「無思想の発見」養老孟司(ちくま新書、2005年)をイマサラ読んだ。
すごく面白かった!新書だからスイスイ読めるしお薦め!
出会いや縁とは不思議なもんで、自分がいま考えているテーマにどんぴしゃりなことがたくさん書いてあって驚いた。
■「0」=「無」、「1」=「空」
この本に書かれている本流の内容も面白い。
言うなれば、「無思想」が日本独特の思想であり、それは数字の「ゼロ」の発見と同じようなものであり、そんな「無思想」という日本の思想を評価しなおしている本とでも言えましょうか。
それと関連して、仏教でいうところの「色即是空」の「空(クウ)」は、数はないが数字の一つと同じような意味と考えれば、それとゼロを表すす「無」によって、仏教は全ての世界を説明しているのではないかとの考察もある。
「0」としての「無」、「1」としての「空」。
これは、コンピュータの2進法の世界と同じなのかもしれない!
・・・・・・・・
きっと、この本はここが本流なのだろうけど、ほかのところでもかなり心に突き刺さることが多かった。
養老先生の文章と、自分の意見を織り交ぜながら、この「無思想の発見」養老孟司(ちくま新書、2005年)というすごく面白かった本から引用しつつ紹介していきたい。
■「意識」としての自分、「身体」としての自分
今は意識中心の社会である。
寝ているとき、自分で自分を認識できない。
デカルトが言った「我思う、ゆえに我あり」という言葉がある。
これは意識中心の発想である。
自分が寝ているときは、他人だけが確認できる「自分」がある。
それを人は「身体」と呼ぶ。
ここから、「意識」と「身体」が語られます。
・・・・・・・閑話休題・・・・・・・
ちなみに、「我思う、ゆえに我あり」という言葉として有名ですが、
元々は、デカルトが「方法序説」で、
『Je pense, donc je suis』 (フランス語)=「私は考える、ゆえに私はある」
というのが元にあって、それをデカルトと仲良かったメルセンヌ神父が
『cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム 』(ラテン語)ってラテン語に訳して、
それを日本語訳した「我思う、ゆえに我あり」って形で有名になったらしいですね。
「デカルト入門」 小林 道夫 (ちくま新書)にそう書いてあった。
・・・・・・・・復帰・・・・・・・・
■確固と存在しているわけではない「私」
日本語の一人称としての「私」は、あっちとこっちを、「わたし」と「あなた」を自由に行き来する。
日本語の「私」はそんな実態がないものである。
日本語の中で、「I」とも「You」とも使う言葉として、「ジブン」「手前(テメー)」「おのれ」「ぼくちゃん」など、多くの例がある。
その例から分るのは、日本において「自分という主体」が果たして本当にあるのだろうかということ。
「自分という主体」があると考えだしたのは、ここ数百年の「西欧近代的自我」に過ぎないのではないか。
誤解や混乱の原因は何か。
日本の世間では、「私」という言葉が二重の意味で使われている。
「自分」個人selfと、「公私の別」という意味での「私」privateという二重の意味で語られることが原因である。
そして、日本の世間での「私」の最小の「公的」な単位は、西洋のように「個人」ではなく、「家」であると。
僕らは、家にある「塀」によって、「私的空間」と世間に境界を引いている。
それは「村の論理」と同じようなものである。
そこに確固とした個人はない。
日本の江戸時代、「公私の別」におけるわきまえとして「襲名」という慣習があった。
襲名は、歌舞伎の世界だけではなく、商人にも同じ習慣があったようだ。
というのも、主人が代わると言うのは「私的空間」の出来事であって、
世間からすると単に迷惑なだけで何の関係もないことであると。
だからこそ、主人が同じ名前を名乗る「襲名」というものが自然に行われていた。
実は、現代でもこれは生きている。
現代での「名刺の肩書き」が同じ意味ではないか。
「名刺の肩書き」においては、自分が自分が・・という発想はない。
襲名と同じで、会社の人事が変われば、別の人が来るだけである。
そこに確固とした個人はない。
自分は自分で完結して、個人だけで閉じているわけではない。
世間に開いている存在である。
だから、世間が不安定化すれば、自分も不安定化する。
それを「不安」と呼ぶ。
そこに確固とした個人はない。
■「実存」「現実」と、「意識漬けの意識」
再度デカルトに戻る。
デカルトが言った「我思う、ゆえに我あり」では、
「意識」としての「私」である。
それは点に過ぎないけれど、
近代的自我論に毒されると、それが「私」の「実存」「現実」であると思うようになる。
しかし、「実存」や「現実」なんて人によって全然違うのである。
なんであれ、それを「現実」と思いこむにはどうすればいいか。
それは、しばらくの間、脳をその現実漬けにしておけばいい。
それを、「脳を洗う」と書いて「洗脳」と言う。
数学者は数学を現実と思うし、金融の人は金を現実と思うし、
愛に生きる人は愛が現実だと思う・・・・・
色んな例がある。
■心身一元 こころとからだは一つ
「意識としての自分」こそを「実存」と思い、「意識中心」に陥りやすいのは何故か。
それは、意識は絶えず「意識を意識している」という、「意識漬け」の状態にいるからであると!
