竹内整一先生の「日本思想の言葉 神、人、命、魂」(角川選書) (2016/8/27)を精読中。
竹内先生は東大の学生時代に出会った先生で、生き字引のような先生だった。
なんでこのご時世に、哲学や思想でご飯を食べることにしたのか、と、竹内先生に職業選択のきっかけを聞いた時、
「自分の研究テーマは日本思想史における〈おのずから〉と〈みずから〉です。だから、自分も〈おのずから〉と〈みずから〉のあわいで、この進路を決めているんでしょうね。」と言われ、全身に電流が走ったのを覚えている。それだけで説明は十分だった。
その時から、「〈おのずから〉と〈みずから〉のあわい」という感覚が自分の意識の上へと言語化され、一つの大きな大陸のように浮かんでいるのだった。
(このエピソードは「無意識の整え方」内でも自分が話しています。)
〇西本喜美子さんの写真 武田鉄矢さんラジオ「今朝の三枚おろし」(2016-09-01)
〇前野隆司「無意識の整え方」(2016-01-26)
〇竹内整一「〈おのずから〉と〈みずから〉」春秋社 (2004/1/19)
目次
第1章 神
第2章 人
第3章 命
第4章 魂
第5章 情
第6章 時
第7章 死
それぞれに関して、日本思想史から色々な人の言葉を生き字引のように集めて編集している本。
●第一章 神
・人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです(遠藤周作)
・信ずるが故に実なり (清沢満之)
・私か。私も多分祈れまい(正宗白鳥)
・「地獄は何んな処かしらん」(菊池寛)
この章で親鸞の「信」の継承のテーマが書かれている。
「信ずる」ということは、後悔しないことであると言う。
信じていたのに裏切られたというのは、信じていなかっただけのことであると。それは単に「当てにしていた」だけであって、「信じて」いたら、裏切られるなどという概念すら出てこないものだ。と書いている。
こうした信の徹底さに、常識的にはたじろいでしまう。
もし信じている対象が間違っていたり、悪であったらどうするのか?と。
ただ、親鸞はそういう分別を超えた「信」の世界を訴えていたのだろう。
つまり、疑いが出ている以上、その信じている先は、本当に信じる相手ではない、ということなのかもしれない。
徹底的に信じぬける相手がいるということは、すでに分別知の世界を超えている、ということか・・・。
●第二章 人
・人力の限りあるを知るのが自信だ(島崎藤村)
・小さな一隅に身をおくことのみ (内村鑑三)
・人間の如き、無智無力、見る影も無き、蛆虫同様の小動物(福沢諭吉)
・余に道徳なし。自ら羞じると羞じざるとを以て行為の標準となす(国木田独歩)
●第三章 命
・今、いのちがあなたを生きている(東本願寺)
・正しい原因に生きる事、それのみが浄い(高村光太郎)
・ほろびしものはなつかしきかな(若山牧水)
東本願寺の「今、いのちがあなたを生きている」は、何かいのち全体が自分の体を貫いているのを感じる。
私を主語にして生きていくのか、いのちを主語にして生きていくのか、主語をどのレイヤーに持ってきて生きていくかで、見える風景が異なってくることを言っている。
実際には、わたしといのち、そういう多層のレイヤーを同時に生きていきながら、そのことすら頭の概念から抜けて自由に無邪気に生きることを提案しているのだと思う。
●第四章 魂
・魂という言葉は天地万物を流れる力の一つの形容詞に過ぎないのではありますまいか(川端康成)
・精神の本質は計量を許さぬところにある(小林秀雄)
・表現することは物を救うことであり、物を救うことによって自己を救うことである (三木清)
・花びらは散っても花は散らない(金子大栄)
金子大栄さんの「花びらは散っても花は散らない」というフレーズは、竹内先生が東大を退官された時に作られた本のタイトルになっている。
花びらという個体の生命と、花という種の生命。そういう二重の存在を花にたとえて表現している。
〇竹内整一「花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想」角川選書(2011/3/25)
●第七章 死
・死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり(吉田兼好)
・見るべき程の事は見つ。(『平家物語』)
・父はわざ故意と私を遠のけて、いたのだった(森茉莉)
・かんがえださなければならないことは どうしてもかんがえださなければならない(宮沢賢治)
・うしろ髪をひかれるからこそ、最後まで気が違わないで死んでゆくことができるのではないか(岸本英夫)
『平家物語』の「見るべき程の事は見つ」という言葉は、看取りの現場で亡くなりゆく女性が、『平家物語』を朗読しながらあちらに旅立たれた場を体験してから、自分の中に微熱のように発熱し続けている。
この章にある宮沢賢治の一節も心に刺さるものだった。
妹とし子さんの死に対して、
・・・
とし子の死んだことならば
いまわたくしがそれを夢でないと考えて
あたらしくぎくっとしなければいけないほどの
あんまりひどい現実なのだ
感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがいにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつでもまもってばかりいてはいけない
宮沢賢治「青森挽歌」
■■■■■
色々なInspirationを受け、古典の学びにもなる素晴らしい本です。
はしがきにも、
「あらためる」とは、つねに「古」を「検(あらた)める」ことにおいて「新」へと「改める」といういとなみなのである。
とありました。
古典を自分なりの眼差しで読み返す営みそのものが、何か自分を更新させているようです。
竹内先生の他の本も勉強になって面白いですよ。
〇日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか(2009-03-18)
