日常

「ルノワール 伝統と革新」

2010-01-31 13:57:05 | 芸術
風邪はだいぶなおってきた。
のど飴、水分、我慢・・で治った気が。

ふと時間ができたので、国立新美術館の「ルノワール 伝統と革新」を見に行く。


ルノワールは、昔はあまり良さがわからなかったけど、自分も年をとったからなのか、じょじょに良さがわかるようになってきた。

静物画がすごくいいんだよなー。
花瓶に花がさしてあるだけなんだけど、「それだけ」ではない迫りくる実在感を感じる。

静物画って、英語でstill lifeだし。静止して、静かに、じっとしている命。
死んでいるはずなのに死んでいない命のような。



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(ルノワール50歳)
「本当にやむを得なかった場合を別にして、一日だって描かなかった日がなかったと思うよ」
「自分の描いているものが好いのか悪いのか、さっぱり判らなかった。
だが完全に、どうだっていいやと思うところまで到達していたんだな」

(ルノワール70歳)
「僕はまだ、少しはましになっていくようだ。
どう描けばいいのか、分かりかけてきたよ。
ここまでくるのに50年かかった・・・しかもやるべきことは、まだたくさんある!」
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ルノアール以降にこういう絵は増えたわけで、当たり前に見ている絵の源流のようなもの。
若者がすきそうな、ドカーンとした荒々しい感じは全然ないけど(客層も若い人は少なかった)、ルノアールの静かで優しい筆のタッチは、最近になって良さがわかってきたなー。



絵を見ると、異常に実在感を感じることがある。リアリティー。リアルなもの。


プラトンは、人間に大切なものは「真善美」という価値の中にあると言っている人だと思う。
リアルなもの。英語で言えばRealityとは、「現実」ではなくて「真・善・美」 のことだろう。
Realityを感じたいと言う人は、きっと「真・善・美」を求めている。
だから、絵を見て、音楽を聴うて、踊りを見て、演劇を体感しに行く。


普段、僕らが「現実」と読んでいるものは、Realityではなくて、Actualityだ。

今は、世界がActualityに満たされていて、Realityがなくなっている。
プラトンも、カントも、「真・善・美」を考えていたのだと思う。

「真・善・美」は古くて新しい問題。

絵を見たりすると、そんな「真・善・美」の問題を、ついつい考えてしまうのです。

2 コメント

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お洒落処方だな- (H,P)
2010-02-01 21:18:00
風邪にルノワール
曇天にショパン

真善美に接し、感動にうちふるえるときには、理論の存在を感じます。感動のあるとき、自分の心身が納得しているのだと思う。理論は感じるものではないのだろうが、人間を包括する大きな自然の理論なんだと思う。才に恵まれた人間は、この理論をとらえ、それを駆使して、自分が外界をどのようにとらえているのか発信し、他人と真善美を共有できるのだと思う。風邪なんかひいている場合じゃないよ、才の人!お見舞い申し上げる-!
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真善美 (いなば)
2010-02-02 10:12:24
>>>>H,P様
風邪ひいて、部屋で寝てばかりだとイカンかなーと思って、軽い頭痛はあったけれど、ルノワール展を見てきたのです。でも、あまりの人ごみにクラクラしました。
新宿も池袋もそうですが、ただ、そこに人がいる。それだけでものすごいエネルギーを感じますよね。人それ自体がもつ何かのエネルギーというか。
新宿とかの人ごみにいくと、それをすごく感じます。


感動してるときって、何かが自分と呼応しているわけで、それは真善美の領域なのだろうと思うのですよね。
だから、なんだかんだ言って、自分が追い求め、考えているのは真善美の問題であって、それ以外はまあ取るに足らないというか。慰み程度のものであって、まああまり肩肘はらず、気楽にって感じなのかもなー。

真善美というものをテーマに人生を生きていくと、生活にはりがでて、なかなか面白いもんだと思います。
風邪ひいてるのに、土日も何か当直で埋まってるし、仕事休めないのがつらいわー。

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