自分という存在のルーツ。
それは赤ちゃんのころ。こどものころ。
自分を構成した周囲や環境。
ひとであれば親や家族。友人。
土地であれば熊本。九州。日本。地球。
自分は、ひと、人間。霊長類。ほ乳類。せきつい動物。多細胞生物。いのち。
自然やコスモスの流れ。
それぞれにルーツがあり、ルーツを手繰り寄せながら、源流へ源流へ、たどっていく。
ひとは、いきなり何も知らずこの世に生まれてきた。唐突にこの世に放り込まれた。
見よう見まねでこの社会のことを学ぶが、それは仮に学習されたもの。全てにおいて、かなりの勘違いを含んでいるものだ。
くに?おかね?しゃかい?じょうしき?るーる?
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外にある制度や常識や価値観もそうだが、中にある自分が持つ感情や情緒でさえ、学習された仮のものだ。
外だけではなくて中にも仮に作られたものはたくさんある。
人間は二足歩行になったことで、後ろに倒れたくない、という根源的な不安を抱えることになった。
眼も顔も手も前向きについている。
だから、どうしても人間は肉体的な本能と構造で、前のめりな人生になる。後ろや下を振り返ることをついついと忘れがちになる。
からだの構造的な問題は、こころの構造的な問題として転写される。
人生の前半は、前や上を見て生きていく時期だ。若い、というのはそういうことだ。
ただ、いのち生き長らせてもらう幸運に巡り合い、人生の後半へと突入する切符を得たのなら、
人生の後半は、自分のルーツをたどり、根っこや土台を固める時期へと、勇気を持って進路変更する必要がある。
生だけではなく、そこに死も定位させることで、生と死のバランスをとる。
それは、ひとがどうやって、こどもからおとなになるか、ということであったり、
そもそも、ひと、とはどういう存在であるか、ということであったり。
古代のひとは、どういう風に生きていたのか、ということだったり、
にんげんや日本や自然や地球の来歴を知ることだったりする。
そうした全体性を取り戻すプロセスは、ひとをゆたかにすると思う。
自分が捉えている医療は、そうした大きな意味で、からだや、こころや、たましいや、いのちの全体性に取り組むことだ。
自分の中に、境界や線引きや場合分けやセクショナリズムや差別や上下左右はない。元々、なかった。
ルーツに立ち戻り、共通部分にまで立ち戻り、そこを土台として発想したい。どんな異なるものでも、必ず同じものを共有しているはずだから。
そういう意味で、からだやこころやいのちは共通言語であり、自分はそこから物事に取り組んでいるつもりだ。
上に積み上げて広い視野で風景や景色を見る必要があるのならば、同じ程度に根っこが深くある必要がある。
あらゆるルーツと強く絆を結べば、たいていのことには動じず、ぶれなくなる。
存在が、深い場所で支えられていることを実感できる。
ルーツを求める旅は、自分が立っている今この下を深く掘り続けることであり、自分の内なる鉱脈を掘り進めることである。
そのプロセスは外からはわかりにくいが、自分の中の分裂してしまった部分化してしまった内側を統合させるプロセスとして進行している。
それはつらかったり、かなしかったり、いたかったりするかもしれない。
ただ、その内的な運動は、自分を支える土台となり、支柱となり、深層に咲く花として顕在化するだろう。
過去の自分はそうして死を迎えて丁重に葬られて悼まれている。
死を迎えた過去の幾千幾万の自分の上に、新しい自分は花咲き続けているのだろう。
自分の中でも、死と生とがつながって、有機的に支え合いながら存在しているのがいい塩梅だ。
死や葬の本を読みながらぼんやりと考えていたら、ふとそういうことを思ったので、とりあえず書き記してみた。
それは赤ちゃんのころ。こどものころ。
自分を構成した周囲や環境。
ひとであれば親や家族。友人。
土地であれば熊本。九州。日本。地球。
自分は、ひと、人間。霊長類。ほ乳類。せきつい動物。多細胞生物。いのち。
自然やコスモスの流れ。
それぞれにルーツがあり、ルーツを手繰り寄せながら、源流へ源流へ、たどっていく。
ひとは、いきなり何も知らずこの世に生まれてきた。唐突にこの世に放り込まれた。
見よう見まねでこの社会のことを学ぶが、それは仮に学習されたもの。全てにおいて、かなりの勘違いを含んでいるものだ。
くに?おかね?しゃかい?じょうしき?るーる?
????
外にある制度や常識や価値観もそうだが、中にある自分が持つ感情や情緒でさえ、学習された仮のものだ。
外だけではなくて中にも仮に作られたものはたくさんある。
人間は二足歩行になったことで、後ろに倒れたくない、という根源的な不安を抱えることになった。
眼も顔も手も前向きについている。
だから、どうしても人間は肉体的な本能と構造で、前のめりな人生になる。後ろや下を振り返ることをついついと忘れがちになる。
からだの構造的な問題は、こころの構造的な問題として転写される。
人生の前半は、前や上を見て生きていく時期だ。若い、というのはそういうことだ。
ただ、いのち生き長らせてもらう幸運に巡り合い、人生の後半へと突入する切符を得たのなら、
人生の後半は、自分のルーツをたどり、根っこや土台を固める時期へと、勇気を持って進路変更する必要がある。
生だけではなく、そこに死も定位させることで、生と死のバランスをとる。
それは、ひとがどうやって、こどもからおとなになるか、ということであったり、
そもそも、ひと、とはどういう存在であるか、ということであったり。
古代のひとは、どういう風に生きていたのか、ということだったり、
にんげんや日本や自然や地球の来歴を知ることだったりする。
そうした全体性を取り戻すプロセスは、ひとをゆたかにすると思う。
自分が捉えている医療は、そうした大きな意味で、からだや、こころや、たましいや、いのちの全体性に取り組むことだ。
自分の中に、境界や線引きや場合分けやセクショナリズムや差別や上下左右はない。元々、なかった。
ルーツに立ち戻り、共通部分にまで立ち戻り、そこを土台として発想したい。どんな異なるものでも、必ず同じものを共有しているはずだから。
そういう意味で、からだやこころやいのちは共通言語であり、自分はそこから物事に取り組んでいるつもりだ。
上に積み上げて広い視野で風景や景色を見る必要があるのならば、同じ程度に根っこが深くある必要がある。
あらゆるルーツと強く絆を結べば、たいていのことには動じず、ぶれなくなる。
存在が、深い場所で支えられていることを実感できる。
ルーツを求める旅は、自分が立っている今この下を深く掘り続けることであり、自分の内なる鉱脈を掘り進めることである。
そのプロセスは外からはわかりにくいが、自分の中の分裂してしまった部分化してしまった内側を統合させるプロセスとして進行している。
それはつらかったり、かなしかったり、いたかったりするかもしれない。
ただ、その内的な運動は、自分を支える土台となり、支柱となり、深層に咲く花として顕在化するだろう。
過去の自分はそうして死を迎えて丁重に葬られて悼まれている。
死を迎えた過去の幾千幾万の自分の上に、新しい自分は花咲き続けているのだろう。
自分の中でも、死と生とがつながって、有機的に支え合いながら存在しているのがいい塩梅だ。
死や葬の本を読みながらぼんやりと考えていたら、ふとそういうことを思ったので、とりあえず書き記してみた。