観測にまつわる問題

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「来訪神:仮面・仮装の神々」(ユネスコ無形文化遺産登録)②(東北・北陸)

2018-12-09 05:08:04 | 日本地理観光
農林水産省東北農政局 秋田県庁提供

アマメハギ(ウィキペディア 2018/12/09)によると、「囲炉裏や火鉢に長くあたっているとできる火だこ(温熱性紅斑)のことをアマメと言い、怠け者の証しとされている。これを剥ぎ取る妖怪がアマメハギである。」類似の行事は日本各地に伝わっており特に日本海側に多いとのこと。登録された10件の内、「男鹿のナマハゲ」(秋田県男鹿市)、「能登のアマメハギ」(石川県輪島市・能登町)、「遊佐の小正月行事(アマハゲ)」(山形県遊佐町)がこれにあたるようです。

アマメの語源ですが、火だでピンと来ましたが、ア+マメなんでしょうね(疑問氷解 手にできる「タコ」と「マメ」の違いは何?(毎日小学生新聞 2018年5月1日)によると、マメは水膨みずぶくれ、タコは厚あつい角質なんだそうです)。アの語源は自分にはサッパリ分からないのですが。

鬼が来ると子供を叱ることがあって(子どもを叱るときに「鬼がくるよ!」「お化けが出るよ!」と脅すのはアリ? ベネッセ)、アマメハギの祭りはその一類型なんじゃないかと思います。包丁は「アマメ」を剥ぐ小道具で、子供を脅かすためのものなのでしょう。

鬼面・古代鬼面(タツミ)を参照しましたが、「角のついたリアルな鬼の面は江戸時代頃からで、古くから魔よけとして建物を守ってきた」のだそうです。だとすると、鬼面をかぶる形式は江戸時代に始まったと思えます。

蓑は雪蓑らしく、節分に行う能登町を除き、北陸・東北の小正月(1月15日)の行事のようです。また、吉浜のスネカ(岩手県大船渡市)も言葉こそ違うものの、小正月行事で(イヌのような)鬼面・蓑のような衣装・囲炉裏に入ってばかりで怠けている子供の脛に付いた火の斑を剥ぎ取る祭りだそうですから、全て日本北部の小正月行事と言えるのかもしれません。正月ですから、この来訪神とは年神の一種なのでしょう。日本海側と少し言葉が違うのは、青森県下北半島尻屋崎沖が海の難所だったことに関係するのかもしれません。

小正月の由来ですが、「中国式の太陰太陽暦が導入される以前、望の日を月初としていたことの名残りと考えられている」(ウィキペディア「小正月」(2018/12/09)(西角井正慶編, ed (1958-5-23). 年中行事事典 (初 ed.). 東京堂出版. p. 305.))とのことです。前回の記事の薩摩硫黄島のメンドンは八朔(はっさく:八月の朔)に登場し、朔(さく)とはついたちで新月ですが、どうもかつては一月の満月(望)が正月だったようです。正月に餅の風習は望(もち:例えば望月)にかけたのかもしれません。そう考えると、僻地(失礼)での分布は古い伝統が残った証と思えます。

日琉中関係史(中国の時代区分による)

2018-12-08 06:14:09 | 世界史地理観光
箸墓古墳(ウィキペディア「箸墓古墳」2018/12/8 Saigen Jiro氏の投稿写真)

日琉中関係史を中国の時代区分に従って、漢から清まで流れを追っていきます。あえて中国の時代区分に従うのは、中国の方が古い文明で歴史が先に整備されたこと、中国の方が大国で日本の中国に対する影響より中国の日本に対する影響の方が大きかったことによります。日本の時代区分に従うと関係史は分かり難いのではないかと思います。あくまで歴史の流れを客観的に追うためのやり方で他意は全く無いことをご理解ください。沖縄ではなく琉球としたのも最初の正史が編纂されたのが琉球王国においてであることによるのであって、他意はありません。筆者は歴史的事実を押さえるのに現代の色眼鏡をかけるべきではないという考え方です。

①漢代:日本が世界史というか東洋史に登場するのは、漢代において倭国としてです。この時点では北九州政権で、現在の皇室とは残念ながらほぼ無関係であり、日本最初の正史日本書記を辿ってもその実相は概ね不明と言えます。漢委奴国王の金印が有名なところです。朝鮮においては北回り陸続きに楽浪郡が設置され、日本とは朝鮮半島経由の交流だったと思われます。漢の都は長安・洛陽。完全に陸の大陸国家であって、南方でも交趾郡・日南郡を置いてベトナム北中部を支配しましたが、琉球が登場することはありません。

②魏晋南北朝時代:三国志魏の時代に邪馬台国が登場します。現在一般的には九州説も有力とされますが、当時は年代的にほぼ古墳時代の開始期にあたり、古墳時代はそのまま現在の皇室・日本に繋がる上、北九州博多付近に比定される奴国の7倍の人口を持つと記される邪馬台国は畿内に求めるしかないと考えられます。また、道中の投馬国も奴国から(不彌を挟んで)水行で辿りつき、5倍の人口規模を持ちますから、これは吉備あたりだろうと推定できます。大和地方の最初期前方後円墳箸墓からは吉備系の土器が多く出土するらしく、魏志倭人伝に見える邪馬台国連合=倭国成立の事情が垣間見えます。恐らく戦乱の弥生時代を経てこの時には成立していた大和と吉備が連合して北九州を制し大和を中心とする倭国が新たに成立。北九州にあった倭国の外交関係を継承利用して中国に通じたのではないかと考えられます。古墳時代は北陸や東海・関東にも広がっており、邪馬台国を九州に収めてしまうと、日本統合の年代的なつじつまがあわなくなると考えられ、過剰に日本を小さく見る必要はありません。記紀の神武東征においても倭国が元々北九州にあった事情が垣間見えますが(恐らく北九州あたりからの移民が後の大和を造ったのでしょう)、いずれにせよ、崇神天皇以前の天皇の墓は記紀の記述から小規模なものに止まると考えられ、弥生時代の統合されない中心地(北九州が山陽や大和を支配していた訳では必ずしもないでしょう)は北九州にあって、大和は畿内の地方政権に過ぎなかったと考えられます。

長江流域南船北馬の南である呉の鏡等も出土しますが、中国の史書の記述から限定的な交流に止まったと考えられます。呉の孫権の夷州・亶州征伐もありましたが、一時的な話で琉球を攻撃したかはよく分からないとされます(台湾ではなかったかとも)。

南北朝時代の中国中原には異民族が進出し、日本は南朝と交流します。ルートは朝鮮半島南東の百済を通じてのようです。少なくとも渤海は渡って交流していたのでしょう。

③隋唐五代十国:隋の頃には遣隋使があって日本の形がようやく整ってきたと考えられます。聖徳太子の日出処の天子の手紙は有名ですね。隋書に流求が見られますが、これは台湾を指すとも言われ定かではありません。後に小琉球が台湾、大琉球が沖縄を指すことになります。

唐代中国においてアラビア人(大食)が広州や揚州にやってきて交易を行い、居住地も設けていたようです。日本は遣唐使を派遣し、中国の(国際的でもあった)文物を受容しました。日本書記が成立し、奈良の都や京の都が成立したのはこの頃。国号も日本に改称します。南西諸島においては種子島までは直接支配しており、奄美までは少なくとも史書に見え交流があったようです。それ以南と見られる島の名前も史書にあって(朝貢してきたとされ)、沖縄本島の存在は少なくとも知っていたと考えられます。

④宋:博多を窓口に宋銭が輸入され、日本経済は進展しました。唐末に火薬が発明されており、薩摩から中国に渡るルートもあり、日本は薩摩硫黄島の硫黄を輸出していたようです。院政期に南西諸島に対する影響力は強まり、この頃琉球においてグスク時代が開始されたようです。初代琉球国王とされる舜天の源為朝伝説と為朝の娘婿と言われる阿多(平)忠景の薩摩における活躍に何らかの関連性はあるのでしょう。