〇竹内整一『「はかなさ」と日本人』(2009-02-17)
竹内先生は東大の学生時代に出会った先生で、生き字引のような先生だった。
なんでこのご時世に、哲学や思想でご飯を食べることにしたのか、と、竹内先生に職業選択のきっかけを聞いた時、
「自分の研究テーマは日本思想史における〈おのずから〉と〈みずから〉です。だから、自分も〈おのずから〉と〈みずから〉のあわいで、この進路を決めているんでしょうね。」と言われ、全身に電流が走ったのを覚えている。それだけで説明は十分だった。
その時から、「〈おのずから〉と〈みずから〉のあわい」という感覚が自分の意識の上へと言語化され、一つの大きな大陸のように浮かんでいるのだった。
(このエピソードは「無意識の整え方」内でも自分が話しています。)
〇西本喜美子さんの写真 武田鉄矢さんラジオ「今朝の三枚おろし」(2016-09-01)
〇前野隆司「無意識の整え方」(2016-01-26)
〇竹内整一「〈おのずから〉と〈みずから〉」春秋社 (2004/1/19)
目次
第1章 神
第2章 人
第3章 命
第4章 魂
第5章 情
第6章 時
第7章 死
それぞれに関して、日本思想史から色々な人の言葉を生き字引のように集めて編集している本。
●第一章 神
・人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです(遠藤周作)
・信ずるが故に実なり (清沢満之)
・私か。私も多分祈れまい(正宗白鳥)
・「地獄は何んな処かしらん」(菊池寛)
この章で親鸞の「信」の継承のテーマが書かれている。
「信ずる」ということは、後悔しないことであると言う。
信じていたのに裏切られたというのは、信じていなかっただけのことであると。それは単に「当てにしていた」だけであって、「信じて」いたら、裏切られるなどという概念すら出てこないものだ。と書いている。
こうした信の徹底さに、常識的にはたじろいでしまう。
もし信じている対象が間違っていたり、悪であったらどうするのか?と。
ただ、親鸞はそういう分別を超えた「信」の世界を訴えていたのだろう。
つまり、疑いが出ている以上、その信じている先は、本当に信じる相手ではない、ということなのかもしれない。
徹底的に信じぬける相手がいるということは、すでに分別知の世界を超えている、ということか・・・。
●第二章 人
・人力の限りあるを知るのが自信だ(島崎藤村)
・小さな一隅に身をおくことのみ (内村鑑三)
・人間の如き、無智無力、見る影も無き、蛆虫同様の小動物(福沢諭吉)
・余に道徳なし。自ら羞じると羞じざるとを以て行為の標準となす(国木田独歩)
●第三章 命
・今、いのちがあなたを生きている(東本願寺)
・正しい原因に生きる事、それのみが浄い(高村光太郎)
・ほろびしものはなつかしきかな(若山牧水)
東本願寺の「今、いのちがあなたを生きている」は、何かいのち全体が自分の体を貫いているのを感じる。
私を主語にして生きていくのか、いのちを主語にして生きていくのか、主語をどのレイヤーに持ってきて生きていくかで、見える風景が異なってくることを言っている。
実際には、わたしといのち、そういう多層のレイヤーを同時に生きていきながら、そのことすら頭の概念から抜けて自由に無邪気に生きることを提案しているのだと思う。
●第四章 魂
・魂という言葉は天地万物を流れる力の一つの形容詞に過ぎないのではありますまいか(川端康成)
・精神の本質は計量を許さぬところにある(小林秀雄)
・表現することは物を救うことであり、物を救うことによって自己を救うことである (三木清)
・花びらは散っても花は散らない(金子大栄)
金子大栄さんの「花びらは散っても花は散らない」というフレーズは、竹内先生が東大を退官された時に作られた本のタイトルになっている。
花びらという個体の生命と、花という種の生命。そういう二重の存在を花にたとえて表現している。
〇竹内整一「花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想」角川選書(2011/3/25)
●第七章 死
・死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり(吉田兼好)
・見るべき程の事は見つ。(『平家物語』)
・父はわざ故意と私を遠のけて、いたのだった(森茉莉)
・かんがえださなければならないことは どうしてもかんがえださなければならない(宮沢賢治)
・うしろ髪をひかれるからこそ、最後まで気が違わないで死んでゆくことができるのではないか(岸本英夫)
『平家物語』の「見るべき程の事は見つ」という言葉は、看取りの現場で亡くなりゆく女性が、『平家物語』を朗読しながらあちらに旅立たれた場を体験してから、自分の中に微熱のように発熱し続けている。
この章にある宮沢賢治の一節も心に刺さるものだった。
妹とし子さんの死に対して、
・・・
とし子の死んだことならば
いまわたくしがそれを夢でないと考えて
あたらしくぎくっとしなければいけないほどの
あんまりひどい現実なのだ
感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがいにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつでもまもってばかりいてはいけない
宮沢賢治「青森挽歌」
■■■■■
色々なInspirationを受け、古典の学びにもなる素晴らしい本です。
はしがきにも、
「あらためる」とは、つねに「古」を「検(あらた)める」ことにおいて「新」へと「改める」といういとなみなのである。
とありました。
古典を自分なりの眼差しで読み返す営みそのものが、何か自分を更新させているようです。
竹内先生の他の本も勉強になって面白いですよ。
〇日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか(2009-03-18)
〇竹内整一『「はかなさ」と日本人』(2009-02-17)