村上春樹さんの「神の子どもたちはみな踊る」を読んだ。
すごくよかった。
春樹さんの文章は、森の中から聞こえてくる音のようで、どこが音源かはわからなくて、探して歩いても、近づけば遠く聞こえ、遠ざかると近くに聞こえてくる。
でも、深い森のどこかから確実に聞こえてくる。そんな音楽。
そういえば、「遠い太鼓」って本もありますよね。
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「UFOが釧路に降りる」
『小村さんはそのことを知らずに、ここまで運んできて、自分の手で佐々木さんに渡しちゃったのよ。だからもう小村さんの中身は戻ってこない』
『深い沈黙の中で、心臓が大きな乾いた音を立てていた。体を曲げると、骨がきしんだ。一瞬のことだけれど、小村は自分が圧倒的な暴力の瀬戸際に立っていることに思い当った。』
==============================
これは新興宗教のような、信仰の危うさを言っていると思う。
完全に何かをゆだねるとき、相手が「支配しよう」という強大な自意識を隠し持っていると、それはかなり危ない。
何かを委ねることは、時には必要だ。
ただ、それが人間であるとき、支配する・支配されるの構造に入ってしまうと、それはマインドコントロールになる。支配される。
自分と言う巨大な器から抜けだそうとした人たち。
精神の自由を獲得しようと「修行」に励んだ人たちが行った先は、誰かの巨大な自意識の中だった。ということだ。
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村上春樹「タイランド」
『これから先、生きることだけに多くの力を割いてしまうと、うまく死ぬることができなきなります。少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬるここととは、ある意味では等価なのです、ドクター』
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生きることに精いっぱいであることは否定しない。
でも、同時に死に行く人や死んでいった人もいる。
そんな死を受け止める。
死は敗北でも負けでもなくて。生は勝利でも勝ちでもなくて。
生きている人にはきっと何かの役割を背負わされている。
生者は死者たちの思いを運ぶ船だ。
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村上春樹「かえるくん、東京を救う」
『脳味噌は眠りの中でねとねとに溶けて、なにかべつのものになってしまっています。実際の話、彼は何も考えてないのだと僕は推測します。彼はただ、遠くからやってくる響きやふるえを身体に感じとり、ひとつひとつ吸収し、蓄積しているだけなのだと思います。そしてそれらの多くは何かしらの化学作用によって、憎しみというかたちに置き換えられます。』
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村上春樹「かえるくん、東京を救う」
『世界とは大きな外套のようなものであり、そこには様々なかたちのポケットが必要とされているからです。』
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村上春樹「かえるくん、東京を救う」
『正直に申し上げますが、ぼくだって暗闇の中でみみずくんと闘うのは怖いのです。長いあいだぼくは芸術を愛し、自然とともに生きる平和主義者として生きてきました。闘うのはぜんぜん好きじゃありません。でもやらなくてはいけないことだからやるんです。』
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村上春樹「かえるくん、東京を救う」
『もちろんぼくらは誰もが限りのある存在ですし、結局は破れ去ります。でもアーミネスト・ヘミングウェイが看破したように、ぼくらの人生は勝ち方によってではなく、その破れ去り方によって最終的な価値を定められるのです。』
==============================
人は、影や暗闇と向き合わないといけないことがある。
それは、絶望とか衝撃的な何かの感情が、そんな深い場所まで人を引き落とす。
「神の子どもたちはみな踊る」の、最後にある「蜂蜜パイ」の終わり方が好きだった。
ネタばれになるといけないので、これは引用しませんけど。
この最終章までは、ひとのこころの深い場所に降りて、ひとの暗闇を除く感じなので、共鳴すると辛い感情に支配されるけど、最後の話は救いがある。
あれは、作者本人の救いへの祈りのよう。
この本の最終章まで至るプロセスは、禅画の「十牛図」のようなものを感じた。
人は、開かれるために、閉じる時期があるのだと。