⑤元:元寇があって必ずしも関係は安定しなかったと考えられます。元はジャワ島まで攻め込みましたが、琉球に攻め込んだという話はありません。当時の東南アジアは唐代以来西方と中国を結ぶ交通の要所になって繁栄していましたが、琉球は互いに相争う時代なのであって、大陸国家がわざわざ海を渡って支配する甘みはありませんでしたし、台湾との混同もあったようです。奄美では千竈氏の支配があったとも。

⑥明:室町時代初期は南北朝時代でもあって、九州の南朝が日本を代表して明と交流する等当初は混乱期にありました。足利義満の時代の日明貿易は有名ですが、その後しばらくして応仁の乱が発生し、日本は戦国時代を迎えます。明の時代に琉球王朝がようやく成立。明との交流貿易があったようです。中国人主体とも言われますが(例えば日本の五島列島・平戸には王直なる倭寇の頭目がいました)、後期倭寇が中国沿岸を荒らした時代でもあります。大航海時代でスペイン人・ポルトガル人が来訪して日本に鉄砲を伝えたのもこの頃。豊臣秀吉は明征服を目指して朝鮮征伐を敢行し、明と朝鮮の連合軍と戦いますが、その死により終結。その後、明は倒れて清の時代に移ります。奄美は琉球王国の支配下に入っていました。琉球王国は明に朝貢していたものの、日本も日明貿易(朝貢貿易)を行っていたのであって、朝貢がすなわち中国の領土主張の根拠にならないことは明確だと考えられます。

⑦清:江戸幕府は所謂鎖国政策を実行し、対外貿易は限られた窓口でしか行いませんでした。一方琉球王国は東南アジアまで至り中継交易で活躍したようです。琉球は中国に対して朝貢していましたが、薩摩の琉球侵攻があって裏に薩摩がいたとも言われます。奄美はここで薩摩藩の直轄領になったようです。清は明の再興を掲げオランダを追い出し台湾によった鄭氏政権を滅ぼし、ここに来てようやく台湾が中国大陸の国に支配されることになります。明治維新で欧化政策を採った日本は琉球王国を日本に併合し、後に日清戦争を敢行。眠れる獅子と呼ばれた清を破り世界を驚かせたようです。結果、台湾を併合し、日本統治の時代が始まりました。

以上ですが、世界史や経済史・軍事史を踏まえ日琉中関係史を概観すると、中国の海洋における活躍は過大評価されており、琉球は基本的に日本の影響を強く受け成立し日本の系譜に連なるのであって、台湾すらずっと後に至るまで手をつけなかった中国の尖閣諸島に対する領土要求の歴史的根拠は相当怪しいことが分かるだろうと思います。

風疹と予防接種と疫学

2018-12-07 21:59:49 | 厚生労働
注射器の無料イラスト(来夢来人

先天性風疹症候群とは(厚生労働省-戸山研究庁舎)によれば、「風疹の流行年とCRSの発生の多い年度は完全に一致している。また、この流行年に一致して、かつては風疹感染を危惧した人工流産例も多く見られた。 」・・・つまり結局、先天性心疾患、難聴、白内障をもたらす重大性から、風疹のワクチン接種の第一の目的は先天性風疹症候群の予防なのだそうです。ただし、予防接種による先天性風疹症候群が発生する可能性を原理的に否定できないことから、妊娠中の女性は予防接種できません。

風疹は潜伏期間が2~3週間あり、ワクチン接種が当初女性に限られていたため、日本では成人男性中心に流行があるようです。当然うつる病気です。一方、職場における風しん対策(厚生労働省-戸山研究庁舎)によると、「国際的に風しんは、完全排除が目標とされる疾患であり、南北アメリカ大陸では2015(平成27)年に完全排除を達成している。」とのこと。そういう訳で、アメリカ疾病対策センターは予防接種を受けていない妊婦に対して日本への渡航自粛を呼びかけているようです。

こうした結果になる理由として、日本の予防接種制度は先進国中、最低レベルとの指摘もあるようです(日本vs世界のワクチン事情 Know VPD!)。アメリカでは生後2ヶ月の未熟児でも1日に6本の予防接種を受けて問題が無いのに、日本では1本づつやって無駄にハードルが上がっているとか。予防接種を6回に分けて一々やっていたら、赤ちゃんが幼児になってしまいます。石橋を叩き過ぎなんじゃないでしょうか。

副作用の懸念も、副作用とされる症状は概ね別の原因があることが多いようです。副作用は全くのゼロではありませんが、副作用を過剰に恐れて危険な病気を広めるかのような日本の姿勢は問題なのかもしれません。所謂ゼロリスク志向がより大きな問題を発生させているのでしょう。

伝染病は自分だけの問題ではありません。ただ、副作用は自分に発生します。自分だけを考えると、あるいは予防接種は面倒なだけかもしれませんし、医者も副作用どうしてくれる!(因果関係は立証できないでしょうが、否定も難しい)というクレームが面倒なのかもしれません。

筆者も予防接種と聞くと、①面倒。②大丈夫だろ。③副作用がな。・・・の3点セットを思い浮かべる消極派なんですが、科学的な根拠に基づく政策の必要性と言われると、理解できるところはあって、これから考えないといけないかなとは思っています。

なお、以前ツイートしましたが、疫学はアメリカが先進的だという指摘があるようです(疫学のオススメ洋書臨床疫学のオススメ本(共に「NEW NURSING」個人ブログ))。疫学・統計学(入門編)(岡山大学大学院医歯薬学総合研究科 疫学・衛生)も参照しましたが、洋書が入門書というのは文系では考えにくいところであり、わざわざ英語で勉強しなくてはならないのですから、やはりアメリカが進んでいるんだろうと思います。

米国の疫学と予防接種制度について(国立感染症研究所 疫学センター主任研究官 神谷元)」によると、21世紀の医療は治療中心の医学から予防中心の医学への転換の時代と言われており、アメリカでは疫学が予防接種政策に密接に関与しています。進んでいる疫学が関与している予防接種制度も、恐らく進んでいるのであって、予防中心の医学を学び制度に反映していくことによって、少子高齢化で負担が増すと見られている医療コストを下げ、突然の人的損失を防ぐことができるのかもしれません。

製糖技術の起源に関する歴史とインドの東南アジアに対する文化的影響

2018-12-07 19:37:40 | 世界史地理観光
特集1 砂糖(4)(農林水産省)

砂糖の歴史(インドから西方へ)((独)農畜産業振興機構(ALIC))によると、「ニューギニアを発祥の地とするサトウキビは、何千年も前からアジアの熱帯地方の多くの人々の間で、サトウキビの皮をはぎ、茎を噛んで甘い汁を飲んでいたようです。」

砂糖が世界史に登場するのは、紀元前4世紀のアレクサンダー大王のインドに至る遠征時の記録で、「インドには、蜂の力を借りずに葦からとれる蜜がある。」「噛むと甘い葦・噛むと甘い石がある。」等々の記述があるそうです(検索しましたが、元々の出典は良く分かりません)。どうも古代インド北部で製糖という技術革新が起こったとされるようです。

インドアーリア人は前10世紀頃にガンジス川に進出、十六大国の興亡の時代を経て、前4世紀末にマガダ国マウリヤ朝が統一国家を形成しました。

十六大国のひとつアンガ国(ウィキペディア「アンガ国」(2018/12/7)参照)の首都はチャンパー(ベトナム中部の古代王国チャンパの語源とされる)(仏典「ディーガ・ニカーヤ」によると当時の六大都市で商業や交易が盛んだったようです)。マハーバーラタによるとアンガ国はベンガル地方で栄えたそうです。