だから、「意識が全ての現実であり実存である」と思ってしまうのは、至極当然の成り行きであると。
「西欧近代的自我」であるジョン・ロックは、
『人間知性論』の中でこう言う。
『たとえ指を切り落としても自己が減ることはない。なぜなら、肉体は自己ではないからだ。』
そこで養老先生はこう返す
『首を切り落としても自己は減らないのか?脳の一部を切り落としても自己は減らないのか?』
日本や東洋の哲学者は、「心身一元論」を説くものが多い。
養老先生もそう。僕もそう思う。
だから、肉体・からだは、「自分」の一部であり、切り離せないのではなかろうか。
■心身二元 こころとからだは別のもの
では、何故に西欧は「肉体」を自己から切り離す「心身二元論」になったのか。そこに境界をひくことにしたのか。
それは、キリスト教世界では、霊魂不滅と考えることに由来するのではないかと。
霊魂は身体ではない。
だから、海外は脳死臓器移植にも抵抗がないのかもしれない。
・・・・・・・・閑話休題・・・・・・・・・
この辺りは、脳死臓器移植法案が最近通ったばかりで、ホットなトピックでもあります。
2009/06/18に衆院本会議で「臓器移植法改正A案」が可決。「臓器移植法改正A案」は、(1)脳死を一律に人の死と見なす(2)本人が拒否していない限り家族(遺族)の同意で提供ができる(3)提供を15歳以上としていた現在の年齢制限を撤廃する というものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
キリスト教では、死後、最後の審判というものが待っていると考える。
(ミケランジェロが、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂に描いたフレスコ画が有名ですよね。)
「最後の審判」(Last Judgement)とは、キリスト教では世界の終わりにイエス・キリストが再臨し、あらゆる死者をよみがえらせて裁きを行い、永遠の生命を与えられる者と地獄へ墜ちる者とに分けるという。新約聖書のヨハネの黙示録に記述されている。
これはユダヤ教からキリスト教・イスラム教に引き継がれ、これら3つの宗教において重要な教義となり、死生観に大きな影響を与えている。
僕らは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の人がそういう死生観をもっていることを知った上で話を聞かないと、根本的なところで何を言っているのか理解できなくなってしまう。
最後の審判では霊魂が不滅であることが前提で、その霊魂が最後の審判を受ける。
だからこそ、「永遠に変わらないものとしての魂」がなければいけないし、「変わらない私」「自己同一性」という考えが出てくる。
西欧の「近代的自我」というものは、中世以来の「不滅の霊魂」を近代的・理性的に言い換えたものである。
ただ、日本は自然に満ち溢れていて、根本において「無常」であることを強く意識する。「変わらないもの」「永遠のもの」にあまり重きを置かない。これは、上で書いたものとは真逆からの発想である。
人間は老いていくと、肉体が動かなくなる。
西欧では、「同じ自分」「変わらない自分」という概念を保持するには、「身体」を勘定に入れるわけにはいかない!
