日常

一条真也、島田裕巳「葬式に迷う日本人」

2016-11-25 19:27:06 | 
一条真也さんと島田裕巳さんの対談本「葬式に迷う日本人」 三五館 (2016/10/22)を読みました。
色々と知らないこともあり、とても勉強になりました。

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<内容紹介>
――葬式は要るのか? 要らないのか?――
『葬式は、要らない』『0葬』などで知られる「不要論」の代表格、宗教学者の島田裕巳と、『葬式は必要! 』『永遠葬』の著者であり、みずからも冠婚葬祭業を営む、「絶対必要論者」一条真也が、最初で最後の直接対決!
4通の往復書簡&150分の緊迫対談からみえてきた、新しい葬儀のカタチとは?
迷い続ける日本人に送る、最期の儀式を考えるヒント。



要らない! (by島田裕巳)
1派手な葬儀&高額な戒名……仏式葬儀は見栄と欲望
2核家族化のいま、都会でも地方でもニーズは「簡素化」
3提言する「0葬」は不安な時代を生き抜くためでもある

必要! (by一条真也)
1時代の変化に応じて葬儀もアップデート……葬儀の歴史は永遠に続く
2葬式仏教の本質は、日本における最大のグリーフケア・システム
3葬儀は人類の存在基盤であり、儀式を行なうのは人間の本能
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日本最古の医学書である医心方の勉強会をしていますが、〈巻22〉胎教出産篇、〈巻23〉産科治療・儀礼篇を、現代語訳した槇佐知子と共に学んでいます。


医心方(平安時代の医療の総合)を読んでいると、生命がうまれる神聖な営みである「出産」の全体像をどう捉えて受け止めて対応していたのか、、、、平安と平成との比較として色々感じるものがありました。
今は出産を病院でする時代になっていますが、出産自体は別に病気ではなく人類が人類として存続してきた根源的な体験です。「産屋」ではなく「病院」で産む現実。

古事記にも記載がありますが、明治期までは一人一人に産屋を立てて出産し、産後にそれを壊す、ということをやっていたようです。
出産という命が生まれる瞬間のためだけに、一つの家が建っていた。

・・・・
生の現場と同じように、死の現場も時代と共に変わってきています。
老いや死も自然のプロセスの一つですが、多くの人が病院で息を引き取る現実。病院はあくまでも「病」の「院」ではないのだろうか。

こうした生と死の現場が、歴史や時代と共に大きく変遷してきたことと、現代医療が抱える問題点とは何か関係があると思います。


今回の対談者である一条さんも島田さんも、<現代の死の現場>に問題を感じているという点で興味関心は一致しています。
ただ、その対応や解決先が違うだけなのです。共有している問題は同じ。
そうした共通の土台を同じにできるからこそ、冠婚葬祭を営む一条さん(佐久間さん)と、宗教学者である島田さんとの対談が成立したのでした。

対話か、ただの井戸端話に終わるかは、同じ問いを共有しているか、ということに尽きると思います。
表面上の相違点ではなく、底に流れる共通点に気づけるか、という点にあると思います。

多くの議論は、そうした対話の土俵に立つことすらなく、つむじ風のように終わることがあり残念に思います。

本書のように入り口が同じで出口(結論)がまったく異なる異色の対話は極めて貴重なものだと思いました。






島田さんの文章と一条さんの文章が往復書簡という形で交互に並び、その後に対話、という構成になっています。
島田さんの発言の中で、自分は初めて知ることもあり、勉強になりました。
(島田さんの著作をまだちゃんと読んだことがない、という点もあるかもしれません。その代わり、一条さんの本はほぼ全著作読んでいますので・・・)


まず、仏教での葬式における「追善」という概念。
追善とは、死者のために善を追加し、そのことで極楽往生が果たせるようにする、という考えによっているようです。


過去、人生50年と、今より寿命が短い時代の中で、若くして亡くなってしまった人たちも多かったでしょう。
そうした時代のために「追善」という考え方が必要になったようです。
しかも、追善は仏教ではなく儒教から来ているらしい・・・。
(ちなみに、位牌も確か儒教から来ているものです)
日本は様々な信仰が習合した独自の信仰形態をもっています。


