■
主語と述語というものがある。
わたしは歩く。
わたしは書く。
わたしはあなたと出会う。
・・・・
ものごとのズレの中で、主語と述語の取り違えから起きるものもあるのではないかと、ふと思う。
「自分が・・、私が・・・」という風に、自分や人間を主語にして考える限り、言語体系そのものに考える内容が縛られる。
自分を主語にすることで自分を中心に考え、人間を主語にすることで人間を中心に考える。
そうすると、その射程距離に入るものしか考えなくなる。
それが続くと、考えていないものは存在すらしていないと思うようになる。
でも、この世界には、自分がベーリング海峡のことを考えなくても、冥王星の軌道の事を考えなくても、マリアナ海溝の水深のことを考えなくても、それはそこに存在しているものだ。
■
ひとの考えは、言語や言語体系に(よくもわるくも)影響されてしまうものだ。
きれいな言葉を使うこと、汚い言葉を使うこと、そのことが自分の考えに及ぼす影響も、同じようなものだ。
「自分が仕事を選ぶ」と、「仕事が自分を選ぶ」
「自分が人生をつくる」と、「人生が自分をつくる」
「自分が時や運命を選ぶ」と、「時や運命が自分を選ぶ」
・・・
主語と述語を入れ替えて考えてみるだけで、始点(視点)が変わるから、考えもかわる。
いかに言語そのもので、考えることが日々影響を受けているかを感じる。
だから、時々主語と述語を入れ替えて考えてみたり、受け身形に変えてみて、考えてみる事にしている。
そうすると、世界がパッとひらけることがある。
「自分が、自分の好きな仕事をする。」でもいいのだけど、時には
「仕事が、自分を好きになる。」
「仕事が、自分を通して生きている。」
「仕事によって、自分が好かれる。」
「仕事は、仕事をする」
・・・
表現方法を変えたり、主語や述語を入れ替えたり、少しずらしたりするだけで、思考の幅は広がっていく。
自分は自分の人生を生きている。
それは同時に、いのちが自分を生き、他者が自分を生き、時が自分を生き、運命が自分を生き、・・・
結局は、自分以外の森羅万象全てが、自分をフィルターとして生きているのとおなじだ。
主語と述語の繰り返しパターンから成る、ことばの体系に惑わされやすいけれど。
■
井筒俊彦さんがおっしゃっていた。(「意識と本質」(岩波文庫)だったかな?)
人間の意識レベルがさがり、ゆるくなっていくと(「意識のゼロポイント」という特殊なコトバが出てくる)、そこは「存在」としか呼びようのない場所へと、どんどん下降していく。
「存在」とか「It(それ)」としか呼べないような根源的な場所を経た後にふたたびもとの世界に上昇してくると、
「花が、存在している」というのではなくて、
「存在が、花している」「存在が、私している」
という風に、世界が反転して見えてくると。
「存在」という根源的なものが、仮に「花」だったり、仮に「私」だったりして表現して見えているだけ。
主語と述語の記述の仕方で、世界の見え方は変わる。
そして、自分の意識レベルのあり方(覚醒、仕事漬け、午後のまどろみ、睡魔、睡眠、意識混濁、意識消失、臨死・・・・・)でも、世界の見え方は変わる。
■
「芸術は、自分が美をつかみに行くことではなくて、美が自分をつかみにくること。」
主語と述語を入れ替えてみる。
美の世界に、ある程度は身をゆだねて、その中にひたり、向こうがやってくるのを待つ時間は必要なのだと思う。
そのプロセスの中で、内部からの発熱が起きる。
「真・善・美」もおなじようなものだ。
自分が「真・善・美」をつかむというより、「真・善・美」が自分をつかみにくる。
心を開いていればそれは感じることができる。
「真・善・美」というものは、常に何らかの別の形に姿を変えながら、僕らを訪れ、僕らを試し、僕らを救い、僕らの支えになっているのだと思う。
だから、自分は「真・善・美」というものは、かけがえのない概念なのだと思う。
主語と述語というものがある。
わたしは歩く。
わたしは書く。
わたしはあなたと出会う。
・・・・
ものごとのズレの中で、主語と述語の取り違えから起きるものもあるのではないかと、ふと思う。
「自分が・・、私が・・・」という風に、自分や人間を主語にして考える限り、言語体系そのものに考える内容が縛られる。
自分を主語にすることで自分を中心に考え、人間を主語にすることで人間を中心に考える。
そうすると、その射程距離に入るものしか考えなくなる。
それが続くと、考えていないものは存在すらしていないと思うようになる。
でも、この世界には、自分がベーリング海峡のことを考えなくても、冥王星の軌道の事を考えなくても、マリアナ海溝の水深のことを考えなくても、それはそこに存在しているものだ。
■
ひとの考えは、言語や言語体系に(よくもわるくも)影響されてしまうものだ。
