フリークライミングを再開しました。
この写真はフリークライミング用の靴です。
合計2足履きつぶしていて、4足目になります。
バレリーナのトゥシューズみたいなもので、中国の纏足(テンソク)のように足をギューギューとつめて履きます。
指先は半分折り曲げたくらいの小ささで履きます。
これは、足の指先(親指とか)一本で立ったりするために、指先感覚が分かるようにそうなってます。
クライミングを再開した理由。
1:本郷の東大にはクライミング用人工壁がある。
2:後輩の山岳部員に技術を伝えていかないといけない。
3:運動不足傾向にある
4:普通に楽しい。童心に帰る。
5:「こころ」と「からだ」を思索しているので、自分なりに「からだ」とは何か、実践を踏まえて思索を深めようと思っている。
この全部が、その理由です。
クライミングは筋肉モリモリの人しか登れないように思われがちですが、そうではありません。
非常に知的な遊びの要素が大きいと思います。
手の筋肉で登るのではなく、自分の「からだ」の重心を微妙に立体的にずらしながら、いかに手の筋肉を使わずに楽に登るかというのが大事なのです。
手の筋肉ではなく、手の骨を使って体重を支えます。
これは、からだの動きを見せながらでないと説明しにくいのですが、壁のとっかかりを手を屈曲させて持つと筋肉を使い疲労します。
ですので、できるだけ手を直線に延ばし、骨の硬さによって、突っ張り棒状態で自分の体を支えるのです。
これがクライミングの秘訣のひとつです。
そして、手の筋肉で登るのではなく、足にゆっくり重心をかけながら足で登ることを意識します。
「片足のみの1点」or「片手+片足の2点」or「片手+両足の3点」のように、1~3点でからだを支え、その立体的な関係性の中で「からだ」に垂直方向に働く重力を感じつつ体重移動をしていく。
そんな立体的な重心移動の繰り返しにより登り続けます。
90度以上反り返っている壁をハングと呼びますが、普通に登ると重心のモーメントが体を壁からひきはがすように働いてしまうので(物理で習いますね。「力のモーメント=力の大きさ×腕の長さ」)、全身を壁にベッタリこすりつけながら、壁と自分がなるべく一体化するように肉体を動かしながら登るのがコツです。
そうすると、「力のモーメント=力の大きさ×腕の長さ」で言うところの、腕の長さが極限にゼロに近くなるので、壁から「からだ」を引きはがそうとする重力の影響が弱まるわけです。
からだに働く重力を感じながら、重力に抗わないように登るわけです。
反り返った壁を、イモリのように張り付きながら登るわけですね。
文章で書くとヤヤコシイですが、こんなことを感じながら、「からだ」を立体的に全方向に動かしながら、クエクネと軟体人間のようになって登ります。
このブログを読んでいる我が古くからの友人も、多くの人を当時クライミングに誘いました。
哲学するのが好きな友人は、皆一様にはまります。
それは、「こころ」と「からだ」の一体感であり、心身一如の世界なのだと思います。
普段、「こころ」と呼ばれる知性や理性や意識中心の仕事や生活をしているので、自分の「からだ」をないがしろにしがちです。
(それだけ、人間の「からだ」は意外に丈夫にできすぎているということかもしれません。)
クライミングは「からだ」のあらゆる筋肉を総動員して、手の指先の筋肉はもちろん、腕の骨も使うし、足の指先の筋肉さえも駆使しながら登るわけですが、「からだ」がいかに色んな部分で構成されて、全体としてできあがっているかを強く感じずにはおれません。
今までは頭ばかりつかった仕事漬けで、そんな状態が知的で現代的だと妙な勘違いをして、自分の「こころ」と「からだ」は完全に分離して考えていた気がします。
本来は、二つの輪は重なる部分があるはず。
そこを、「こころ」と「からだ」の『あわい』の領域と呼びます(合わさったところという意味)。
例えて言えば、黒色と白色の絵の具が合わさった時にできる、グレーのような曖昧な色合いです。
グレーも連続して白になっているし、連続して黒になっているし、そこの境目は現実にははっきりわかりません。
そんな『あわい』の領域が、間違いなくあります。
今は自分を深めることが大事だと思っているし、そんな営みこそ、自分の人生をかける意義があると感じています。
権威や名声や富には元来興味がないし、そんなものを追い求めてもそこには何もないんじゃないかと思います。
自分の「こころ」と「からだ」の「あわい」の領域や、それぞれの領域の深いところ。
そして、自分の深いところを地下水脈のように流れる、「情け」や「優しさ」や「悲しさ」や「切なさ」や「嬉しさ」みたいな感情の流れのようなもの。
そして、そんな一人の自分を形作っている「他者」の存在。
自分はそんな「他者」から形成されている穴に過ぎなくて、それこそは一期一会の縁で形成されている。(→『他者との出会い』2009-04-04)
そんなことにこそ興味があります。
・・・・・・・・・・・・
そんなヤヤコシイことを考えずとも、フリークライミングの深さは、誰もが一度やると直感的に感じます。
理屈を直感が先行します。
クライミングは、登山と同じで人との勝ち負けを競うスポーツではありません。
自分を「こころ」側から深める読書と同じで、自分を「からだ」側から深めていく営みです。
とにかく!