この時代、ガンジス川からベンガル湾を通じて、東南アジアとの交易があったとも推測でき、これが後の貨幣の発行で知られるナンダ朝マガダ国のビルマやセイロンとの交易に繋がったとも考えられます(マガダ国 世界史の窓)。南伝仏教やイスラム教等でも分かるように、元々ベトナム北部を除く東南アジアの文化は北方の中国よりインドを始めとした西方からの影響が格段に強い訳ですが(フィリピン独自の文字もインド系で漢字は関係ありません)(流れが変わるのは遥か後代、明清の人口爆発で移民が増えてからだと思います)、その嚆矢はガンジス川流域のインドアーリア人の王国(ベンガルあたりが特に怪しい)にあるのかもしれません。系統関係が証明されないオーストロアジア語族の(インド東部及びバングラデシュの)ムンダ語派とモン・クメール語派・ベト・ムオン語派を除き、インドと東南アジア諸国の言語学における現存の系統関係は見つからないのですが、世界史をキチンと勉強していれば、文化の伝播を民族の移動と解する必要は全くないことは理解できると思います(日本史において文化の伝播を民族の移動に過剰に結びつける議論が罷り通っているように見え、残念に思っています)。いずれにせよ、古代インド北部に製糖技術があったことは間違いありません。

インドの東南アジアに対する文化的影響が難しい理由のひとつに、インドが現在ヒンドゥー教が多数派の国であって、東南アジアにヒンドゥー教国がないことが挙げられるのでしょう。インドにおいては仏教もヒンドゥー教の一部だと位置づけられているようであり、上座部仏教や南伝の大乗仏教とヒンドゥー教の関係も興味深い(例えば何故セイロンという南方の島から上座部仏教が伝わったとされるのかピンと来ません)ところですが、それはまたいずれ調べるとして、ヒンドゥー教と仏教との関係(アジア見聞録)は日本人一般が思っているより、関係が深いようです。北伝の大乗仏教も勿論インド起源なのですが、上座部仏教に比べたら、中国を経由することでインド要素は明らかに薄れていると考えられます。例えば、インド神話に登場するガルーダはタイ王国国章・タイ王国国章・ウランバートル(モンゴルの首都)の紋章になっているようです。ちなみにモンゴルは中国から仏教を学んだ訳ではなく、チベット仏教から仏教を学んだのであって、チベット仏教は概ねインドから直接学んでいるようです(チベット文字もインド系です)。現代のイメージで歴史を見ることが必ずしも正しいと限りません(文字の観点で見れば、中国(漢民族)から派生した(少数民族を除く)文化は、(ハングルを含まず漢文主体だった)朝鮮・日本・ベトナム(主に北部)の3つに限られ、満州すら含まれないようです(ですからステップルートから満州にかけての中国以北の歴史と涼州とも呼ばれた甘粛省以西の歴史及びチベットの歴史も中国からの影響が一般的なイメージより小さいのではないかと疑ってかかる必要があり、西方からの影響をより重視すべきです)。また、琉球は中国(漢民族)からの直接の派生ではなく、言語系統・平仮名を使用した文字の観点から日本から直接派生しており、中国直系でも日中中間でも全くありません。が、戦争に負け支配されると文化の系統も何も無くなってしまうことがあるのは、中国においてのチベット・ウイグル・モンゴルの扱いを見て分かる通りです)。

三跪九叩頭でも分かるように華夷秩序とは明確に国の上下関係を決める秩序でもあって、近隣諸国では日本がもっとも中国の支配から比較的自由に発展したのであって(例えば江戸幕府は中国の使者に三跪九叩頭したりはしません)、そのことが明治維新や日清戦争での勝利に繋がっていくと思いますが、この三跪九叩頭した歴史を持つ国・地域が、客観的に見て中国に心を折られたか変に中国よりの歴史観を持っているように見え、注意が必要だと思います。

話を砂糖に戻すと、何故か沖縄県の解説(サトウキビ 沖縄県)では、パプアニューギニア→インドネシア→中国→琉球のルートで伝わったと書かれており、製糖法で中国人の名前のみ記載されていますが、本質的には製糖技術は古代インドと推定されますし、当然インドからペルシャ・エジプト・地中海世界へと伝播していますから(先に記述したALICの砂糖の歴史による)、そういう記述は誤解を招くものだと考えます。

砂糖に限らず、沖縄県は中国史観にドップリ浸かり過ぎており、中国発祥でないものが過剰に中国発祥だと示唆するかのような記述が多く(例えばサツマイモは南米発祥なのに中国が強調されます)、注意が必要だと思っています。世界史的観点から見れば、中国から入ったかどうかはローカルな視点に過ぎず、何処で重要な技術革新が起こったかに注目すべきでしょう。沖縄県の歴史の記述が日本史の視点で技術・物産が何処から来たかだけ書かれていれば、特には問題がないでしょうが、例えばニューギニアから始めてインドを軽く扱い中国を強調するのが、世界史に自ら言及しながら世界史的観点を踏まえていないということに他ならず、不味いというか中国よりに偏向している訳です。当時の沖縄九州から見て中国発祥に見えそのように伝えたとしても、現代から振り返ってみてどう見ても中国発祥ではないならば、キチンと訂正しておく必要があるんだろうと思います。

もっとおいしく安心して使うための砂糖の基礎知識(農林水産省)でも「さとうきびは紀元前のインドで使われ」と書かれており、原産地も中国にも触れられていませんが、そもそも直接噛んでいたさとうきびから、砂糖をつくるというイノベーションが重要だという訳なんだろうと思いますし、さすがに客観的だと思います。

沖縄・鹿児島のサトウキビ農業と今後の方向性

2018-12-07 18:22:05 | 農林水産
農林水産省「もっとおいしく安心して使うための砂糖の基礎知識」より

沖縄・鹿児島のサトウキビ農業と今後の方向性について考察します。筆者が当地の新聞をこれまで見てきた中では、サトウキビ農業は大切にされてきたようです。今後の発展が望まれる訳ですが、砂糖が悪者にされがちな昨今、また収穫量が減少傾向にある昨今((10)さとうきび 農林水産省 ※2011年までのデータ)、本気で振興するのであれば、一から見直し新しい戦略を練る必要があるというのが、筆者の考えです。

もっとおいしく安心して使うための砂糖の基礎知識(農林水産省)によれば、日本で消費される砂糖の内、国内産は4割であり、その内8割が北海道のてん采由来で、2割が沖縄鹿児島のさとうきびになります。

五訂増補日本食品標準成分表 第3章 資料-1-3(文部科学省)を参照すると、(日本でよく使われる)上白糖や(世界でよく使われる)グラニュー糖でさとうきび・てん菜の区別がありません。てん菜上白糖もあるようですが、精製したら同じだと考えて良いのでしょう。

それを踏まえて、国内産の砂糖が8割てん菜なのであれば、上白糖やグラニュー糖の原料としては、てん菜の方が競争力があるとも考えられます。だとすればつまり、沖縄や鹿児島のさとうきびは、未精製の砂糖に力点を置いた方が良いのではないでしょうか。

【血糖値も安定】体にいい砂糖のおすすめ人気ランキング10選(mybest 料理研究家 スマイリー)は、体に良い砂糖とは栄養分が残された完全に精製されていない砂糖だとしています。癖がない甘さなら精製された砂糖なのでしょうが、不純物を取り除くのも良し悪しだと思います。

栄養価が非常に高いのが黒糖ですが、独特の癖もありますし、沖縄や鹿児島としては、あわせてより癖が少ないきび砂糖もプッシュすべきかもしれません。てん菜糖よりミネラル分は多いようであり、ミネラル分は精製された白米を食べる日本人には不足しているようで、健康にはきび砂糖や黒糖が良いのかもしれません。白い砂糖でてん菜と勝負できないなら、茶色の砂糖を如何に推すかです。補助金依存の農業を幾ら大事にしたところで、ジリ貧になることは否めないと思います。沖縄に必要なのは強い産業だと考えます。