・・・・・・・
春樹さんの作品を読んで、ある感覚が自分の中を走った。
テレビ、ニュース、周りの現実・・・色んなものごとにおいて、自分が無性に怒りを感じることがある。
自分が怒りを感じている自分の感情の正体は、「人を支配しようとするあらゆるもの」だということに。
人の精神を支配しようとする人。
その計画は、静かに、音もなく、気付かないうちに儀式のように進められ、怪物のように巨大化した自意識の中へと、入れ子構造に人が人を取り込んでいく。
相手を自分の思い通りにしょうと考えるのは、相手を支配しようとする感情の動きだ。
そんな<支配する・支配される>の精神構造から自分が抜けないかぎり、自分も、相手も、きっとどこにも行けない。
だから、このことについて、考えてみたいと思っている。
いろんなものごとの根っこは、この辺りにあるような気がする。
そう自分が感じているのなら、そのことに正直でいたい。
すごくよかった。
春樹さんの文章は、森の中から聞こえてくる音のようで、どこが音源かはわからなくて、探して歩いても、近づけば遠く聞こえ、遠ざかると近くに聞こえてくる。
でも、深い森のどこかから確実に聞こえてくる。そんな音楽。
そういえば、「遠い太鼓」って本もありますよね。
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「UFOが釧路に降りる」
『小村さんはそのことを知らずに、ここまで運んできて、自分の手で佐々木さんに渡しちゃったのよ。だからもう小村さんの中身は戻ってこない』
『深い沈黙の中で、心臓が大きな乾いた音を立てていた。体を曲げると、骨がきしんだ。一瞬のことだけれど、小村は自分が圧倒的な暴力の瀬戸際に立っていることに思い当った。』
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これは新興宗教のような、信仰の危うさを言っていると思う。
完全に何かをゆだねるとき、相手が「支配しよう」という強大な自意識を隠し持っていると、それはかなり危ない。
何かを委ねることは、時には必要だ。
ただ、それが人間であるとき、支配する・支配されるの構造に入ってしまうと、それはマインドコントロールになる。支配される。
自分と言う巨大な器から抜けだそうとした人たち。
精神の自由を獲得しようと「修行」に励んだ人たちが行った先は、誰かの巨大な自意識の中だった。ということだ。
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村上春樹「タイランド」
『これから先、生きることだけに多くの力を割いてしまうと、うまく死ぬることができなきなります。少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬるここととは、ある意味では等価なのです、ドクター』
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生きることに精いっぱいであることは否定しない。
でも、同時に死に行く人や死んでいった人もいる。
そんな死を受け止める。
死は敗北でも負けでもなくて。生は勝利でも勝ちでもなくて。
生きている人にはきっと何かの役割を背負わされている。
生者は死者たちの思いを運ぶ船だ。
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村上春樹「かえるくん、東京を救う」
『脳味噌は眠りの中でねとねとに溶けて、なにかべつのものになってしまっています。実際の話、彼は何も考えてないのだと僕は推測します。彼はただ、遠くからやってくる響きやふるえを身体に感じとり、ひとつひとつ吸収し、蓄積しているだけなのだと思います。そしてそれらの多くは何かしらの化学作用によって、憎しみというかたちに置き換えられます。』
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村上春樹「かえるくん、東京を救う」
『世界とは大きな外套のようなものであり、そこには様々なかたちのポケットが必要とされているからです。』
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村上春樹「かえるくん、東京を救う」
『正直に申し上げますが、ぼくだって暗闇の中でみみずくんと闘うのは怖いのです。長いあいだぼくは芸術を愛し、自然とともに生きる平和主義者として生きてきました。闘うのはぜんぜん好きじゃありません。でもやらなくてはいけないことだからやるんです。』
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村上春樹「かえるくん、東京を救う」
