最近、村上春樹さんに続き、河合隼雄さんの世界にはまっている。
お二人とも、できる限り全著作を読みたいと思っている。
2年ほど前によしもとばななさん、去年くらいから村上春樹さん、今年から河合隼雄さん。
この3人の本を読み始めたのは最近なのだけど、運命の糸のようなものを感じている。
というのも、今まではサイエンス漬けの日々だったし、基本的に意識や脳が中心の日々を送っていた。それは、ある意味現代的でもある。
周りにはパソコンに囲まれ、ネットが張り巡らされ、夜でも明るく、夜でも人は働く。
ただ、自分の中では「無意識」っていうのを「無意識」に排除していた気がする。
夢なんかもあまり見てなかったし(OR覚えてなかった)、それこそ、眠るのは時間の無駄かなーなんて思ってた。
でも、この3人の世界観に触れはじめた時期から、なんとなく自分の世界が変わってきて、意識を裏で支える無意識のようなものに非常に興味がわいてきた。
『こんなこと思ってもいなかったのに言ってしまった』
『いけないというのは分かっているのにやってしまった』
『頭ではわかっているけど、体が動かなくて』
・・・・
こういう経験が自分にはある。
あまり気にしなかったのだけど、今思うと、意識の世界から締め出し、無意識の世界に抑圧して、ガチャンと蓋をして見ないようにしていた。
そうして抑圧していたものが、何かをきっかけに無意識界から意識界へと噴出したのかなぁと思うようになった。
そういう風に思うようになってから、なんとなく夢を見るようになってきた。
正確に言えば、夢を覚えているようになったとか、無意識に抑圧しないようになったとかの表現が正しいのかもしれない。
科学は意識中心。脳中心。
それは、光。
暗い夜にも、眩しい光を当て、夜を昼にするような営み。
それはいろんな便利なものを生む。
ただ、その光で必ずできる影というもの、便利さと同時に同程度生まれてくる負の側面は、あまり注意していなかった気がする。
頭ではわかってても、からだではわかってないというか。
それは、理屈だけ。単なる頭でっかち。
最近は、影とか、夜とか、そういう負の側面も全部ひっくるめて一つだし、そういう二重性を同時に感じれるようになった。
本当は、夜を照らすのは、太陽ではない。
夜を照らすのは、月の光だ。
明るく白日にさらす太陽ではなくて、あいまいにぼんやりと、ほのかに見せる月の光だ。
太陽の強さと共に、月の光を。
今までは、意識や脳や理性を中心に仕事をしていた。
それは一種の父性原理。
父性原理は、強いし、ものごとをどんどん分割して分離して、明らかにしていく。
ただ、今後はその父性原理を裏でひっそり支える、無意識やからだのような場所もトータルで考えたい。それは母性原理だ。
一見弱いし曖昧かもしれないけど、ものごとを分離せず、優しく包み込むようなもの。創造の源でもある。
科学や医学も、今後は強い一神教のような父性原理だけではなくて、母性原理と共に共存しないといけない。
完全性は、欠点を、悪を、矛盾を、影を排除すること。
全体性は、欠点を、悪を、矛盾を、影を・・・すべてを受け入れて包含すること。
*******************
河合隼雄『母性社会日本の病理』より
<太母原型(Great Mother)>
絶対的な優しさと安全感を与えてくれる「母なるもの」のイメージ。
母性原理は「包含する」。それは全てのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込む。
母性の本質は、肯定的には慈しみ育てること。
否定的には狂宴的な情動性、暗黒の深さ。呑み込むこと。
<肯定的な例>
観音菩薩(仏教)
ガイア(ギリシャ)
デメテル(ギリシャ)
マリア(キリスト教)
サラスヴァティー(インド)
ニブヌ(台湾)
チュチュホチダル(台湾)
<併存型の例>
イザナミ(記紀神話)
鬼子母神(仏教)
<否定的な例>
魔女
夜叉(仏教)
ヤマタノオロチ(記紀神話)
トルーデさん(グリム童話「トルーデさん」)
セドナ(イヌイット)
山姥(日本昔話)
ヘカテー(ギリシア)
カーリー(インド)
*********************
エーリッヒ・ノイマン「女性の深層」
『煮焚きやパン焼き、料理といった原初からの女性の密儀においては、熱することや煮ること、ものの形や質がかわることは、常に待たれるべき時の経過と切り離せない。
時が来たるまで、経過が落ち着きを告げるまで、月の果実が丸く満月をなすに至るまで・・・ すなわち無意識から認識が生まれてくるまで、待つのである。』
***********************
意識と無意識。
意識は、太陽。白日の明るさですべてを照らし、あきらかにする。
無意識は、月の光。闇夜を照らす月の光。ほんのりと照らし、あいまいなまま、予感させる。
意識は、運命を呪う。戦い、克服しようとする。なにかを待てない。