だから、西欧では「自分」を「意識」中心に発想し、「肉体」を分離して考える。
そこで、るジョン・ロックが『人間知性論』で言うような発想に至っても不思議ではない。
■意識は「機能=はたらき」であり実存ではない
「意識」の特徴は「同じ」という「強い機能=はたらき」である。
寝て目が覚める。すると、「同じ自分」に戻ると「意識」する働きがある。
毎日目を覚ますたびに、「私は一体誰なんだろうか?」とは思わない。
常に、「同じ自分」に戻るのだ。
そうすると、「同じ自分」という無駄な表現を省き、「自分」と言うようになる。
「自分」の中に「(同じ)自分」という言葉が勝手に侵入してわけだ。
「意識」は実態ではなく、そういう「機能=はたらき」に過ぎない。
しかし、そこで「意識が実在する」と思いだすと、
それが自我に強い実存感を与えるため、「意識中心」の世界になる。
つまり、自意識過剰である。
「意識中心」の世界では、水を飲もうと「思う」から、その後コップに手を出すと考える発想である。
しかし、脳神経学の最先端では逆のことを示している。
水を飲もうと「思う」0.5秒前に、脳は既に動き出していると。
つまり、水を飲むという意識は、「無意識」である脳機能の後追いであると。
心理学でも、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」と言う。
「意識」中心の世界では逆に思えるが、本当にそれが常識なのだろうか。
「悲しい」と意識したから、そこから脳が命令し始め、自分から分離された「肉体」が動くという「心身二元」ではなく、
「泣く」という肉体やからだの動きが、「悲しい」という意識や感情を形づくっていくという発想が、人間を部分だけではなく全体で見ている発想であり、「心身一元」が本来なのではないかと思える。
■「感覚」=「違い」と「概念」=「同じ」を結ぶ「言葉」
「感覚」の世界は「違い」によって作られ、「概念」の世界は「同じ」によって作られる。
そこを結びつけているのが「言葉」であると。
僕が「ミカン」と言うとする。
僕も貴方も、「概念」として「同じ」ミカンを想像する。
しかし、目の前にあって触れる「感覚」の世界としての「ミカン」は全て「違う」。
そんな「同じ」と「違う」を結びつけるものが、「ミカン」という「言葉」であるということ。
科学とは、「違い」を表す「感覚」世界を基礎として、「同じ」世界を見なおす作業に過ぎない。
「天才」が時に「狂気」だと言われるのはそこにある。
「違う」世界の中で、「同じ」と最初に言い出す人だから。
「違う」世界の中で、「同じ」ものがあるからこそ、それは何百年も残る基本的な原理原則となる。
そう言う人にノーベル賞が与えられるはずである。
更に言えば、「違う」世界の中で、本当に「同じ」ものを見出す人は「本物」の人なのであり、
「違う」世界の中で、「同じ」ではないものを「同じ」と言って人を騙し煽動する人は「偽物」の人である。
■意識(秩序)と無意識(無秩序)は補完関係にある
意識とは秩序活動である。
意識と無意識は相互に補完関係にあり、
秩序と無秩序は相互に補完関係にある。
僕らは意識中心にものごとを発想しているが、実は僕らが寝ているとき、起きているときと同じ程度のエネルギーを脳は消費しているらしい。
それは何故か。
・・・・・・・・
意識があり、秩序活動があれば、エントロピーが増大する方向に動くはずである。
エントロピー (entropy)とは、物質や熱の拡散の程度を表すパラメーターのこと。
「乱雑さ」のようなものでしょうか。
熱力学では、どこかに秩序が生じるということは、どこかに無秩序が生じるということを示している。
例を挙げる。
部屋が乱雑に散らかっているとする。
部屋をゴミ掃除機できれいにする。
目の前は秩序ができてキレイになる。
その代り、ゴミ掃除機の中の世界は、何百倍ものゴミが溜まって無秩序が増大している。
そのゴミを捨てる。燃やす。
すると、ゴミの高級な分子は、炭酸ガスや水のような低級な分子へと変化し、その過程で熱を発することで周囲の空気の分子の無秩序運動を増大させる。
結果として、目の前のゴミはなくなって秩序ができたが、全世界の無秩序は増大した。
そうして、乱雑さ(エントロピー?)は増大したことになる。
例を挙げる。
意識を図書館とする。
朝になって「意識という名前の図書館」が開館時間を迎える。
お客さんが来て本を勝手に出して調べたり考えたりする。
本を出しっぱなしで帰ってしまう。
お客さんの頭の中は秩序ができるが、
図書館全体としては無秩序が増えた状態になっている。
書庫が空になって、机の上が本でいっぱいになると、
「意識という名前の図書館」は眠くなり閉館時間を迎える。
意識がなくなり無意識の夢の時間が訪れる。
すると、図書館の司書が本を本棚に片付け始める。
そうして本棚に本がおさまり、脳に秩序ができると、
朝になって「意識という名前の図書館」が開館時間を迎える。
つまり、閉館時間であるときも、脳は同じ程度のエネルギーを使って、無秩序を秩序化している。
無意識とは、そういう積極的な活動なのである。