他にも布施や喜捨、寄進というものがあります。
これは集落における富の再分配にもつながっていたシステムでした。
当時はそれぞれの家がお寺の「檀家」という形で特定のお寺と強い関係性で結ばれていました。
現代では家族も共同体も檀家制度も壊れてしまい、そもそもこうした過去の習慣は成立しえないのではないかと書かれていたのです。



島田さんは宗教学を柳川啓一先生から学ばれました。


柳川先生の宗教学の学生向けの講義は、冒頭から「Initiation(通過儀礼)」をテーマに講義が行われたようです。
「Initiation(通過儀礼)」とは、大人になるための成人式など、ある「試練」を伴う共同体の儀式のこと。共同体の中で「Initiation(通過儀礼)」を通過したものだけが、成人と認められたりしました。
現代の成人式は、単に晴れ着を着る機会だけになっています。儀式の本質をなすInitiation(通過儀礼)が失われ形骸化したものになっていると警鐘をならしていました。


また、島田さんが学生時代に土葬を続けている村に調査に行った体験が語られたのも興味深かったです。
今は99.9%は火葬で行われていますが、以前は土葬でした。ご遺体は土に葬ったのです。だからこそ、あの世は地下の世界に通じる、という他界観も生まれるのは自然なことでしょう。
また、当時の土葬では村の共同墓地に埋葬されましたので、「個人の墓」はそもそも必要なかったようなのです。


個人や家が墓を購入する必要が出てきたのは火葬の影響です。
火葬で遺骨が生じますが、その遺骨も法律があり許可を得た墓地以外では埋葬できません。
そうした火葬、遺骨、法律の制度があり、それぞれが「個人の墓」をもつ必要が生まれたようなのです。
だからこそ、墓が個人化していく現状は、現代の事情にあっているのだろうか、と書かれていました。


地方では先祖供養が大切にされ、家の仏壇での仏間での先祖供養が極めて重要でした。
仏間は引退したお年寄りが住む場所でもあり、お年寄りは先祖供養を続けながら余生を送ったのです。

今は核家族となり、仏壇や仏間がない家も多くなり、お年寄りも役割を失いました。
そうした家族のあり方や共同体、社会のあり方が変質してきたことが、お葬式も変化して行く必要があるというのが、島田さんの主張だと思います。


そして、仏教式のお葬式にこだわる必要はなく(実際に地方のお寺はどんどん数が少なくなっている)、もっと自由なお葬式があってもいいのではないかという考えにつながります。
その極端な形の提案が、島田さんの提唱する「ゼロ葬」というあり方で、火葬だけを行う葬儀のことを指しているようです。

以前の日本は、家の永続性を願っていました。
それこそが共同体の論理の中心でした。
今は「家」というまとまり自体が崩壊しています。

一定の時間が過ぎると崩壊してしまうものだからこそ、墓は無縁化してしまいます。
そもそも、個人の墓を設けること自体が意味がなくなるというのは、それはそれで一理あると思った。
ただ、共同体を失った現代だからこそ、どのように共同体や社会が死を受け止めていくか、ということが重要でしょう。
それを冠婚葬祭の専門家にお任せして終わり、ということではなく、何かそれぞれが自分の問題として受け止めていく形が必要なのかもしれないと思いました。

儀礼の本質にある死者を悼むこと。
本質が失われてしまい、形だけが残っていたのでは意味がない、という問題提起だと思いました。





一条さんは、冠婚葬祭を営む立場であるからこそ、現代の死の現場の問題点は理解しつつも、だからこそ葬儀や儀式の重要性を説きます。
著作の中でも何度も繰り返されているテーマです。
それは送られる人のためでもあり、送るための人のためでもあります。