無意識は、運命を受け入れる。戦わない、克服しない。そして、時が満ちるのを静かに待つ。
******************
人は、生物学的な男女の区別を超えて、誰もが女性性(母性原理)と男性性(父性原理)を持ち、理想の女性像と理想の男性像を持っている。
あとは、それぞれのバランスの問題だ。
成長とは、そういうものを失ったり獲得したり、分離したり融合させながら、自分なりの均衡を獲得していく、自分なりの物語なのだと思う。
お二人とも、できる限り全著作を読みたいと思っている。
2年ほど前によしもとばななさん、去年くらいから村上春樹さん、今年から河合隼雄さん。
この3人の本を読み始めたのは最近なのだけど、運命の糸のようなものを感じている。
というのも、今まではサイエンス漬けの日々だったし、基本的に意識や脳が中心の日々を送っていた。それは、ある意味現代的でもある。
周りにはパソコンに囲まれ、ネットが張り巡らされ、夜でも明るく、夜でも人は働く。
ただ、自分の中では「無意識」っていうのを「無意識」に排除していた気がする。
夢なんかもあまり見てなかったし(OR覚えてなかった)、それこそ、眠るのは時間の無駄かなーなんて思ってた。
でも、この3人の世界観に触れはじめた時期から、なんとなく自分の世界が変わってきて、意識を裏で支える無意識のようなものに非常に興味がわいてきた。
『こんなこと思ってもいなかったのに言ってしまった』
『いけないというのは分かっているのにやってしまった』
『頭ではわかっているけど、体が動かなくて』
・・・・
こういう経験が自分にはある。
あまり気にしなかったのだけど、今思うと、意識の世界から締め出し、無意識の世界に抑圧して、ガチャンと蓋をして見ないようにしていた。
そうして抑圧していたものが、何かをきっかけに無意識界から意識界へと噴出したのかなぁと思うようになった。
そういう風に思うようになってから、なんとなく夢を見るようになってきた。
正確に言えば、夢を覚えているようになったとか、無意識に抑圧しないようになったとかの表現が正しいのかもしれない。
科学は意識中心。脳中心。
それは、光。
暗い夜にも、眩しい光を当て、夜を昼にするような営み。
それはいろんな便利なものを生む。
ただ、その光で必ずできる影というもの、便利さと同時に同程度生まれてくる負の側面は、あまり注意していなかった気がする。
頭ではわかってても、からだではわかってないというか。
それは、理屈だけ。単なる頭でっかち。
最近は、影とか、夜とか、そういう負の側面も全部ひっくるめて一つだし、そういう二重性を同時に感じれるようになった。
本当は、夜を照らすのは、太陽ではない。
夜を照らすのは、月の光だ。
明るく白日にさらす太陽ではなくて、あいまいにぼんやりと、ほのかに見せる月の光だ。
太陽の強さと共に、月の光を。
今までは、意識や脳や理性を中心に仕事をしていた。
それは一種の父性原理。
父性原理は、強いし、ものごとをどんどん分割して分離して、明らかにしていく。
ただ、今後はその父性原理を裏でひっそり支える、無意識やからだのような場所もトータルで考えたい。それは母性原理だ。
一見弱いし曖昧かもしれないけど、ものごとを分離せず、優しく包み込むようなもの。創造の源でもある。
科学や医学も、今後は強い一神教のような父性原理だけではなくて、母性原理と共に共存しないといけない。
完全性は、欠点を、悪を、矛盾を、影を排除すること。
全体性は、欠点を、悪を、矛盾を、影を・・・すべてを受け入れて包含すること。
*******************
河合隼雄『母性社会日本の病理』より
<太母原型(Great Mother)>
絶対的な優しさと安全感を与えてくれる「母なるもの」のイメージ。
母性原理は「包含する」。それは全てのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込む。
母性の本質は、肯定的には慈しみ育てること。
否定的には狂宴的な情動性、暗黒の深さ。呑み込むこと。
<肯定的な例>
観音菩薩(仏教)
ガイア(ギリシャ)
デメテル(ギリシャ)
マリア(キリスト教)
サラスヴァティー(インド)
ニブヌ(台湾)
チュチュホチダル(台湾)
<併存型の例>
イザナミ(記紀神話)
鬼子母神(仏教)
<否定的な例>
魔女
夜叉(仏教)
ヤマタノオロチ(記紀神話)
トルーデさん(グリム童話「トルーデさん」)
セドナ(イヌイット)
山姥(日本昔話)
ヘカテー(ギリシア)
カーリー(インド)
*********************
エーリッヒ・ノイマン「女性の深層」
『煮焚きやパン焼き、料理といった原初からの女性の密儀においては、熱することや煮ること、ものの形や質がかわることは、常に待たれるべき時の経過と切り離せない。
時が来たるまで、経過が落ち着きを告げるまで、月の果実が丸く満月をなすに至るまで・・・ すなわち無意識から認識が生まれてくるまで、待つのである。』
