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先週の土日の週末。
一泊二日の強行軍で、長野県上高地から徒歩6-7時間にある山岳診療所の手伝いに行ってきました。
20歳くらいから行っているので、もう17年目になります。
→<参考>
●2015年 涸沢(2015-08-15)
●2014年 涸沢 奥穂高 北穂高
●2013年涸沢
●2012年涸沢
●2011年度涸沢登山
●2010年度涸沢登山
●山から都市へ(2009-07-22)
○2015年 涸沢(2015-08-15)
の記事でも書きましたが、自分は「山」や「自然」への恩返しのつもりで、山岳診療所を手伝っています。
自分を育て、育んでくれたと思うから、思うだけではなく行動で示したい、と思いました。
親への恩返しも、やはり頭でモヤモヤ考えているより、実際に具体的に照れずにかっこつけずに素直にやってしまった方が気持ちいい。
自然は広い意味での親でもありますので、自分の趣味と実益を兼ねて、どんなに忙しくとも、山岳診療所への恩返しはしたいと思うのです。
自然はやはりいいです。
ここに来ると学生の時の初心に戻ります。
「初心」に戻る場所は、大切です。
人間はフラリフラリと容易に変わりますが、山や自然は何万年も変わらずそこにあります。
そういう不動の存在は、深層心理的にもいい作用を及ぼすような気がします。
山も植物も、、、人類の営みを静かに見つめながら何を感じているのかなぁ、、と、耳を澄ます貴重な時間になります。
自然の声に耳を傾けるとき、自分の耳は、相手だけではなく、自分の内面にも開かれてなくてはいけない。
ふと、そう思いました。
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・・・・・・・・
自分は、山に行くと、常に水のことを思います。
それは子供のころから考えていること。子どもは、自分にとっての「初心」の塊です。
自分は自分のこども時代を思い出しながら、感受性の初心を思い出すようにしています。
人間や生命は水によって生きている。
そういう子供でも知っていることを、山の中では身体感覚として強く自覚させてくれます。
水はこんなにも美味しい。
体の細胞の一つ一つに一瞬一瞬染み込み続けている。
改めて山の中で体験として学びます。思い出す、と言う方が適切かもしれません。
「水」という存在の重要性は、様々な場で語られていますが、そのことを「あたま」の情報としてではなく、「からだ」の体験として深く浸透させるために、自分は山に登り、登らされているのかもしれません。
■
老子『道徳経 8章』
「上善は水の若(ごと)し。
水は善(よ)く万物を利して争わず、
衆人の悪(にく)む所に処(お)る、
故に道に幾(ちか)し。」
(最上の善なるあり方は水のようなものだ。
水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、
誰もがみなイヤだと思う低いところに落ち着く。
だから道に近いのだ。)
■
貴船神社 神水 説明書き
一.自ら活動して他を動かしむるは水なり
二.常に自ら進路を求めて止まらざるは水なり
三.自ら清くして他の汚水を洗い
清濁併せ容るるの量あるは水なり
四.障害に遭い激しくその勢力を百倍するは水なり
五.洋々として大洋を充たし、
発して蒸気となり雲となり雪と変し
霰と化し凝っては玲ろうたる鏡となる
而もその性を失わざるは水なり
・・・・・・・
以前、出羽三山で山伏をされている星野文紘先達との対談をさせていただきました。
「山と祈り」というテーマでした。
山を愛する世代の違う二人の対話では、やはり「水」や「いのち」や「魂」の話になったのです。
山という場所(トポス)には、何か根源的なものを喚起させる力があります。
星野先達から出てくる言葉は、他の誰でもなく、すべてご自身の中から紡ぎ出される言葉でした。
ありのままのストレートな言葉は、本当に魂の奥深くに響き、共鳴を起こすのです。
こどものとき、大人に対して「この人は嘘ばっかり言ってるなぁ」と感じていたのは、自分の言葉で話していない大人たちでした。
そして、そういう大人になりたくないな、と思ったものでした。
正しいとか正しくないとかではなく。
自分の感受性で、自分の言葉で話しているかどうか。
そのことを大人に問い詰めていたのだと、今になって改めて思います。
そういうことに、子どもは敏感です。
感受性は比較できないもの。
誰にも奪われないもの。
子どもの感受性を忘れたら、自分の土台がなくなってしまう・・・。
→○比べることはできない(2016-01-27)