そこには、意識中心で見ると見えなくなる大事な世界がある。
意識と無意識は相互に補完関係にある。
だから、人は眠らないといけない。
働きすぎて眠らないと、自分の意識は荒れてくる。
麻薬や覚せい剤を使うと、自分の意識も荒れてくる。
働きすぎの場合は十分に眠れば元に戻るが、覚せい剤や麻薬の場合は元に戻らない。
だからよくない。
法律で禁じられているからよくないとか、道徳的によくないという以前の問題である。
麻薬は、人間の「意識中心」社会が生んでしまった鬼っ子のようなものかもしれない。
■
ということで、上に書きなぐりましたが、
この本は意識中心で生きている僕を、
全然違うところに連れて行って、違う視点から世界を見せてくれた。
現代医学は、自意識過剰の世界である。
自意識過剰になると、力が強く声が大きい存在にとって都合がいいものとして、医療は提供されるようになり、医学が医学で閉じていく。
ひずみが来ているのは誰もが感じている。
でも、既に常識として僕らの血液や骨髄に浸透していて、
既に疑いすらしないところに原因があるから、
なかなか根本原因に気づけないでいるだけなのではなかろうか。
そして、根本療法を諦め、対症療法を繰り返している。
そのうちに、病巣は悪化しているように思える。
そんな意識が肥大した世界において、
「からだ」「肉体」の「心身一元」の観点から、
人間を再度見なおす時期に来ているのかもしれない。
そんな視点から、また少し考えてみたいと思います。
でも、自分の中で一つの完成形に至るまでは、あと10年くらいかかると思いますんで気長に待ってて下さい(笑)
すごく面白かった!新書だからスイスイ読めるしお薦め!
出会いや縁とは不思議なもんで、自分がいま考えているテーマにどんぴしゃりなことがたくさん書いてあって驚いた。
■「0」=「無」、「1」=「空」
この本に書かれている本流の内容も面白い。
言うなれば、「無思想」が日本独特の思想であり、それは数字の「ゼロ」の発見と同じようなものであり、そんな「無思想」という日本の思想を評価しなおしている本とでも言えましょうか。
それと関連して、仏教でいうところの「色即是空」の「空(クウ)」は、数はないが数字の一つと同じような意味と考えれば、それとゼロを表すす「無」によって、仏教は全ての世界を説明しているのではないかとの考察もある。
「0」としての「無」、「1」としての「空」。
これは、コンピュータの2進法の世界と同じなのかもしれない!
・・・・・・・・
きっと、この本はここが本流なのだろうけど、ほかのところでもかなり心に突き刺さることが多かった。
養老先生の文章と、自分の意見を織り交ぜながら、この「無思想の発見」養老孟司(ちくま新書、2005年)というすごく面白かった本から引用しつつ紹介していきたい。
■「意識」としての自分、「身体」としての自分
今は意識中心の社会である。
寝ているとき、自分で自分を認識できない。
デカルトが言った「我思う、ゆえに我あり」という言葉がある。
これは意識中心の発想である。
自分が寝ているときは、他人だけが確認できる「自分」がある。
それを人は「身体」と呼ぶ。
ここから、「意識」と「身体」が語られます。
・・・・・・・閑話休題・・・・・・・
ちなみに、「我思う、ゆえに我あり」という言葉として有名ですが、
元々は、デカルトが「方法序説」で、
『Je pense, donc je suis』 (フランス語)=「私は考える、ゆえに私はある」
というのが元にあって、それをデカルトと仲良かったメルセンヌ神父が
『cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム 』(ラテン語)ってラテン語に訳して、
それを日本語訳した「我思う、ゆえに我あり」って形で有名になったらしいですね。
「デカルト入門」 小林 道夫 (ちくま新書)にそう書いてあった。
・・・・・・・・復帰・・・・・・・・
■確固と存在しているわけではない「私」
日本語の一人称としての「私」は、あっちとこっちを、「わたし」と「あなた」を自由に行き来する。
日本語の「私」はそんな実態がないものである。
日本語の中で、「I」とも「You」とも使う言葉として、「ジブン」「手前(テメー)」「おのれ」「ぼくちゃん」など、多くの例がある。
その例から分るのは、日本において「自分という主体」が果たして本当にあるのだろうかということ。
「自分という主体」があると考えだしたのは、ここ数百年の「西欧近代的自我」に過ぎないのではないか。
誤解や混乱の原因は何か。
日本の世間では、「私」という言葉が二重の意味で使われている。
「自分」個人selfと、「公私の別」という意味での「私」privateという二重の意味で語られることが原因である。
そして、日本の世間での「私」の最小の「公的」な単位は、西洋のように「個人」ではなく、「家」であると。
僕らは、家にある「塀」によって、「私的空間」と世間に境界を引いている。
それは「村の論理」と同じようなものである。
そこに確固とした個人はない。
日本の江戸時代、「公私の別」におけるわきまえとして「襲名」という慣習があった。