***********************
意識と無意識。
意識は、太陽。白日の明るさですべてを照らし、あきらかにする。
無意識は、月の光。闇夜を照らす月の光。ほんのりと照らし、あいまいなまま、予感させる。
意識は、運命を呪う。戦い、克服しようとする。なにかを待てない。
無意識は、運命を受け入れる。戦わない、克服しない。そして、時が満ちるのを静かに待つ。
******************
人は、生物学的な男女の区別を超えて、誰もが女性性(母性原理)と男性性(父性原理)を持ち、理想の女性像と理想の男性像を持っている。
あとは、それぞれのバランスの問題だ。
成長とは、そういうものを失ったり獲得したり、分離したり融合させながら、自分なりの均衡を獲得していく、自分なりの物語なのだと思う。
追伸。ふたつでひとつ、って私も最近ようやくお腹でわかりました。頭が知ってるととと体の奥でわかることの距離に驚きます。わかってなかったことがやっとわかった、というか。
絵、なんか画風かわったなーって感じですが、笑
母性原理の、全てを包み込む感じをイメージしたのです。
ま、その辺はなんとなくってことです。
そこまで深く考えてません。
ふたつでひとつ。
科学とか合理主義っていうのは、分けないと分からないことなのですよね。
でも、それは大事なんだけど、それだけじゃダメなんですよね。
ふたつでひとつ。それは、自分の中に母性と父性を同居させることだし、それが一体化することだとも思うのです。
そして、それは子供やお年寄りは、そんな生き方を体現しているように思えることも多いと、現場で実感してるんです。
というか、あまりやったことがないので正直恐ろしい感じがするけど。
しかしながらその光がさすときにできる影の部分、というものを意識するっていうのはとても重要なことのように思える。これまでは、影や闇の部分は、真っ暗で「無」であると考えていたけれども、そこには”闇夜の牛”じゃないけれど「何かがあるけれども影になっていて見えない」という風に考える方が自然だといまは感じるね。
自分のみる夢の中にも、その影で普段見えない部分に光を当てて見せてくれているような気になるような、一見意味不明でもなんだか腑に落ちる類のものが確かにあると、この日記を読んでそう思いました。
ふむふむ。
どうもどうも。
この前は昼下がりからやけに熱く深い話につき合わせてしまいまして。笑
この辺のことが、すごく興味深く感じておるのです。
無意識を意識的に掘り出す作業って、自分のいいとこも悪いとこも、見ないでいたのが全部出てきちゃうからね。
あとは、それを、いつするかって問題だと思う。
なんかのきっかけで、そこに引きずり込まれるか、運よく見ないまま一生終えるかってくらいで。
その見なきゃよかった自分の悪いとこっていうのは、<自分の影>というとこなんですよね。
この辺は、大尊敬している河合隼雄さんの『影の現象学』に載ってます。
『正直恐ろしい感じがする』ってのはすごく正しい。
ほとんど対決に近いらしいから。
でも、そこを見ない人で、影に呑み込まれて、影に操られて生きている人も多いってのも書いてあった。それは怖いわー。アンデルセンの童話の影法師ってのも、影に乗っ取られる怖いお話で。
昔話には、そういう話が満ちてるんですよー。
近代小説って、なんか自我中心だからせせこましい感じで、それが僕はあんまり好きじゃなかったんだけど、この機会に、昔話とか興味深く読んでます。グリム童話とかもね。
『「何かがあるけれども影になっていて見えない」という風に考える方が自然。』
そうなんだよねー。
それは、太陽の光では永遠に見えない場所なんだよね。
月の光じゃないと、そこは見えない。影で、闇なんだから、ある意味当然なのかも。
そう思うと、神話には太陽と月は常に一対のように出てくるし、すごく面白いとも思う。
この辺は、深めていけば、臨床の世界にも応用できるって確信してるんで、すごく興味深いのです。実臨床でもそうだし、自分の成長にとってもね。
夜を照らすのは、月の光だ。
この表現すごいですね。すごく深いです。深緑くらいです。
外に出てくる無意識って、癖、寝言、言い間違い、イントネーション、声質、タイミングってところでしょうか。出来るだけそれらも汲み取りながら話を聞きたいと思っています。
でも、無意識を理解できるreceptorの最たるものは、「女の勘」なのではないかとも思ってます。
最近は太陽の光だけではなくて、月の光も取り入れようと思ってます。そういうやさしい光ね。
癖、寝言、言い間違い、イントネーション、声質、タイミング・・・
無意識だと思うなー。
あと、酒で酔っ払っときの人とかね。
普段は自意識で縛っている自我が緩んで、押さえ込んだ無意識が大暴れしてるんだと思う。
女の勘とか、第六感とか、理屈を超えて直感(直観)でものごとの真理をズバリとつかむよね。