『もちろんぼくらは誰もが限りのある存在ですし、結局は破れ去ります。でもアーミネスト・ヘミングウェイが看破したように、ぼくらの人生は勝ち方によってではなく、その破れ去り方によって最終的な価値を定められるのです。』
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人は、影や暗闇と向き合わないといけないことがある。
それは、絶望とか衝撃的な何かの感情が、そんな深い場所まで人を引き落とす。
「神の子どもたちはみな踊る」の、最後にある「蜂蜜パイ」の終わり方が好きだった。
ネタばれになるといけないので、これは引用しませんけど。
この最終章までは、ひとのこころの深い場所に降りて、ひとの暗闇を除く感じなので、共鳴すると辛い感情に支配されるけど、最後の話は救いがある。
あれは、作者本人の救いへの祈りのよう。
この本の最終章まで至るプロセスは、禅画の「十牛図」のようなものを感じた。
人は、開かれるために、閉じる時期があるのだと。
・・・・・・・
春樹さんの作品を読んで、ある感覚が自分の中を走った。
テレビ、ニュース、周りの現実・・・色んなものごとにおいて、自分が無性に怒りを感じることがある。
自分が怒りを感じている自分の感情の正体は、「人を支配しようとするあらゆるもの」だということに。
人の精神を支配しようとする人。
その計画は、静かに、音もなく、気付かないうちに儀式のように進められ、怪物のように巨大化した自意識の中へと、入れ子構造に人が人を取り込んでいく。
相手を自分の思い通りにしょうと考えるのは、相手を支配しようとする感情の動きだ。
そんな<支配する・支配される>の精神構造から自分が抜けないかぎり、自分も、相手も、きっとどこにも行けない。
だから、このことについて、考えてみたいと思っている。
いろんなものごとの根っこは、この辺りにあるような気がする。
そう自分が感じているのなら、そのことに正直でいたい。
中でも(…といっても、他は結構忘れちゃってるな-、読み返したい)、「蜂蜜パイ」がやはり一番好き。一回、全部書き写したくらい好き、英語版のオーディオテープ買って、特に意味も分からず眠りにつくときかけとくくらい好きでした。
〈支配する・支配される〉については考えさせられますな~。
僕の座右のバイブルで『プラトニック・アニマル』では、稀代のAV監督ヨヨチューこと代々木忠さんは、「すべて受け入れろ、反論するな。そうすれば、どんな間違った論理も共感できる」っていって、そこをスタート地点にして女の子に接していくんだと。そこで二人で止まったら危険なのかも知れないけど、でも、二人で歩き始める地盤を作る作業が全肯定なのかも?と思ったりもしました。
…そいえば、先日の爆笑問題の番組で、犯罪心理学の先生が、なぜ、取り調べにあった被疑者が嘘の自白をするのかで、「人間は信じてもらえない状態に慣れてない」って、だから否定され尽くすと、ウソでもイイから信じてもらいたくて嘘の自白をすると。
…そいえば(もひとつ!)、社会学の古典『自由からの逃走』は、ナチスドイツの台頭が、支配されたがっている大衆の民意の獲得に上手くいったから…みたいなことが書いてあった気がした。
〈支配・被支配〉関係は、文学から心理学、政治学と、あらゆる領域で議論される、それだけ人間に本質的なテーマなのかも知れないね!
そうなのね。
僕も、かなり好きです。
質の高さと、底に流れる一定のリズム、そしてそれぞれの短編が抱える多様さ・・・。
『プラトニック・アニマル』ってのは、ほんと色々読んでるねぇ。感心するわー。
そうそう。全肯定って大事なのよね。
それはpositive thinkingではなくて、どんなにダメでも、Yesと肯定する姿勢。
ただ、あまりに純粋、純潔過ぎると、そこに甘い蜜を吸いに来る人もいるのですよね。
巨大な光には影がべったりできるのと同じで。
それが信仰とか宗教が持つ二面性の怖さでもあって、その2面性をつねにパタパタと入れ替えながら更新していれば大丈夫なんだけど、一面しか見なくなると、危うい。
『自由からの逃走』って、タイトルだけでもかっこいいよね。
でも、読んだことないなぁ。
でも、このタイトルの雰囲気はよくわかる。
人間って、自由を求めつつ、本当に自由になった時、不自由を求める。
やはり、自由って言うのは不自由という合わせ鏡ではじめて一対の全体になる。
それって光と影も同じだよね。
父性原理って切断、分断することで秩序をつくる力がある。
今は父性原理が強いのだけど、母性原理とのバランスが大事だよね。
そのまま包み込むような、一体感のままで。
〈支配・被支配〉関係は、今度の座談会でもテーマになるかな。
いじめとかも、同じようなものだしね
肉体的な支配と精神的な支配の比較とか。
映画のショーシャンクは、肉体的な支配をされれに、精神的な支配をされず、自由を求め続けた話のように思ったし。
話題は尽きませんなー。