→○あなた自身のコトバで(2016-01-17)
■
===================
茨木のり子「自分の感受性くらい」
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
===================
・・・・・・・・
明神池は穂高神社の奥宮で、上高地から診療所へと向かう道のりの途中に、上高地から徒歩1時間の場所に鎮座しています。
診療所にいく途中で必ず横を通過するのが明神池です。
上高地は、以前は<神降地(かみこうち)>という名前だったらしいのです。そういう雰囲気は身体感覚でも感じます。
神聖な土地や場所を敬う。そうした人間にとって大いなる存在を「カミ」と呼んで畏れ敬う感受性は、素朴で自然な感性だと思います。
明神池で水面をボンヤリ眺めていた時に、水の多面的な側面の一つを示す写真が撮れました。
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「水」を記憶の糸口として、別の土地もふと思い出しました。
上高地と同じ長野県で、長野県の上田市にある「鞍が淵」という場所です。「小泉小太郎伝説」がある不思議な土地で、大蛇が赤子を生んだとされるのが「鞍が淵」です。
そこにも美しい水があり、その水を無心で見つめていたとき、写真に撮りました。
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水はまるで生きているよう。
常に集まって離れている。極小の分子としても極大の集合体としても存在している。
個であり全である。
気体でもあり液体でもあり固体でもある。それらの状態の変化すべてを一体として存在している。
そら、てん、あめ、かわ、うみ、いのち、、、、を一体として「水」はある。
水は、生命そのものなのか、果たして生命の媒体となるものなのか、、、。
子供のころから考えていますが、答えはまだ出ません。
そういうことを考えて、夜眠れなかった子どもの時の記憶があります。
問いは問いとしてあり続けることが、重要なのでしょう。
安易に答えを簡単に出さず、謎として問い続けること。
そのことが、子どもの感受性を保ち続けることともつながっているような気がします。
・・・・・・・
山の中を7時間くらい一人で歩いていると、時間がたっぷりあるので、こんなことを徒然と考えたりしながら歩いています。
一泊二日の強行軍で、長野県上高地から徒歩6-7時間にある山岳診療所の手伝いに行ってきました。
20歳くらいから行っているので、もう17年目になります。
→<参考>
●2015年 涸沢(2015-08-15)
●2014年 涸沢 奥穂高 北穂高
●2013年涸沢
●2012年涸沢
●2011年度涸沢登山
●2010年度涸沢登山
●山から都市へ(2009-07-22)
○2015年 涸沢(2015-08-15)
の記事でも書きましたが、自分は「山」や「自然」への恩返しのつもりで、山岳診療所を手伝っています。
自分を育て、育んでくれたと思うから、思うだけではなく行動で示したい、と思いました。
親への恩返しも、やはり頭でモヤモヤ考えているより、実際に具体的に照れずにかっこつけずに素直にやってしまった方が気持ちいい。
自然は広い意味での親でもありますので、自分の趣味と実益を兼ねて、どんなに忙しくとも、山岳診療所への恩返しはしたいと思うのです。
自然はやはりいいです。
ここに来ると学生の時の初心に戻ります。
「初心」に戻る場所は、大切です。
人間はフラリフラリと容易に変わりますが、山や自然は何万年も変わらずそこにあります。
そういう不動の存在は、深層心理的にもいい作用を及ぼすような気がします。
山も植物も、、、人類の営みを静かに見つめながら何を感じているのかなぁ、、と、耳を澄ます貴重な時間になります。
自然の声に耳を傾けるとき、自分の耳は、相手だけではなく、自分の内面にも開かれてなくてはいけない。
ふと、そう思いました。
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・・・・・・・・
自分は、山に行くと、常に水のことを思います。
それは子供のころから考えていること。子どもは、自分にとっての「初心」の塊です。
自分は自分のこども時代を思い出しながら、感受性の初心を思い出すようにしています。
人間や生命は水によって生きている。
そういう子供でも知っていることを、山の中では身体感覚として強く自覚させてくれます。
水はこんなにも美味しい。
体の細胞の一つ一つに一瞬一瞬染み込み続けている。
改めて山の中で体験として学びます。思い出す、と言う方が適切かもしれません。