きれいな言葉を使うこと、汚い言葉を使うこと、そのことが自分の考えに及ぼす影響も、同じようなものだ。
「自分が仕事を選ぶ」と、「仕事が自分を選ぶ」
「自分が人生をつくる」と、「人生が自分をつくる」
「自分が時や運命を選ぶ」と、「時や運命が自分を選ぶ」
・・・
主語と述語を入れ替えて考えてみるだけで、始点(視点)が変わるから、考えもかわる。
いかに言語そのもので、考えることが日々影響を受けているかを感じる。
だから、時々主語と述語を入れ替えて考えてみたり、受け身形に変えてみて、考えてみる事にしている。
そうすると、世界がパッとひらけることがある。
「自分が、自分の好きな仕事をする。」でもいいのだけど、時には
「仕事が、自分を好きになる。」
「仕事が、自分を通して生きている。」
「仕事によって、自分が好かれる。」
「仕事は、仕事をする」
・・・
表現方法を変えたり、主語や述語を入れ替えたり、少しずらしたりするだけで、思考の幅は広がっていく。
自分は自分の人生を生きている。
それは同時に、いのちが自分を生き、他者が自分を生き、時が自分を生き、運命が自分を生き、・・・
結局は、自分以外の森羅万象全てが、自分をフィルターとして生きているのとおなじだ。
主語と述語の繰り返しパターンから成る、ことばの体系に惑わされやすいけれど。
■
井筒俊彦さんがおっしゃっていた。(「意識と本質」(岩波文庫)だったかな?)
人間の意識レベルがさがり、ゆるくなっていくと(「意識のゼロポイント」という特殊なコトバが出てくる)、そこは「存在」としか呼びようのない場所へと、どんどん下降していく。
「存在」とか「It(それ)」としか呼べないような根源的な場所を経た後にふたたびもとの世界に上昇してくると、
「花が、存在している」というのではなくて、
「存在が、花している」「存在が、私している」
という風に、世界が反転して見えてくると。
「存在」という根源的なものが、仮に「花」だったり、仮に「私」だったりして表現して見えているだけ。
主語と述語の記述の仕方で、世界の見え方は変わる。
そして、自分の意識レベルのあり方(覚醒、仕事漬け、午後のまどろみ、睡魔、睡眠、意識混濁、意識消失、臨死・・・・・)でも、世界の見え方は変わる。
■
「芸術は、自分が美をつかみに行くことではなくて、美が自分をつかみにくること。」
主語と述語を入れ替えてみる。
美の世界に、ある程度は身をゆだねて、その中にひたり、向こうがやってくるのを待つ時間は必要なのだと思う。
そのプロセスの中で、内部からの発熱が起きる。
「真・善・美」もおなじようなものだ。
自分が「真・善・美」をつかむというより、「真・善・美」が自分をつかみにくる。
心を開いていればそれは感じることができる。
「真・善・美」というものは、常に何らかの別の形に姿を変えながら、僕らを訪れ、僕らを試し、僕らを救い、僕らの支えになっているのだと思う。
だから、自分は「真・善・美」というものは、かけがえのない概念なのだと思う。
あれはなんだったのかなあ、と完全には言語化できないままずっと私的な謎だったのですが、わたしのブログのトップにあるパノラマのスライドショー、いま考えてみるとあれはおそらく私の主語と述語が入れ替わった瞬間でした。しかも書いたり話したりするような実際的な言語体系ではなく、イメージの主従が逆転した、という感じです。なのでうまく言葉でおさえきれないし、ちょっと劇的すぎてあぶないくらいでした(笑)。
受動/能動のゆるやかな相互交換は生産的ですが、その逆転があまりに全面的すぎると、こんどは自己(self)が崩壊しの危機に直面するのだと思います。それくらい、主語/述語の言語的構造はわたしたちの世界認識を規定しているのですよね。
inabaさんの前のポスト、「多田富雄『免疫の意味論』」でお考えになられていた免疫システムの話とつながるところがあるように感じます。確かな主語をもっているということは、非自己にたいする強い自己免疫システムが機能している、というふうにも言い換えられそうです。
ただ、いくら「私が!」といっても、selfももとをたどればnot-selfで構成されているのですから、究極をいえば「私」を語るのにも「私の外」「私より以前」にあった「ことば」に頼るしかありません。そう考えるとなんだか壮大に謙虚になってしまいます。
「いかに安定的に閉じつつ、かつ開放系であるか」、最近いろいろな場面で考えます。
戦艦大和が沈まないのは、船底をセル状に区切っていたからだそうですが、なんとなくその免疫システム、気になります。
自己を豊かに拡張しつつ、セル化して守る。
自己をセル化するとはなにか、セル化してもなおひとつの全体として健全に機能するには?