襲名は、歌舞伎の世界だけではなく、商人にも同じ習慣があったようだ。
というのも、主人が代わると言うのは「私的空間」の出来事であって、
世間からすると単に迷惑なだけで何の関係もないことであると。
だからこそ、主人が同じ名前を名乗る「襲名」というものが自然に行われていた。
実は、現代でもこれは生きている。
現代での「名刺の肩書き」が同じ意味ではないか。
「名刺の肩書き」においては、自分が自分が・・という発想はない。
襲名と同じで、会社の人事が変われば、別の人が来るだけである。
そこに確固とした個人はない。
自分は自分で完結して、個人だけで閉じているわけではない。
世間に開いている存在である。
だから、世間が不安定化すれば、自分も不安定化する。
それを「不安」と呼ぶ。
そこに確固とした個人はない。
■「実存」「現実」と、「意識漬けの意識」
再度デカルトに戻る。
デカルトが言った「我思う、ゆえに我あり」では、
「意識」としての「私」である。
それは点に過ぎないけれど、
近代的自我論に毒されると、それが「私」の「実存」「現実」であると思うようになる。
しかし、「実存」や「現実」なんて人によって全然違うのである。
なんであれ、それを「現実」と思いこむにはどうすればいいか。
それは、しばらくの間、脳をその現実漬けにしておけばいい。
それを、「脳を洗う」と書いて「洗脳」と言う。
数学者は数学を現実と思うし、金融の人は金を現実と思うし、
愛に生きる人は愛が現実だと思う・・・・・
色んな例がある。
■心身一元 こころとからだは一つ
「意識としての自分」こそを「実存」と思い、「意識中心」に陥りやすいのは何故か。
それは、意識は絶えず「意識を意識している」という、「意識漬け」の状態にいるからであると!
だから、「意識が全ての現実であり実存である」と思ってしまうのは、至極当然の成り行きであると。
「西欧近代的自我」であるジョン・ロックは、
『人間知性論』の中でこう言う。
『たとえ指を切り落としても自己が減ることはない。なぜなら、肉体は自己ではないからだ。』
そこで養老先生はこう返す
『首を切り落としても自己は減らないのか?脳の一部を切り落としても自己は減らないのか?』
日本や東洋の哲学者は、「心身一元論」を説くものが多い。
養老先生もそう。僕もそう思う。
だから、肉体・からだは、「自分」の一部であり、切り離せないのではなかろうか。
■心身二元 こころとからだは別のもの
では、何故に西欧は「肉体」を自己から切り離す「心身二元論」になったのか。そこに境界をひくことにしたのか。
それは、キリスト教世界では、霊魂不滅と考えることに由来するのではないかと。
霊魂は身体ではない。
だから、海外は脳死臓器移植にも抵抗がないのかもしれない。
・・・・・・・・閑話休題・・・・・・・・・
この辺りは、脳死臓器移植法案が最近通ったばかりで、ホットなトピックでもあります。
2009/06/18に衆院本会議で「臓器移植法改正A案」が可決。「臓器移植法改正A案」は、(1)脳死を一律に人の死と見なす(2)本人が拒否していない限り家族(遺族)の同意で提供ができる(3)提供を15歳以上としていた現在の年齢制限を撤廃する というものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
キリスト教では、死後、最後の審判というものが待っていると考える。
(ミケランジェロが、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂に描いたフレスコ画が有名ですよね。)
「最後の審判」(Last Judgement)とは、キリスト教では世界の終わりにイエス・キリストが再臨し、あらゆる死者をよみがえらせて裁きを行い、永遠の生命を与えられる者と地獄へ墜ちる者とに分けるという。新約聖書のヨハネの黙示録に記述されている。
これはユダヤ教からキリスト教・イスラム教に引き継がれ、これら3つの宗教において重要な教義となり、死生観に大きな影響を与えている。
僕らは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の人がそういう死生観をもっていることを知った上で話を聞かないと、根本的なところで何を言っているのか理解できなくなってしまう。
最後の審判では霊魂が不滅であることが前提で、その霊魂が最後の審判を受ける。
だからこそ、「永遠に変わらないものとしての魂」がなければいけないし、「変わらない私」「自己同一性」という考えが出てくる。
西欧の「近代的自我」というものは、中世以来の「不滅の霊魂」を近代的・理性的に言い換えたものである。
ただ、日本は自然に満ち溢れていて、根本において「無常」であることを強く意識する。「変わらないもの」「永遠のもの」にあまり重きを置かない。これは、上で書いたものとは真逆からの発想である。
人間は老いていくと、肉体が動かなくなる。
西欧では、「同じ自分」「変わらない自分」という概念を保持するには、「身体」を勘定に入れるわけにはいかない!