黒糖の消費拡大PR 生産量、2期連続9千㌧超(八重山日報 11日 5月 2018)

元々(沖縄)県含みつ糖対策協議会が5月10日を黒糖の日としてアピールしたように、沖縄で黒糖重視の流れはあるんだろうと思います。もっともそうしたニュースを見た時は筆者もよく分かっていませんでしたが、これまでの黒糖重視は良いとして、+αで未精製という一点に絞ってきび砂糖もプッシュすると面白いと思います。より癖はなく受け入れられやすそうですし、ライバルてん菜から精製できないという意味では黒糖に並ぶ訳で、選択肢は増やしておくことに越したことはないんじゃないでしょうか。

まぁ、前述のテレビでひっぱりだこだという料理研究家スマイリー(フードソムリエ 料理家一覧)さんによると、完全に精製していない茶色のてん菜糖もオリゴ糖が含まれており、それはそれで良いものであるようです。フランス料理でよく使われるのだとか。スマイリーさんはフランス料理でキャリアを積んでいるようですが、沖縄の物産をアピールするのに影響力のある料理人に忌憚のない意見を聞き、使ってもらうのもひとつの方法なのかもしれません。沖縄の場合は観光でファンになってもらうという手もありますが。

なお、黒糖ですが乳児ボツリヌス症との関連性を指摘されており(例えばウィキペディア「黒砂糖」2018/12/7)、これは風評被害を生んでいると考えて良いようです(徹底調査!乳児は絶対NGな「ボツリヌス菌」。ハチミツ以外の危険食品の真偽とは?! くらトピ)。何でもライターの方が沖縄県黒砂糖工業会に聞いたところによると「沖縄黒糖にボツリヌス菌の混入例は聞いたことがなく」「濃縮の過程でかなりの高温(120度以上)での仕上工程があり、その過程でボツリヌス菌などの耐熱細菌も全て死滅するほか毒素は失活致します」だそうです。

なお先に紹介した「もっとおいしく安心して使うための砂糖の基礎知識」において、虫歯予防に関しては、長時間食べかすを残さないことの重要性が指摘されており、糖尿病に関しては、世界では英名「diabetes mellitus」中国名「消渇」のように糖という言葉は使われておらず、過剰に砂糖がイメージが悪くなっていると示唆されているようです(食べ物では炭水化物も原因)。

健康に関心がある人が増えている昨今、調べたら事実が出てくることを防ぐ方法は無いと思いますが、シッカリ調査して風評被害を生む誤説に関しては、訂正を求めていくことも重要なんだろうと思います。後手に回らず、食と健康に関する科学的根拠を自分達自身で調べて事前に計算して方針をたてる農政が求められているのかもしれません。

きりたんぽと言えば、野外のライスバー?

2018-12-06 00:08:15 | 日本地理観光
米代川(国土交通省)

大館市を流れる米代川の語源ですが、通説の米+白で研ぎ汁ではなく、米+代で米所という意味ではないかと思います。代のつく東北の地名に猪苗代(シロは場所という意味に近いのかなとは思います。例えば、やしろ(社)は屋代で、依り代、糊代。他に地名としては田代)、米(ヨネ)のつく東北の地名に米沢。緑色の川の由来に研ぎ汁はおかしく、素直に米所で良いかと。白川・城川といった地名はありますが、米代川が白くなく、昔白かったもなさそうですし、あっても白くなくなったら変わるでしょうし、変わらなかったとしても米が謎というか、米のように白いって言うかな。

美味しいお米がよくとれるからこその当地名物のきりたんぽではありますよね。

きりたんぽと言えば鍋ですが、本来のきりたんぽと思われる野外で食べるライスバーも良いのではないかと。その由来はハッキリしないともされるようですが、穴が開いている=串に刺すで焼き飯だったのは間違いなさそう。鍋は持ち歩くと重いはずです。東北は寒いのであったかいライスバーであるきりたんぽ(いつものBBQに気の利いた1品を!簡単なのにおいしい喜ばれBBQレシピ CAMP HACK)。

きりたんぽ(ライスバー)のバリエーション(BBQきりたんぽ風ライスバー ソトレシピ)。

日本の系譜沖縄(ナワナハ語源考・琉球神道と古神道)+αで伊予国「宇和」について

2018-12-05 20:02:46 | 日本地理観光
波之上宮(ばんない堂)

沖縄の語源の通説は一般に「沖あいの漁場」を意味する「おき(沖)な(魚)は(場)」を由来とする説(伊波普猷)であり、「沖にある場所」「遠い場所」を意味する「おき(沖・遠い)なは(場所)」を由来とする説(東恩納寛惇)があるそうですが(ウィキペディア「沖縄県」2018/12/05 引用及び地名由来事典「沖縄県」参照)、筆者はどちらも誤りではないかと考えます。

無人島ならまだしも付近で最も大きい有人島が沖の漁場と呼ばれる可能性は無さそうですし、自称することも無さそうです。沖合いの小島が好漁場だったら(水が出ない等の理由で本島から漁業に出かけるなら)、まだ分かるんですが。多分北九州の奴の津の通説が意識されていると思いますが、魚津なら北陸にもありますしこれは理解できますが、沖縄には当てはまらなそうです。沖縄の縄と那覇が同じものとすると、東恩納説は有り得なそうだと先の地名由来事典でも指摘されていますし、一般的に縄と那覇が同じと考えられているなら、那覇が漁場という地名になりますが、何処にでもある漁場が特定の地名になることも有りそうにないと筆者は思います。何処に漁村という名の漁村があるでしょうか?紛らわしい。しかも漁村ですらない漁場です。ムツゴロウの漁場の泥の中に掘っ立て小屋でも立てるのか。また、魚なんて獲りまくればいなくなるものです。多分、皆何となく不審には思うものの、他に良いアイディアもなく、放置されてきたものではないでしょうか?

簡単に検索した範囲では筆者が最初に考えました(少なくとも誰かのアイディアを受け売りしているのではなく、自分で考えました)が、沖縄=沖平 で本土から見て沖の平らな島という意味じゃないかと思います。沖縄本島にはヤンバルを除き、大体平らな島として知られています。特に日本本土や奄美と比較すれば、その平坦さと(最も)沖合いにあるという地名の意味が分かるでしょう。那覇も平という地名なら、福島県岩城地方を代表によくある地名で意味が通りやすいところです。那覇に高い山は存在しません。

正直なところ、そもそも東北を調べていて、福島の猪苗代の語源由来のナワに関する指摘(会津「猪苗代湖」(いなわしろこ)のゆらい 会津ひらつか農園 >「イナワシロ」とは、イが「井」であり水を意味し、ナワは「ナラ」と同じで「奈良盆地」のような平らを意味し、シロとは「代」で高いを意味します。※ただし筆者は代の語源に関しては賛同していません。イはイ草が水草ですし妥当だと思います)を見て裏づけをとったところ、日本語でどうもナワ=平だと気付いたのが、沖縄の語源の新説を思いついたきっかけです。

「名和」名字の由来、語源、分布(日本姓氏語源辞典 人名力・別館)を見ると、ナワ・ナナミ【名波】、ナワ【那波】、ナワ【縄】、ナワ【那和】、ナワ【名輪】、ナワ【奈波】、ナワ【繩】、ナワ【奈輪】が日本の地名として一般的で何らかの共通した意味が想定され、沖縄の縄も同じではないかと考えられます(沖縄の地名は本土の史書が初見ですし、沖縄方言自体が日本語の一派であることは学問上確立しているので、飛躍した発想ではありません)。ただ、意味が分かりません。そこで筆者は奈良と名和が近いのではないかとふと考えました。