などなど…
(松竹でトリュフォー三昧し、どはまりしてDVDボックス買ってしまいました!)
こんにちは。
タイトルの「主語という免疫システム」というのも、まさしくそうだと思いました。
self(自己)は、self(自己)をnot-self(非自己)から守るために、「免疫システム」をもって全体性を保とうとする。
それと同じで、言語自体も、「主語」というものがあることで、その中心性が担保される。
でも、「主語」=「わたし=self(自己)」と常に思うと、それは常に「わたし=self(自己)」を守るだけに働くことになり、「わたし以外の他者=not-self(非自己)」を排除するようにも働いてしまう。
免疫システムの基本構造である、「わたしを保つために、わたし以外のものを非寛容に排除する」というシステムが、それ以外のものにも適用されると、非寛容や排除の原理だけで働くことになりませんよね。それが人間関係で起きると争いや戦争にもつながりうるものですし。
>『いま考えてみるとあれはおそらく私の主語と述語が入れ替わった瞬間でした。しかも書いたり話したりするような実際的な言語体系ではなく、イメージの主従が逆転した、という感じです。』
なるほど。でも、その感覚は僕もあります。
登山したときにその感覚に襲われたことがあります。
自分が山を見て、自分が山を登って、自分が風景を見て・・・
という世界から、自分と自然(山を含む)が渾然一体となった感じで、自分が自然そのもので、なにかうごめいて登っている人(=それがまさに自分なのですが)を↑から見下ろしているような感覚に。
まるで、体外離脱の臨死体験みたいですが。笑
登山って、一日12時間とか歩いて、それを1週間とか続けて縦走していると、なんかそういう感じになるんですよね。不思議なもんです。 いまはそこまで全存在をかけて登山しているわけではないので、なかなかそういう感覚にとらわれることはないですが、それこそ、そういうときに「わたしが存在してる」「山が存在してる」ではなく、「存在がわたししてる」「存在が山してる」の感覚になったものでした。それは、もちろん当時は言語化できない奇妙な体験ではありましたが、まさにイメージ(見る・見られる)も同時に合流して反転して元にもどった感じなので、そのときにはじめて自然そのものが自分の血肉となったような気がしたものです。
NATSUKOさんがおっしゃるように(→『の逆転があまりに全面的すぎると、こんどは自己(self)が崩壊しの危機に直面するのだと思います。』)、ある程度「わたし=自己(Self)」が成立していないと、それは「わたし以外のもの=非自己(not-Self)」に飲み込まれそうになるもので、「わたし=自己(Self)」が崩壊しない程度の「強さ(強度)」のようなものが、きっと必要なのだと思いますね。
僕は、成長と言うのはその繰り返しなのだと思います。
それは自分のブログで『器』というメタファーで表現していることも同じで、「わたし=自己(Self)」が「わたし以外のもの=非自己(not-Self)」を受け入れていくには、ある程度「わたし」の器がないと「わたし以外のもの」はあふれてしまうし、零れ落ちてしまう。もしくは、「わたし」の器は壊れてしまう。
でも、「わたし」の器が決定的に破壊されてしまうと、それは「致命的に損なわれた」状態になってしまうのだけど、「わたし」という器の欠片でも残ってさえいれば、そこから修復や補修はできるし、その経験を受けて「わたし以外のもの」を受け入れることができる「わたし」の大きな大きな器ができていく。
これは、まさに「人間が成長していく」というプロセス、なかなか直線的でわかりやすいものとしては還元しにくい「人間の成長」というプロセスのイメージをかきたててくれます。
きっと、NATSUKOさんのそういう体験も、「わたし」という器がより大きくなったような体験も同時に得たのではないかと察します。