「水」という存在の重要性は、様々な場で語られていますが、そのことを「あたま」の情報としてではなく、「からだ」の体験として深く浸透させるために、自分は山に登り、登らされているのかもしれません。
■
老子『道徳経 8章』
「上善は水の若(ごと)し。
水は善(よ)く万物を利して争わず、
衆人の悪(にく)む所に処(お)る、
故に道に幾(ちか)し。」
(最上の善なるあり方は水のようなものだ。
水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、
誰もがみなイヤだと思う低いところに落ち着く。
だから道に近いのだ。)
■
貴船神社 神水 説明書き
一.自ら活動して他を動かしむるは水なり
二.常に自ら進路を求めて止まらざるは水なり
三.自ら清くして他の汚水を洗い
清濁併せ容るるの量あるは水なり
四.障害に遭い激しくその勢力を百倍するは水なり
五.洋々として大洋を充たし、
発して蒸気となり雲となり雪と変し
霰と化し凝っては玲ろうたる鏡となる
而もその性を失わざるは水なり
・・・・・・・
以前、出羽三山で山伏をされている星野文紘先達との対談をさせていただきました。
「山と祈り」というテーマでした。
山を愛する世代の違う二人の対話では、やはり「水」や「いのち」や「魂」の話になったのです。
山という場所(トポス)には、何か根源的なものを喚起させる力があります。
星野先達から出てくる言葉は、他の誰でもなく、すべてご自身の中から紡ぎ出される言葉でした。
ありのままのストレートな言葉は、本当に魂の奥深くに響き、共鳴を起こすのです。
こどものとき、大人に対して「この人は嘘ばっかり言ってるなぁ」と感じていたのは、自分の言葉で話していない大人たちでした。
そして、そういう大人になりたくないな、と思ったものでした。
正しいとか正しくないとかではなく。
自分の感受性で、自分の言葉で話しているかどうか。
そのことを大人に問い詰めていたのだと、今になって改めて思います。
そういうことに、子どもは敏感です。
感受性は比較できないもの。
誰にも奪われないもの。
子どもの感受性を忘れたら、自分の土台がなくなってしまう・・・。
→○比べることはできない(2016-01-27)
→○あなた自身のコトバで(2016-01-17)
■
===================
茨木のり子「自分の感受性くらい」
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
===================
・・・・・・・・
明神池は穂高神社の奥宮で、上高地から診療所へと向かう道のりの途中に、上高地から徒歩1時間の場所に鎮座しています。
診療所にいく途中で必ず横を通過するのが明神池です。
上高地は、以前は<神降地(かみこうち)>という名前だったらしいのです。そういう雰囲気は身体感覚でも感じます。
神聖な土地や場所を敬う。そうした人間にとって大いなる存在を「カミ」と呼んで畏れ敬う感受性は、素朴で自然な感性だと思います。
明神池で水面をボンヤリ眺めていた時に、水の多面的な側面の一つを示す写真が撮れました。
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「水」を記憶の糸口として、別の土地もふと思い出しました。
上高地と同じ長野県で、長野県の上田市にある「鞍が淵」という場所です。「小泉小太郎伝説」がある不思議な土地で、大蛇が赤子を生んだとされるのが「鞍が淵」です。
そこにも美しい水があり、その水を無心で見つめていたとき、写真に撮りました。
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水はまるで生きているよう。
常に集まって離れている。極小の分子としても極大の集合体としても存在している。
個であり全である。
気体でもあり液体でもあり固体でもある。それらの状態の変化すべてを一体として存在している。
そら、てん、あめ、かわ、うみ、いのち、、、、を一体として「水」はある。
水は、生命そのものなのか、果たして生命の媒体となるものなのか、、、。
子供のころから考えていますが、答えはまだ出ません。
そういうことを考えて、夜眠れなかった子どもの時の記憶があります。
問いは問いとしてあり続けることが、重要なのでしょう。
安易に答えを簡単に出さず、謎として問い続けること。
そのことが、子どもの感受性を保ち続けることともつながっているような気がします。
・・・・・・・
山の中を7時間くらい一人で歩いていると、時間がたっぷりあるので、こんなことを徒然と考えたりしながら歩いています。