ウィキペディア「奈良」(2018/12/05)を参照すると、柳田国男の「地名の研究」による説では、平(なら)した地の意で、緩傾斜地を指すと言います。東国では平(タヒラ)。これが最有力だとされており、平の地名も一般的であり、平城をナラと読むこともあるようですし、なるほどと首肯できます。ウリナラ地名で奈良=国説もありますが、記紀等で国はクニと読む以上朝鮮語の入る余地もありませんし、しかも国造(くにのみやつこ)のように地方名としても使いますし、ナラという地名は日本各地に使うので、全く違うと言えます。ウリナラ(我が国)という言葉を使用する(日本の知識がない)朝鮮人から見て、奈良が大和を指すなら間違いないと思えて不思議はないんでしょうが。また同義とされる平は盆地や微高地・高原を結構意味しますよね。佐久平、八幡平など。そう考えると、更に奈良=平説は真実味を帯びてきます。福島県岩城の平のように盆地でもないケースもありそうですが、高さはさておき、平という地名は日本語では一般的で、大和言葉ではナラらしい(均す=平らにするに由来する)ことは分かってきました。後は意味不明のナワにナラが転じるかというか近いか否かです。

裏をとるため「r w 発音」で検索したところ、rとwは間違えやすいという指摘を上位で二つ見つけました。

似たような・間違いやすい単語の発音を取り扱った本。(教えてgoo)>日本ではよくR-Lの話しが出ますが、私としてはR-Wの違いはわかりづらいと思っています(口の動きが似ているからです)
WとRの違いと発音のコツ(YouTube)>WとRは実はよく似ています。ポイントは口(唇)。鏡を見ながら練習しましょう。

日本も広いですし方言というのも結構違ってくるものです。識字率が低く、耳で聞いていた時代にwとrの間違いなんて朝飯前というか、もはや間違えない方・変わらない方がおかしいと言えるのかもしれません。先頭語ならまだしも後にくっつけると尚更間違えやすいでしょうね。そう考えると、浦と宇和(愛媛南西部のメジャーな地名)ももしかして。字にすれば間違えようがないにせよ、字がない時代に地名は結構決まっている訳であり、その辺が盲点なんじゃないでしょうか。

そう考えると、ナラ=ナワで平だと決め付けても、当たらずとも遠からずというか、当たっているんじゃないかと思いますがどうか。

場所が近いですし、ウィキペディア「九州地方の難読地名一覧」(2018/12/05)を確認しましたが、ナワ・ナラを含む意味不明の地名が散見されます。原義が忘れられたものだとも考えられます。

名和(ナワ)=奈良(ナラ)で平なら、東日本の平に対して西日本の「平」がハッキリしてきたと言えるのかもしれません。地名で平なんて凄く一般的でありそうです。昔の日本ではナワのブレでも分かるように漢字は自由きままに宛てていますし、奈良は特別に好字(好字令があった)したのだと思えます。この仮説が正しいとすると、沖縄=沖の平(な島)で、那覇=平(村)という普通のありそうな解釈になります。

そもそも沖縄の初出は、奈良時代鑑真の唐大和上東征伝の阿児奈波島なのだそうですが、これは通説通り、阿児をオキと読んでいいという確信はありません。普通ならアゴで志摩(三重県)に阿児=英虞という地名はあります。ただし、ナワが南西諸島の何処かの地名にあったことは間違いないでしょう。

また、続日本紀(797年完成。697年~791年の記録)掖玖(屋久)・多禰(種(子島))奄美・度感(徳之島と言われる)・信覚(石垣島と言われる)・球美(久米島)の地名が見られますし、屋久島・種子島・奄美大島は日本書記に記載があるほど古いのですが(地図を見れば納得いくでしょう)(種子島に至っては多禰国として国府・国分寺すらありました)、寧ろ日本書記以降、続日本紀とほぼ同時代の鑑真の頃(779年作)に奄美以外に度感・信覚・球美を知ってて、沖縄本島を知らないなんて有り得ないようにも思えます(あるいは現地で勢力が強いがゆえにお互い知ってて日本に朝貢はしなかった可能性はあるかもしれません)。この時代に先島諸島の国が朝貢してくるのかなとも思わないでもないですが。いずれにせよ、少なくとも初出はともかく(隋書の流求國(607年)※ただし台湾説など諸説ある。大陸に近い台湾ですが古くは小琉球と呼ばれました。大琉球が沖縄とされます)、地理的な観点からも昔から日本の方が当地に詳しかったとは言えるのだと思います。度々指摘していますが、言語学上日本の一派でもありますし、琉球王国最初の史書は和語で書かれてもいます。結局のところ平家物語の「おきなわ」に江戸時代に新井白石が沖縄を当てたようですが(それ以前の薩摩の史料にも「沖縄」は見えるとか)、少なくとも南西諸島におけるナワはかなり古いと言えると思いますし、沖縄が最大で鑑真の頃まで遡ると想定してもいいんだろうと思いますが(あるいは平家物語か17世紀薩摩)、やはり奄美を知っていたなら、何か本島の名前がないとおかしいですし、周辺の他の島の名前は古くから記載されてきたようです。

次いで那覇ですが、琉球国由来記(1713年。琉球王府に献上された地誌)に奈波から那覇に改字したとあるようです(那覇の地名の由来について知りたい。 レファレンス共同データベース)。これまで見てきたように寧ろ奈波表記が日本的でナハ=日本によくあるナワという地名説に符合するように思います。また、通説とされる伊波説に専門家による疑義が提起されていることも確認できます。いずれにせよ(分かるにせよ分からないにせよ)、ナハという地名はあって何らかの意味はあったに違いありません。

筆者はそもそも沖縄方言は言語学上日本語の系統で日本語で解釈できるものも多いことは確実ですし、ナハはナワで平としたいと思います(本土でもそういう指摘(ナワの意味の解釈)が無かったので今まで分からなかったのかもしれません)。

さて、本日沖縄一宮「波上宮(なみのうえぐう)」(海の上から目立つ崖の上の神社。熊野信仰。琉球王国時代から、那覇港を出入りする船は、崖の上の神社を目印にしたのだそう。灯台なんかも崖の上に立っていることが多い)を調べていたのですが、琉球神道が本土の古神道に似ていると益々確信を持ちました。言語学で確定できるだけでなく、宗教面でも沖縄が古い時代に日本から別れたと言えそうです。

波上宮の解説によると等、元々聖地・拝所だったそうですが、波上宮の御鎮座伝説では、(那覇近郊)南風原の崎山の里主(琉球王国の身分制度で中間にあたる士の上層)が浜で霊石を見つけ、熊野権現の信託を受け、王府に奏上し祀ったのが直接の起源のようです。崎山という姓は全国にあるようですが、(熊野信仰の)和歌山と沖縄に特に多いとか。次いで愛媛(伊予)・鹿児島。

石を祀るのは古神道における磐座(いわくら)信仰によく似ており、沖縄古来の御嶽(うたき)信仰の御嶽とは森の空間や泉や川・島を主に指すようですが、これは日本古来の古神道/自然崇拝(アニミズム)によく似ます。沖縄においては水が貴重だったので水場の信仰がメインになったのでしょうが、元々は御岳(おんたけ)で山を信仰する宗教だったかもしれません(御岳山の修験道は有名)。日本語で島は島を意味しますが、沖縄奄美方言では島は集落を意味するように変化しましたし、有り得ない想定ではないと思います。

女性が祭主なのは、邪馬台国における女王に似ます。当時の中国から見て日本の王は女性で鬼道を行っていました(邪馬台国=九州説は邪馬台国以前漢代の北九州にあった倭国王が女王と書かれていないことを説明する必要があると思います)。古い習俗が寧ろ大和に残っていて、先に北九州が男王化したかもしれません。卑弥呼以後も中国の史書でも日本の史書でも「女王」は登場しており(女系ではありませんが)、そもそも日本の皇室は神の血筋とされており、神事に関係していました。

皇室には殯(もがり)という風習があって、中世日本に風葬の伝承があることから、仏教以前は日本は風葬だったかもしれません。沖縄の洗骨も一種の風葬と言えるようです。まぁ風葬は世界各所であったようですが、言葉が同系であること含めて、沖縄が日本人の一派であることは疑いないように思えます。物忌みも言葉を含めて日本と沖縄に共通します。