>『ただ、いくら「私が!」といっても、selfももとをたどればnot-selfで構成されているのですから、究極をいえば「私」を語るのにも「私の外」「私より以前」にあった「ことば」に頼るしかありません。そう考えるとなんだか壮大に謙虚になってしまいます。』
ほんとうにそうですね。
生きることは、「わたし=自己(Self)」というまとまりが身体として成立している状況のことですが、そのまとまりは100年前には存在していなかったし、1万年前も、40億年前も・・・存在していなかったものですからね。
「わたし以外のもの=非自己(not-Self)」とされているパーツの集合体でできあがった一時的で仮初めのものですから、不思議であり、そういう壮大なことに思いをはせると、なんだか謙虚な気持ちにもなってしまいます。
哲学の問題で、「わたしとはなにか」ということはよく議論されますが、やはり観念的なもので終始するのではなくて、「ひとのからだ」という全体的なものがどういう風に成立しているか、その生物学的な、生理学的な考察がそこにあると、はなしはより深く豊かになるような気がしています。
観念(あたま)だけで考えるのは、つねに妄想化しやすく、暴走化しやすく、現実はなれしたものになりがちですしね。
この辺りの話は、ひとの根源にもかかわる話なので、人間である以上誰もが原理的に抱えている問題ですし、すごく面白いですよねぇ。
>「いかに安定的に閉じつつ、かつ開放系であるか」
まさしくそうです。closed-systemでありながら、open-systemであるか。
宇宙そのものが開放系(open-system)に見えますが(空を見上げると、それは何の敷居もなく宇宙と直結している)、人間社会が地球上で営む生活は、いかに閉鎖系(open-system)をつくるかという営みでもありますし。
やはり、「バランス」の問題なのですよね。
>『自己を豊かに拡張しつつ、セル化して守る。』『自己をセル化するとはなにか、セル化してもなおひとつの全体として健全に機能するには?』
話は広がりますよねぇ。やはり、ひとのからだというのは不思議なもので、ひとのからだが生み出す「こころ」というのも不思議なもので、問いとして最高の問いなのだと思いますね。まさに、閉鎖系(open-system)(=答えが用意されて、そこで終わる)問いなのではなく、開放系(open-system)(=問いがさらに次の問いを生み出す)の問いなのかもしれませんね。(なんかうまくまとまった笑)
P.S.
早稲田松竹でやってたフランソワ・トリュフォー特集、見たかったなぁ。
年末は、早稲田松竹でずっとやってましたよね。
ことしはやっと熊本に帰れたので見にいけなかったですけど、もしさびしく東京での年越しだったら、見に行こうと思っていたのですよ。
Amazonで見たらいろいろありますね。
フランソワ・トリュフォー DVDコレクション
************
フランス映画の巨匠、F・トリュフォー監督の代表作を集めたDVD-BOX。文明を知らぬ野生児が人間の本性に目覚めていく姿を描いた『野性の少年』の他、『暗くなるまでこの恋を』『アデルの恋の物語』『トリュフォーの思春期』『恋愛日記』の5作品を収録。
************
ほかにも、フランソワ・トリュフォーDVD-BOX「14の恋の物語」(これはI~Ⅲまであるから、ほんとうの全集ですかね)
うらやましい!飲食代とかで散在するより、きっと一生のいい財産になりますよ!
P.S.2
仕事中のふとあいた待ち時間にダラダラ書いてたら、なんだか長くなりました。
「わたし=self」の話、免疫システムとからみづけて考えると、ほんとうに面白いですよね。
「免疫の意味論」あの本は一般のひとにはけっこうむずかしめの本ですけどね。多田先生にはほんとうに感謝です。尊敬してます。