E.A.グロルマン(アメリカのぐりーふカウンセラー)の言葉を一条さんがアレンジした文章は、一条真也さんの名著「愛する人を亡くした人へ」にも書かれていた名言。

 親を亡くした人は、過去を失う。
 配偶者を亡くした人は、現在を失う。
 子を亡くした人は、未来を失う。
 恋人・友人・知人を亡くした人は、自分の一部を失う。



こうした喪失感の中でも、人は生きていかねばならず、そこにある種の形を与え、心の安定性を実現するのが葬儀を含めた儀式や儀礼の本質なのだと書かれています。
大著「唯葬論」の中でも何度も書かれていた主題で、このことはとても大切なこと。
実際に自分が当事者になると、何がなんだかわからない放心状態となってしまう。心が乱れるのはしょうがないことだ。そこに儀式を含めた具体的な行動が伴わないと、心はなかなか安定しないものです。頭と体、いのちとのバランスをとるために、儀式は生まれたのでしょう。生者が死を受け取る、というのは大変なことなのです。


宗教は死の問題から始まります。
死という不可解で受け入れがたい現象を、人はなんとか心の中に受け入れようとしました。
ある時にはそれは哲学となり、ある時には宗教や芸術になっていきました。

死を扱うにはそのままでは扱えません。
だからこそ人間は儀式を生み、その本質を世代を超えて伝えようとしたのです。


儀式の中核にあるのは「礼」という思想。
古代の「礼」には3つの性格がありました。
1.神霊と交信するツール
2.人間関係を良好にする潤滑油
3.自他を変容させる通過儀礼

こうした歴史的流れの中で人類は儀式を必要とし、死に対する儀式は生まれたのでしょう。
ただ、今はその本質が失われようとしている。その危機感は一条さんも同じ思いだと思います。歴史と分断されると、人はつながりを失い、宙ぶらりんになるのです。


形だけで中身がない儀式になると、死は観念的なものになりすぎます。生理的で身体的な感覚が失われると、何か空虚でバーチャルなものになります。
今は世界全体がバーチャル化していますので、元々現実感が薄くなり、死に関しても現実として受け止めづらくなってきているのかもしれません。
その時のバーチャルリアリティーは、逃げ場(シェルター)としてのみ働いてしまうのだと思います。

だからこそ、一条さんは専門のお仕事の中で、死というものを生の中に定位できるような様々な儀式を提案され続けているのだと思います。
時代は常に変化しますから、奥底に変わらないものを保ちながら、表面上では変わり続けてしまうのはしょうがないことです。





島田さんと一条さんが抱える問題点は同じだと思いました。
ただ、その解決を図る手段として、二人の方向は大きく別の方向を向いています。
だからこそ、一人一人が自分のこととして死のことをもう一度考え直す時代に来ているのだとも思いました。
安易に答えを求めるのではなくて、自分なりに考えてみること。


今までは共通の神話や物語が強く存在していましたが、表面上は、そのつながりが失われてしまいました。
ただ、人はそうした強い根っこがないと、ちょっとしたことで大きく揺らいでしまう存在です。
私たちの存在を強く支えて基礎づけるものは、先人たちが死に対してどのように語り、どのように対応してきたのか、、、その総体だと思います。
歴史や文化を受け継ぎながら、現代ならではの形を創造し続けることが求められていると思います。



一条さんも島田さんも、ご自身の人生体験全てを込めて言葉を発しているようなすごみがありました。
死の問題は、あくまでも人任せにするものではなく、自分自身の中で受け止め、発酵させていき、自分の言葉で語るべきもの。


死というものを今一度自分の頭で考え直すために、とてもいい機会を頂ける本でした。
生や死に関することを、歴史的な視点でもっと知りたいし、もっと自分なりの考えを深めていきたいと思わせてくれる本でした。
「当たり前」と勝手に思い込んでいることも、実は不確かなことばかり。
だからこそ読書は楽しい。日々、自分が生まれ変わるようなものです。



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次は、一条さんの渾身の大著「儀式論」弘文堂(600ページ!)を読み始めているところです。



<参考>
一条真也「唯葬論」(前編)(2015-08-07)
一条真也「唯葬論」(後編)(2015-08-14)




**追記**
一条さんが、この感想を、他の方とまとめてブログにご紹介いただきました。
その速さにも驚いた!!(^^;
2016-11-25『葬式に迷う日本人』に反響続々!