念のため、何でもウリナラ起源の韓国に関して言えば(くどいようですが、裏を返せばそれだけ日本古代の話に韓国起源説がでしゃばってきて目にすることが多いということです)、検索するとその基層のシャーマニズムは巫俗といって、元は男女半々であったり、被差別民だったりして、詳しくありませんが、あまり似てないように思えます。元々言語系統も違いますしね。

石川県小松市の観光(古代日本と北陸、安宅住吉語源考、加賀百万石の失われた巨大浮城及び経済と文化、世界のコマツ)

2018-12-04 05:39:56 | 日本地理観光
小松市内を貫流する梯川(国土交通省ホームページ 梯川

石川県小松市はコマツの企業城下町で金沢都市圏に次ぐ石川県南部の第二の都市。航空自衛隊との共用飛行場小松空港があって、北陸の重要な物流拠点でもあるよう。以下、筆者の3日前のツイッターの再録・修正・追加・まとめ記事になります。

小松市の観光名所①粟津温泉と泰澄大師。

加賀温泉郷は主に加賀四湯(小松市の粟津温泉、加賀市の片山津温泉、山代温泉、山中温泉)を指し(山代温泉、山中温泉の歴史もかなり古いようです)、粟津温泉はそのひとつ。粟津温泉は修験道の僧で白山信仰(北陸鎮護の大社 白山本宮・加賀一ノ宮 白山比咩神社)で知られる白山を開山したと伝えられる泰澄(越(こし)の大徳、鎮護国家の法師、正一位大僧正位)開湯と伝えられ、1300年の歴史を持ちます。粟津は内陸部にあって地名に津がつくのが疑問ですが、大きな川はないようで、琵琶湖最南端部の瀬田川河口西岸の粟津庄と関連があるかもしれません。

粟津温泉の泉質は美肌の湯(温泉ソムリエが教える!美肌効果のある「美人の湯」「美肌の湯」って? マイトリップ)とされる硫酸塩泉。

泰澄は越前国麻生津(福井市南部)で豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれます。若き日に修業をして悟りを開いた山が丹生山地の奥深くの越知山(日本山岳会)。越智は伊予(愛媛県)に多い(県内で4番目)名字ですが、大和(奈良県)にも多いそう。越智という地名がある奈良県高市郡高取町は古墳も多く、飛鳥から吉野や紀伊に通じる道の途上にあたる位置にあって、渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)がこの地域に定着したようです。中世越智氏は大和における有力な存在で北部の筒井氏に対抗していました。東漢氏の祖は阿知使主(あちのおみ)。修験道の祖とされるのは役小角ですが、役氏は地祇系賀茂氏で三輪氏と同族。三輪氏は神(みわ)氏とも書き、大三輪氏(大神氏)ともいう。つまり三神安角の次男である泰澄は、元々修験道の家系に生まれた地方のエリートだったのかもしれません。この越前と大和の関係は継体天皇に遡る可能性もあります。

そういう訳で、粟津温泉には国内(世界)最古級の旅館「法師旅館」が存在することでも知られるようです。貨幣経済が発達してなかった時代の「旅館」とは疑問ですが、恐らく日本には古来湯治という温泉地に長期間滞留して温泉療養を行う文化があって、粟津温泉では法師旅館が滞留者を泊める役割を担っていたのでしょう。

付近には泰澄法師が、越前国江沼郡に千手観音を安置したのが始まりとされる那谷寺(高野山真言宗別格本山)もあります。那谷寺による那谷寺の見所としては那谷寺のヒミツ。後で触れますが、小松城を築いた前田利常が那谷寺を再興したようです(前田利常と粟津温泉 あわづの歴史 あわづ温泉)。

話は逸れますが、越前(福井県)麻生津という地名に関して。内陸部で津(港)のつく地名に違和感がありますが、越前平野には一級河川九頭竜川(流域面積は福井県の面積の約70%)が流れます。麻生という地名は麻の生えている土地を意味する日本の地名です。縄文時代の衣服も麻だったのではないかとも言われるようです(縄文人の衣食住)。縄文の縄とは麻ではないかとの推測もあります(麻の歴史(前篇) 日本麻紡績協会)。いずれにせよ、15世紀末~16世紀中頃に木綿の栽培が始まり、麻に取って代わるまで、広く日本で衣服に使用されたのが麻です。綿花はインド原産で12世紀にベトナムから中国に伝わり、明代15~6世紀に長江下流で綿業が発達し全国に普及したそう(綿織物/木綿 世界史の窓)。インド綿はインダス文明が起源で、長くインドの特産品だったようです。話が逸れましたが、埼玉の津(万葉遺跡・小埼沼 行田市教育委員会)の例もあり、内陸部で津も無くはないのでしょう。

修験道の歴史ももはや分からない部分は多いとは思いますが、古墳時代に大和中心に前方後円墳の宗教が全国各地に広がったことは間違い無さそうで、そうした大和中心の宗教の一側面が修験道(の前身)だったんじゃないかと思います(後に密教を中心とする仏教と習合して確立したようです)。(三輪山信仰の)大三輪氏(大神氏)と三神氏が関連する可能性は既に指摘しました。日本や皇室を小さくみようとする歴史学は完全に失敗しており(邪馬台国をリーダーとする倭国は九州を支配するに過ぎないだとか、ヤマト王権表記だとか、王朝交代で皇室は連続していないの類)、いずれ修正を迫られると考えていますが(「記紀そのまま完全に事実」に対するアンチテーゼぐらいにはなったでしょうか)、北陸というのはかなり日本(大和)に近いところはあったと思います。

埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣記述の年代は471年が定説。雄略天皇に仕えたとされるヲワケの剣で、その先祖がオホヒコ。オホヒコは四道将軍の大彦が通説です。これが金石文として出土したことに非常に大きな意味があって(銘文にあるワケとかヒコとかスクネとかいう人名は記紀の記述のある程度の信憑性を裏付けるものと言え、ワカタケルとして記憶された天皇が後に雄略とされたという話です。)、概ね日本書記の四道将軍の記述に類する歴史的事実があったろうことが推定できます。ここからは自分が知る限り、筆者個人の説ですが、大彦は崇神天皇の一世代前の人物ですから、北陸への遠征は崇神天皇以前に遡ると考えます(ずっと後の戦国時代においても「美濃のマムシ」斎藤道三一代の国取り物語ですが、当時の資料の研究の進展から父である新左衛門尉との二代に渡るものが定説になっています。ですから、2~3世代の事跡を「開祖」に纏めて不思議はありません。崇神天皇は古事記によれば「はつくにしらししみまきのすめらみこと」です)。東海に派遣された武渟川別は大彦命の子で崇神天皇と同世代と見られ、会津説話は少し怪しいような気もしますがそれはともかく、武蔵(埼玉県・東京都)は元々東山道で、北陸経由で東山道の方が一足早く大和中心の日本に組み込まれたような気もします。だからこそヲワケの祖先は大彦命であって武渟川別命を経由していないのかもしれません。こうした考古学的証拠によれば、魏志倭人伝の三世紀の倭国が九州に収まっていたとは到底考えがたいところですが(如何にも任那の日本支配を否定したい半島に都合のよい考え方でしょう)、残念ながら日本の歴史学会は両論併記の傾向にあります。筆者の考えでは大和中心の日本が現状より古くに遡ると同時に北陸の歴史も遡って古くなると考えています。

小松市の観光名所②安宅の関(まるごと・こまつ・旅ナビ)と安宅住吉神社、勧進帳の時代。

安宅の関は藤原北家利仁流冨樫氏が設けたと言われる関ですが。源義経・弁慶で有名な歌舞伎十八番「勧進帳(歌舞伎演目案内 – Kabuki Play Guide –)」の舞台。資料的根拠で関の実在性は疑われていますが、北陸道の能美郡安宅駅は当地。