全身の毛穴から汗かくのって楽しい!
クライミング後は全身の筋肉痛が訪れます。
それは、まるで全身の筋肉が覚醒してきたかのようで、自分の「からだ」を強く意識せざるを得ません。
色んなことを思う「こころ」も自分であるのは間違いないけど、こんな「からだ」も自分であるのは間違いない。
そんな、「こころ」と「からだ」の「あわい」の領域を強く感じてしまうわけです。
(参考までに、これは発掘した2002年当時のクライミング写真。もう7年前! わかるひとにはダレかわかるかも。)
この写真はフリークライミング用の靴です。
合計2足履きつぶしていて、4足目になります。
バレリーナのトゥシューズみたいなもので、中国の纏足(テンソク)のように足をギューギューとつめて履きます。
指先は半分折り曲げたくらいの小ささで履きます。
これは、足の指先(親指とか)一本で立ったりするために、指先感覚が分かるようにそうなってます。
クライミングを再開した理由。
1:本郷の東大にはクライミング用人工壁がある。
2:後輩の山岳部員に技術を伝えていかないといけない。
3:運動不足傾向にある
4:普通に楽しい。童心に帰る。
5:「こころ」と「からだ」を思索しているので、自分なりに「からだ」とは何か、実践を踏まえて思索を深めようと思っている。
この全部が、その理由です。
クライミングは筋肉モリモリの人しか登れないように思われがちですが、そうではありません。
非常に知的な遊びの要素が大きいと思います。
手の筋肉で登るのではなく、自分の「からだ」の重心を微妙に立体的にずらしながら、いかに手の筋肉を使わずに楽に登るかというのが大事なのです。
手の筋肉ではなく、手の骨を使って体重を支えます。
これは、からだの動きを見せながらでないと説明しにくいのですが、壁のとっかかりを手を屈曲させて持つと筋肉を使い疲労します。
ですので、できるだけ手を直線に延ばし、骨の硬さによって、突っ張り棒状態で自分の体を支えるのです。
これがクライミングの秘訣のひとつです。
そして、手の筋肉で登るのではなく、足にゆっくり重心をかけながら足で登ることを意識します。
「片足のみの1点」or「片手+片足の2点」or「片手+両足の3点」のように、1~3点でからだを支え、その立体的な関係性の中で「からだ」に垂直方向に働く重力を感じつつ体重移動をしていく。
そんな立体的な重心移動の繰り返しにより登り続けます。
90度以上反り返っている壁をハングと呼びますが、普通に登ると重心のモーメントが体を壁からひきはがすように働いてしまうので(物理で習いますね。「力のモーメント=力の大きさ×腕の長さ」)、全身を壁にベッタリこすりつけながら、壁と自分がなるべく一体化するように肉体を動かしながら登るのがコツです。
そうすると、「力のモーメント=力の大きさ×腕の長さ」で言うところの、腕の長さが極限にゼロに近くなるので、壁から「からだ」を引きはがそうとする重力の影響が弱まるわけです。
からだに働く重力を感じながら、重力に抗わないように登るわけです。
反り返った壁を、イモリのように張り付きながら登るわけですね。
文章で書くとヤヤコシイですが、こんなことを感じながら、「からだ」を立体的に全方向に動かしながら、クエクネと軟体人間のようになって登ります。
このブログを読んでいる我が古くからの友人も、多くの人を当時クライミングに誘いました。
哲学するのが好きな友人は、皆一様にはまります。
それは、「こころ」と「からだ」の一体感であり、心身一如の世界なのだと思います。
普段、「こころ」と呼ばれる知性や理性や意識中心の仕事や生活をしているので、自分の「からだ」をないがしろにしがちです。
(それだけ、人間の「からだ」は意外に丈夫にできすぎているということかもしれません。)
クライミングは「からだ」のあらゆる筋肉を総動員して、手の指先の筋肉はもちろん、腕の骨も使うし、足の指先の筋肉さえも駆使しながら登るわけですが、「からだ」がいかに色んな部分で構成されて、全体としてできあがっているかを強く感じずにはおれません。
今までは頭ばかりつかった仕事漬けで、そんな状態が知的で現代的だと妙な勘違いをして、自分の「こころ」と「からだ」は完全に分離して考えていた気がします。
本来は、二つの輪は重なる部分があるはず。
そこを、「こころ」と「からだ」の『あわい』の領域と呼びます(合わさったところという意味)。
例えて言えば、黒色と白色の絵の具が合わさった時にできる、グレーのような曖昧な色合いです。
グレーも連続して白になっているし、連続して黒になっているし、そこの境目は現実にははっきりわかりません。
そんな『あわい』の領域が、間違いなくあります。
今は自分を深めることが大事だと思っているし、そんな営みこそ、自分の人生をかける意義があると感じています。
権威や名声や富には元来興味がないし、そんなものを追い求めてもそこには何もないんじゃないかと思います。
自分の「こころ」と「からだ」の「あわい」の領域や、それぞれの領域の深いところ。
そして、自分の深いところを地下水脈のように流れる、「情け」や「優しさ」や「悲しさ」や「切なさ」や「嬉しさ」みたいな感情の流れのようなもの。
そして、そんな一人の自分を形作っている「他者」の存在。
自分はそんな「他者」から形成されている穴に過ぎなくて、それこそは一期一会の縁で形成されている。(→『他者との出会い』2009-04-04)
そんなことにこそ興味があります。
・・・・・・・・・・・・
そんなヤヤコシイことを考えずとも、フリークライミングの深さは、誰もが一度やると直感的に感じます。
理屈を直感が先行します。
クライミングは、登山と同じで人との勝ち負けを競うスポーツではありません。
自分を「こころ」側から深める読書と同じで、自分を「からだ」側から深めていく営みです。
とにかく!
