺は、もっと深めたいなぁー。
P.S.
とにかく、今は河合隼雄さんにはまってます。
「ユング心理学と仏教」(岩波現代文庫)
「昔話の深層 ユング心理学とグリム童話(講談社プラスアルファ文庫)
「ユング心理学入門」(培風館)
「昔話と日本人の心」(岩波現代文庫)
ほんと、昔話とかグリム童話って、すごいわー。
浅い層だと、それはそうだね、で、終わり。
深い層だと、何かしらの存在があり、それをどう思うかは、その人次第って感じだから似てるかなぁと思いました。
その人次第ってのが本当なのに、自分ではない誰かにその自分の深い層を定義付けしてもらって、保証してもらうってのが宗教の一面なのでしょうかね。
もちろん、それもそうだと思うよ。
あらゆるジャンルに、そういう浅いとか深いってあると思う。別に浅いから悪いとか、そういう善悪の問題じゃなくてね。
いろんなアナロジーがあって、すごく普遍性のあるテーマだと思うんだよね。
宗教は、確かに深い層を決めてくれる安心感はあるよね。
でも、ほんとはそれぞれがそれぞれの人生をかけて、自分で掘り出していかないといけない大事な場所なんだろうとも思うんですよね。
受験国語も、読書も、自分で掘り続ける勇気というかね。それには、最低一人以上のともだちとか含めて、伴侶が必要だよね。