安宅住吉神社「安宅住吉神社について」によれば、安宅住吉神社は古くより陸・海路の要所として栄えた北国の港安宅の地に祀られ、人生に於ける道先案内の神、開運厄除、交通安全、縁結び、また難関突破の霊神として多くの信仰を受けているそう。勧進帳の舞台を擁しご利益がありそうです。住吉信仰については日本三大住吉 御朱印めぐり | 楽しい御朱印めぐり参照。

>住吉三神(住吉大神)とは、伊邪那岐尊と伊邪那美命の子で海から生まれ出た底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称になり、海の神、航海の神などとされています。神功皇后が新羅に出征の折、住吉大神に祈願し、国の安定をはかられたことが元になり、住吉大神の信仰が発展することになったと言われています。

住吉三神は渡来系海人族に結び付けられることが一般的なのですが、国産み神話に関わる神なのですから、普通に考えて日本土着の海の神だと思います。代表的なのが大和の港である摂津、山陽道の西端長門、北九州筑前(博多)ということなのでしょう。日本書記における記述は「「海の底に沈き、潮の中に潜き、潮の上に浮き、濯ぎたまふ」by日本書紀」(日本神話.com)参照。

3~4世紀当時も航海は危険でしたから、神に祈ることは当然であって、住吉三神の起源は少なくとも神功皇后の時代まで遡ると思います。その重要な神様が記紀神話に記録されたということでしょう。

スミヨシの語源が良く分からず考えたのですが、住吉(区)のお隣の住之江(区)は「澄んだ入り江」(ウィキペディア「住之江」2018/12/04)のようです。地名でヨシと言いますと、まず日本に広く分布し古くから利用されてきた元はアシ(葦)というイネ科の植物を想起しますが、これは日本書記で豊葦原(とよあしはら)の国が見られ、この時は葦なので関係ないことは明らかです。良しかなと思うものの澄み良しという地名に確信がなく、ついで国吉(クニヨシ)という地名を想起しました。「国吉」名字の由来、語源、分布(日本姓氏語源辞典 人名力・別館)によると、沖縄だけでなく、千葉・山口の地名でもあり、高知・富山・広島でも古来記録のある地名のようです。ただやはり語源に関して今ひとつピンと来ません。ついで「ヨシ 地名」で検索したところ3番目に「広島県に三次市という市がありますが、「三次」と書いてどうして「みよし」と読むのですか? 漢字文化資料館」がHit。どうもミヨシという音にヨシと読むことがあった次を宛てたのが三次という地名のようです。よりメジャーな三好も同じですね。これで大体分かってきたような気がします。ミヨシは美+良しで一種の瑞祥地名なのでしょう。国吉も恐らく同じで、住吉も澄み良しで瑞祥的な地名・神名だったのだと思います。昔は漢字を適当に宛てており、場所によって使われる漢字が違ったり、縁起のいい漢字変えたりすることが良くありました。大阪の住吉が百済系という説もあるようですが、摂津百済郡(当時の大阪には白村江の戦い等に関連して亡命者が住んでいました)が住吉郡に編入されたことから来る誤説ではないかと思います。読みは「よし」(良し・善し・好し)の古形はえしだと言われ(コトバンク・weblio辞書参照)、スミヨシではなくスミエシだったかもしれません。いずれにせよ、スミは他に住み、隅、済み、棲み、墨、炭等あり、ヨシも他に由、芳等あって、スミヨシが和風の名前であることは動かないように思います。これが近年の歴史学に存在する「一国史観を批判し、国境を越えた海域史の観点からダイナミックに歴史を読み替えていこう」という風潮(「海の王国・琉球」(上里隆史 洋泉社新書)17p)や縄文人=南洋人の固定観念、弥生人=渡来人の固定観念の悪影響で分からなくなっていると筆者は考えています。詳細は別の機会にしますが(いずれ全て記事にするつもりですが)、その意味する範囲や表す言葉はともかく日本は外来のものを受け入れながらも日本は日本であって、それは氷河期旧石器時代まで遡るだろうと思います。

安宅は一級河川梯(かけはし)川(安宅川)の河口周辺に位置します。名称は寇が浦に由来すると言われているようですが、検索では古地図で名称を確認出来ず、暴れるを意味する「あだける」から来た「暴れ川」が由来かもしれません。暴れ川を意味する地名としては荒川が有名。「方言で「あたける」ということばの、石川県金沢での具体的な用例について」(レファレンス共同ベース)を参照すると、当地ではあだけるに転訛したかもしれませんが(それで分かり難くなったかもしれませんが)、いずれにせよ、「あたける=暴れる」は割に使われるようです。加賀の暴れ川としては、手取川がより有名なようですが(ですから分かり難かったかもしれませんが)、梯川も江戸時代から明治時代まで蛇行して流れ、洪水が頻発していたようです(第2章梯川流域等の概要 国土交通省北陸地方整備局)。

ですから安宅の拠点は小山に築くのが適切だと考えられますが、源平合戦の頃(勧進帳の時代)、南北朝時代の戦記史料に見える安宅城は、(現安宅住吉神社がある)二堂山あたりだったと考えられるようです(「小松市安宅城」 小松だよ!小松市の史跡・古道探訪!!)。

安宅の地名としては他に、徳島市と紀州(和歌山県)白浜町が知られるようです。徳島市は日本三大暴れ川のひとつ吉野川を擁し、白浜町安宅は蛇行する日置川河口付近に存在します。紀伊国牟婁郡安宅荘(白浜町)に興ったのが淡路水軍安宅氏(武家家伝)。安宅船は室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた(ゲーム等で馴染みの)軍船ですが、その由来は諸説あるものの、日本の船名としては、肥前松浦の松浦船、熊野灘の真熊野船のように建造地・使用地名が多いそう(ウィキペディア「安宅船」2018/12/02参照)。また、淡路水軍安宅氏説(最有力と思いますが)、「あたける」説、北陸の安宅説、陸奥の阿武隈川流域を指した古地名の阿武は全て同じなのかもしれません。阿武隈川は暴れ川であり、アタケクマ川が漢字の読み違いでアブクマ川になったかもしれません。クマ川の例:球磨川・熊川・久万川・隈川。

結局のところ、安宅は安宅川=暴れ川に由来し、当地の重要拠点が渡河前の河口の小山にあって、安宅駅も付近に存在したのではないかと思います。梯川の名前も渡河に関係した(下流の)名前ではないでしょうか。上流域では大杉谷川と呼ぶようです。漢字は当て字で、深い意味はないんでしょう(日本の古い文献の漢字に意味を求める人はあまりいないと思います)。冨樫氏は室町幕府の加賀の守護大名としても知られますが、古く加賀に根付いており、拠点は加賀(石川県)中部野々市の冨樫郷だったようです(富樫のふるさと ののいち地域事典 ※注:文献の記述から富樫表記は誤りで冨樫だと考えられるようです)。

古代道路は結果的に過大な公共事業で後に(源平合戦の頃までには)衰退しましたが(貨幣も律令も大体同じです)、地名や記録が残っていることは当時の地方の歴史を考える上で重要だと思います。

源義経の平泉に向かうルートは諸説あるようですが、安宅を通って不思議はありません。また、源(木曽)義仲及び北陸宮の挙兵との絡みでも北陸はこの頃登場し、加賀・越中境界の倶利伽羅峠は知られるところだと思います。