全身の毛穴から汗かくのって楽しい!
クライミング後は全身の筋肉痛が訪れます。
それは、まるで全身の筋肉が覚醒してきたかのようで、自分の「からだ」を強く意識せざるを得ません。
色んなことを思う「こころ」も自分であるのは間違いないけど、こんな「からだ」も自分であるのは間違いない。
そんな、「こころ」と「からだ」の「あわい」の領域を強く感じてしまうわけです。
(参考までに、これは発掘した2002年当時のクライミング写真。もう7年前! わかるひとにはダレかわかるかも。)
ふっと目で点を定めた瞬間や
点から点に移動するときの
伸びやかな動きがきれいでした。
より高いところへ、の魅力よりは
その経過に観る醍醐味がありました
また、観る側にこそある
いやらしい怖いもの見たさも手伝って
ブラウン管に釘付けになった日がありました
目で定めているように見えるのも
からだ全体で定めているのですね
こちらはヨガを続けていますが
やっている最中
筋の屈側と伸側との均衡に意識がむきます
最後に呼吸を整える段階では
内省して下さいというような号令をもらいます
初めて「内省」といわれたとき
このトレーナー大丈夫かね、とあとしざりしましたが
この号令のもと
精神のバランスに意識のむく具合があります
この場合のバランスにも
やはり他者が関わります
トレーナーがおっしゃるのには
ヨガの意図すること
すなわち「溶け去ること」だそうです
ああ、ここでも出てきた、開くことだねえ
命綱が着いているとはいえ踏み外すとブラ~ンと吊り下がってしまったりするのでしょう?
半パンの方もいらっしゃいますが、膝などすりむけたりしないのですか?
ひとつひとつ、確かめながら登っていき、ハングといわれる崖を登るなんてどんなんだろう???
テレビでは幾度も見たことはありますが、東大にはこんな施設があるなんて、おどろきました!
「そんなヤヤコシイことを考えずとも、フリークライミングの深さは、誰もが一度やると直感的に感じます。
理屈を直感が先行します。」
と書かれた、いなばさんの言葉に共感をおぼえました。
ちなみに私はテニスと乗馬をしていました。(過去形。。。)
えー、ヨガやってるんですかー。
(正式にはヨーガって言わないといかんのですよね、確か)
クライミングとヨーガの動きって似てるんで、アメリカとかだと二つともやってる人多いんですよねー。僕も、自分の肉体の動きの追求のために、いい先生とかいいヨーガフレンドに巡り会えるのならやってみたいなーって興味はすごくあるんですよね。
今はホットヨガって形でソフトな感じで輸入されてますしね。
僕が、《チャクラを開くためにヨーガを始めた》
とか言い出したら、「ついにそこまでいっちゃったかー」とか言われそうなのでやりませんが。笑
ま、今はクライミングの動きに、古代インド人がヨーガで追求していたものと似ているものを感じております。
ヨーガは呼吸法とかも大事なんですよね。
ヨガの意図することが「溶け去ること」っていいですね。
道元「正法眼蔵」の
*****************
仏道を習うというは、自己を習うなり
自己を習うというは、自己を忘るるなり
自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり
万法に証せらるるというは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり
*****************
ってのを思い出しちゃいます。
>>>>>>雨音様
命綱が着いているので、写真のようにブラ~ンって感じです。その後、ゆっくり空中から降ろす感じです。
膝はすりむけたりします。でも、そんな摩擦を感じながら登るのを求めて、人間は野生に帰るのか?岩場でも上半身裸で登るお兄さんもいます。坂本一生がタンクトップでよくテレビに出ていたのと同じ論理構造かもしれません。
東大には昔からこんな施設があるんですよ。
普通の体育館の壁に作ってるあるので、近くでフットサルをしているとボールが飛んできます。バレーボールのときなんて、よくボールが当たります。でも、それにじっと耐えながらやるのがマイナースポーツの宿命です。
理屈を直感が先行するときって、なんか人間の野生を感じます。
動物的な勘とか、野生の勘とか言いますが、すごくわかります。
自分から世界に働きかけるわけではなくて、世界から絶対的な受け身の状態で瞬時に知覚することが、直感って気がします。
そんな野生を、クライミングからは感じてしまいます。
動物的な遊びなのかなー。