だから、西欧では「自分」を「意識」中心に発想し、「肉体」を分離して考える。
そこで、るジョン・ロックが『人間知性論』で言うような発想に至っても不思議ではない。
■意識は「機能=はたらき」であり実存ではない
「意識」の特徴は「同じ」という「強い機能=はたらき」である。
寝て目が覚める。すると、「同じ自分」に戻ると「意識」する働きがある。
毎日目を覚ますたびに、「私は一体誰なんだろうか?」とは思わない。
常に、「同じ自分」に戻るのだ。
そうすると、「同じ自分」という無駄な表現を省き、「自分」と言うようになる。
「自分」の中に「(同じ)自分」という言葉が勝手に侵入してわけだ。
「意識」は実態ではなく、そういう「機能=はたらき」に過ぎない。
しかし、そこで「意識が実在する」と思いだすと、
それが自我に強い実存感を与えるため、「意識中心」の世界になる。
つまり、自意識過剰である。
「意識中心」の世界では、水を飲もうと「思う」から、その後コップに手を出すと考える発想である。
しかし、脳神経学の最先端では逆のことを示している。
水を飲もうと「思う」0.5秒前に、脳は既に動き出していると。
つまり、水を飲むという意識は、「無意識」である脳機能の後追いであると。
心理学でも、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」と言う。
「意識」中心の世界では逆に思えるが、本当にそれが常識なのだろうか。
「悲しい」と意識したから、そこから脳が命令し始め、自分から分離された「肉体」が動くという「心身二元」ではなく、
「泣く」という肉体やからだの動きが、「悲しい」という意識や感情を形づくっていくという発想が、人間を部分だけではなく全体で見ている発想であり、「心身一元」が本来なのではないかと思える。
■「感覚」=「違い」と「概念」=「同じ」を結ぶ「言葉」
「感覚」の世界は「違い」によって作られ、「概念」の世界は「同じ」によって作られる。
そこを結びつけているのが「言葉」であると。
僕が「ミカン」と言うとする。
僕も貴方も、「概念」として「同じ」ミカンを想像する。
しかし、目の前にあって触れる「感覚」の世界としての「ミカン」は全て「違う」。
そんな「同じ」と「違う」を結びつけるものが、「ミカン」という「言葉」であるということ。
科学とは、「違い」を表す「感覚」世界を基礎として、「同じ」世界を見なおす作業に過ぎない。
「天才」が時に「狂気」だと言われるのはそこにある。
「違う」世界の中で、「同じ」と最初に言い出す人だから。
「違う」世界の中で、「同じ」ものがあるからこそ、それは何百年も残る基本的な原理原則となる。
そう言う人にノーベル賞が与えられるはずである。
更に言えば、「違う」世界の中で、本当に「同じ」ものを見出す人は「本物」の人なのであり、
「違う」世界の中で、「同じ」ではないものを「同じ」と言って人を騙し煽動する人は「偽物」の人である。
■意識(秩序)と無意識(無秩序)は補完関係にある
意識とは秩序活動である。
意識と無意識は相互に補完関係にあり、
秩序と無秩序は相互に補完関係にある。
僕らは意識中心にものごとを発想しているが、実は僕らが寝ているとき、起きているときと同じ程度のエネルギーを脳は消費しているらしい。
それは何故か。
・・・・・・・・
意識があり、秩序活動があれば、エントロピーが増大する方向に動くはずである。
エントロピー (entropy)とは、物質や熱の拡散の程度を表すパラメーターのこと。
「乱雑さ」のようなものでしょうか。
熱力学では、どこかに秩序が生じるということは、どこかに無秩序が生じるということを示している。
例を挙げる。
部屋が乱雑に散らかっているとする。
部屋をゴミ掃除機できれいにする。
目の前は秩序ができてキレイになる。
その代り、ゴミ掃除機の中の世界は、何百倍ものゴミが溜まって無秩序が増大している。
そのゴミを捨てる。燃やす。
すると、ゴミの高級な分子は、炭酸ガスや水のような低級な分子へと変化し、その過程で熱を発することで周囲の空気の分子の無秩序運動を増大させる。
結果として、目の前のゴミはなくなって秩序ができたが、全世界の無秩序は増大した。
そうして、乱雑さ(エントロピー?)は増大したことになる。
例を挙げる。
意識を図書館とする。
朝になって「意識という名前の図書館」が開館時間を迎える。
お客さんが来て本を勝手に出して調べたり考えたりする。
本を出しっぱなしで帰ってしまう。
お客さんの頭の中は秩序ができるが、
図書館全体としては無秩序が増えた状態になっている。
書庫が空になって、机の上が本でいっぱいになると、
「意識という名前の図書館」は眠くなり閉館時間を迎える。
意識がなくなり無意識の夢の時間が訪れる。
すると、図書館の司書が本を本棚に片付け始める。
そうして本棚に本がおさまり、脳に秩序ができると、
朝になって「意識という名前の図書館」が開館時間を迎える。
つまり、閉館時間であるときも、脳は同じ程度のエネルギーを使って、無秩序を秩序化している。
無意識とは、そういう積極的な活動なのである。
そこには、意識中心で見ると見えなくなる大事な世界がある。
意識と無意識は相互に補完関係にある。
だから、人は眠らないといけない。
働きすぎて眠らないと、自分の意識は荒れてくる。
麻薬や覚せい剤を使うと、自分の意識も荒れてくる。
働きすぎの場合は十分に眠れば元に戻るが、覚せい剤や麻薬の場合は元に戻らない。
だからよくない。
法律で禁じられているからよくないとか、道徳的によくないという以前の問題である。
麻薬は、人間の「意識中心」社会が生んでしまった鬼っ子のようなものかもしれない。
■
ということで、上に書きなぐりましたが、
この本は意識中心で生きている僕を、
全然違うところに連れて行って、違う視点から世界を見せてくれた。
現代医学は、自意識過剰の世界である。
自意識過剰になると、力が強く声が大きい存在にとって都合がいいものとして、医療は提供されるようになり、医学が医学で閉じていく。
ひずみが来ているのは誰もが感じている。
でも、既に常識として僕らの血液や骨髄に浸透していて、
既に疑いすらしないところに原因があるから、
なかなか根本原因に気づけないでいるだけなのではなかろうか。
そして、根本療法を諦め、対症療法を繰り返している。
そのうちに、病巣は悪化しているように思える。
そんな意識が肥大した世界において、
「からだ」「肉体」の「心身一元」の観点から、
人間を再度見なおす時期に来ているのかもしれない。
そんな視点から、また少し考えてみたいと思います。
でも、自分の中で一つの完成形に至るまでは、あと10年くらいかかると思いますんで気長に待ってて下さい(笑)
自信をもっておススメできる。
私も読んだときは、何だかしらない
衝撃を受け、目から鱗がぱらぱらと落ちました。
そうそう、特に、ゼロの話しや、図書館の話しはものすごく分かりやすく、ストンと響いた。
もう一回読みなおそうと思っていましたが、このいなばさんの素晴らしいまとめで、かなり満足したかも。笑。
今の時代、新書は山ほど出版されてて、養老先生も何冊も出されているけれど、この本は、深さといい、重さといい、長さといい、ほどよい感じで、そこも好きなんですよね~。
それにしても、やっぱり養老先生はすごいなぁって思います。
同じ本で、頭にぴかっとランプがつくのって楽しいですね~。みなさまのおすすめの本もこれからどんどん読んでいきたいな。
◆la strada様
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いつもブログに遊びに行くと、右のとこに本が出てるから、
なんかサブリミナル効果的にいつも気になってたんですよねー。
お薦めしてもらいアリガトウ!すごく面白かった!
la stradaさんのブログの縁で、映画の「道(La Starada)(ブログと同名!)」とか中沢新一の「アースダイバー」もすごく面白かったし。
養老先生の本は、大学在学中に「唯脳論」は面白いなーって思ったけど、
バカ売れした「バカの壁」がイマイチだと思っちゃったんで、そのあとはなんとなく読んでなかったんですよね。
でも、風の旅人には連載されてて、相変わらず切り口面白いなーとは勿論思ってたのです。
この「無思想の発見」はかなりはまっちゃった!
最近「無」とか書いたばっかりだったし、なんか興味もドンピシャで。
養老先生の他の本「カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫) 」「考えるヒト (ちくまプリマーブックス) 」「からだの見方 (ちくま文庫) 」「日本人の身体観の歴史」「身体の文学史 (新潮文庫) 」とかを立て続けに読んでます。
養老先生って口述筆記?が多いのか、相当の本出てますよねー。量が多い多い!
青山ブックセンターでブラブラしてたら、「逆立ち日本論 (新潮選書)」養老 孟司 内田 樹
ってのもあったけど、買えばよかったかなー。
(内田先生はブログ読むと最近結婚されたみたいですよね!)
養老先生の本は話し言葉に近いから、なんか目の前で話しているのを聞いてる感じで読めてすいすい読めるよね。
特に、この本はなんか切れ味よくて面白かったなー。
でも、ブログに、エッセンスをまとめちゃいましたけど。笑
最近は30冊くらい同時読みしてるんで(笑)、なかなか一冊が読み終わらん!
・「芸術の体系 (光文社古典新訳文庫)」 アラン
・「文化人類学入門 (中公新書)」 祖父江 孝男
・「サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)」下條 信輔
・「神話の力」ジョーゼフ キャンベル(早川書房 (1992/07) )
とかはすごく面白かった。感想書く時間がなくて・・・。
なんかほかの本読んでてつながったら数冊同時に書評でも書くかもしれん。
「神話の力」ジョーゼフ キャンベルも、1992年のやつですごく面白いんだけど、
Amazonで探すと定価3,150円、中古でも2000円以上する。
神保町で400円で買ったからお買い得だったなー。
こういう小さなお買い得な幸せ感は、なんか得した気がするー。
すすすすごい。まさに無秩序の世界が。笑。
でも、それらがばばばと連関して自分のなかで秩序立つ瞬間というのは、爽快でしょうね。
どれも面白そうな本ですね~。
書評楽しみにしております。
私が好きな映画は、ちょっと不思議な感じのが多いので、全てを胸をはっておすすめはできないのですよね~。映画って本と違って、あんまり、途中でやめてまた明日・・・という見かたってできないから、時間も拘束されてしまうし。ボッサカフェでしおりをつけてて思ったけど、「おすすめ」と「お気に入り」って、微妙に違うのですよね。穴が広いか狭いかってことかなー。あとはその作品に特別の愛を感じるか。まぁ・・・とはいえ、愛を感じたものは、どんどんおすすめしていってもよいのかもしれない。笑。
映画は、やっぱり映画館で観るのがいいなぁとこのまえ思いました。
◆la strada様
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村上春樹の1Q84は、久しぶりに一気に読んだ本ですけど、
基本的にその辺に転がってる本にも同時に興味が湧いちゃうんで、
並列読みなんですよねー。ま、こう言う並列読みの方が多数派なんじゃないかと思いますし。
映画に関しては、今日マキさんやともこさんとも話したけど、
「見えないものを見る」のが映画の大事なとこなんじゃないかと。
映像表現なんで、「見える」ものに引きづられて、
画像から過剰に意味や意図を読み取って、
映像をつなげながら読み解こうとしてしまうけど、
本当は文章で言うところの「行間を読む」ってのが大事で、書かれてないとこを読み解くような。
映画で言うと、「見えないものを見る」ような、その映像表現の根底にある思想や哲学や場の空気みたいなもの。
そんなのを見ようとしないと、映画ってつまらんのかもしれんですね。
映画は、確かに映画館みたいな閉鎖空間で見る方が断然いいですよね!
あの雰囲気や、もうその場から逃げられなかったりする方が断然いいなーって思います。