小松市の観光名所③加賀百万石と北国街道・北前船。

加賀藩は前田利家が開祖で百万石を有し、江戸時代最大の藩でした。支藩の大聖寺藩や隠居領を含めると、一族全体で120万石に達したとか。北国街道とは近江(滋賀県)―美濃(岐阜県)国境の関ヶ原から越後(新潟県)高田に向い分岐する参勤交代のルート(北国街道 松川遊覧船 富山観光遊覧船株式会社)。参勤交代では主に距離的に近い北回りルートを選択しましたが、当然日本経済の中心地である上方や御三家筆頭尾張藩を中心とした東海地方に向かう場合は北国街道を南下したでしょうし、領内を結ぶルートとしても小松市付近の道は重要だったはずです。参考:グーグル検索「北国街道 町並み 小松」及び「北国街道 加賀藩の参勤交代ルート : 三道楽ノート(個人ブログ)」

安宅の町づくりに関しては「観光ルネサンスの現場から~時代を先駆ける観光地づくり~(161)」北前船の寄港地安宅のまちづくり(石川県小松市)(旬刊旅行新聞 2018年6月28日)参照。江戸時代の海運業(北前船)で栄えた安宅は北國銀行のルーツで文化遺産も多いようです(北前船で栄えた安宅の町と北國銀行のルーツ米谷半平家 金沢歴活)。北前船に関しては、江戸時代の海運と五街道(江戸時代の醤油文化)参照。明治時代北陸本線の開通まで安宅の海運は町を支えて文化を残したようです。北前船は意外に北海道や東北・北陸と大阪を結ぶだけでなく、途中の伊予(愛媛県)を含む瀬戸内海地域とも関連が深かったかもしれません(17. 江戸時代 伊予の産業 浦岡胃腸クリニック)。

>まず大阪で木綿と砂糖を積み込み、灘で酒、赤穂で塩を買いつけ、伊予で蝋や鬢付け、長州中の関(現在の防府)で米・紙・蝋、下関で繰綿を買って北上し、蝦夷にいたる諸地域で売りさばき、蝦夷では木綿の肥料となる大量のにしんを買いつけ、上方にいたる諸地域で売りさばきました。

小松市の観光名所④小松城(小松城天守台(まるごと・こまつ・旅ナビ))と前田利常・加賀百万石の文化。

一国一城令の廃城後に加賀藩3代藩主前田利常の隠居城として例外的に幕府から認められ、小松城は復活しました。利常の正室は第2代将軍秀忠の娘珠姫。次代の前田光高は正室との間に生まれた嫡男。その広さは本城である金沢城の倍近くもあったとか。梯川の水を引き入れ、巨大な湖沼に浮かぶ12の島を石橋、木橋で連結した全国でも珍しい「浮き城」だったと言います。名城だったそうですが、廃藩置県後、城内の建造物は入札によって払い下げられ、土地開発の結果、遺構の保存状態は良くないとのこと。類稀な景観であったろう小松城の縄張に関しては、小松城(近江の城郭)参照。小松城浮島にちなんだ小松城浮城マッププロジェクトという地域活性化プロジェクトもあるようです。

前田利常は京の文化を導入・振興し、加賀ルネサンスと言われる一時代を築いたと言われます。九谷焼や加賀友禅、蒔絵、金箔といった伝統工芸や和菓子等、この時代に始まった物は多いようであり、当然小松市やその周辺にも伝統工芸品産業は残ります。

小松市の観光名所⑤小松製作所関連観光施設。

まず、遊泉寺銅山跡(環境王国こまつ)。安永元年(1772年)に開鉱した遊泉寺銅山を近代的に経営したのが、吉田茂の実兄竹内明太郎(高知県宿毛市出身)になります。国産第1号車のダットサン(DAT)のTは竹内明太郎の頭文字だとか。竹内明太郎は遊泉寺銅山閉山後に鉱山機械製造の小松鉄工所を経て小松製作所(建設機械・鉱山機械)を立ち上げたことが、世界のコマツ(建設機械で米キャタピラー社に次ぐ2位)に繋がっていきます。今、その貴重な遺産を後世に伝えようと跡地に広場や遊歩道が整備されています。

2011年にこまつの杜がオープン。世界最大級のダンプトラック「コマツ930E」が展示されているとのこと。

最後に、古代から現代まで小松市は栄えたのであって、その文化遺産を活かし、かつ新しい観光の創造をすることによって、益々小松市の観光は発展すると思います。

大嘗祭を内廷費でやるべきか(五穀豊穣、天皇彌榮)

2018-12-03 08:31:52 | 日記

農林水産省ツイッター(17:21 - 2016年11月23日)

秋篠宮さま きょう53歳に 大嘗祭めぐり政府決定と異なる意見
(2018年11月30日 NHKニュース)

>秋篠宮さまは30日、53歳の誕生日を迎えるにあたって記者会見に臨み、来年の皇位継承に伴う伝統儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」の費用に、公的な予算が充てられることについて、儀式の宗教色を踏まえ、天皇の生活費にあたる予算から支出されるべきだという考えを示されました。

大嘗祭が違憲であるとか止めるべきとかそういう意見ではなく、内廷費から出すべきだという意見を示されたということなのですが、先ほど「大嘗祭反対」で検索してみたところ、投稿時期は秋篠宮殿下の発言以降でないものの、1位で「終わりにしよう天皇制集会」の人や3位で「大嘗祭は悪魔崇拝そのものだ」の人がひっかかって、安倍政権及び皇室に強く反発している人と立場が近いと誤認されかねない懸念はあると思います。安倍政権に対してと同様、皇室に強く反発する自由はあって(ノールールという訳でもないんですが)、そうした方々の勢力はあまり強くはないようであり、皇室もその意味で懸念はしていないと思いますが、そういう絶対的に相容れない立場を保持する方々がニコニコ近づいてくる危険性はあると思います。

ただ、秋篠宮殿下は記事によると、「平成の「大嘗祭」の時から同じ考えだったということで、今回もこうした考えを宮内庁の長官などに伝えてきた」のだそうです。皇室の祭事ですから、やはり懸念等ない方が望ましく、記事によると宮内庁は殿下に説明してきたとしていますが、結果的に殿下の懸念は払拭されなかったようで、残念なところだと思います。

大嘗祭に国費を支出するか内廷費で支出するかなんですが、平成30年度で3億2,400万円の内廷費の内、『週刊ダイアモンド 2016 9/17 36号』(ダイヤモンド社)(ウィキペディア「内廷費」(2018/12/03)から孫引き)によると、宮中祭祀の関連は8%程度を占めるに過ぎないようです。ですから、内廷費でやる大嘗祭とは予算面で宮中内でやる新嘗祭同様の小規模ものにならざるを得ず、明治以来地方で行われた明治天皇・大正天皇・昭和天皇・今上天皇の全ての大嘗祭を受け継がない異例のものになってしまい、到底時の政府が受け入れることが困難な厳しい意見だと考えられます。仮に戦前のものを別として方針転換するなら今上天皇の時だったと思う訳です(その時も秋篠宮殿下は懸念を伝えられ、今に至るまで懸念は払拭されなかったようです)。

今は即位の礼が国事行為で、大嘗祭が国事行為にあたらない内廷費以外の臨時予算でとりおこなわれており、位置づけが曖昧なようです。ただ、大嘗祭とは「天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭」であり、儀式の性質上、新嘗祭より大規模に行う必要性があると考えられます。律令制が整備されて以降、一世一代の践祚大嘗祭は大切にされてきた儀式のようです(戦乱で皇室が困難な時に221年間行われなかった時期もあるようです)。つまり、大嘗祭を内廷費で行うとは、事実上、新嘗祭の規模にまで縮小させるということのようであり、これまでの伝統を引き継がない一種革命的な考え方だということになります。ですから、天皇制廃止を訴える革新派に近い立場に結果的になってしまう訳です。

だとしたら、大嘗祭を即位の礼に連動した国事行為にして公費を支出した方が話が分かり易い訳ですが、宮中祭祀である新嘗祭は内廷費で行われているでしょうから、その性格が問題になってくるんだろうと思います。新嘗祭はそもそも五穀の収穫を祝う風習ですから、これまで違和感があった人はあまりいなかったかもしれませんが、炭水化物をとらない風潮もある昨今では考えられてもいい問題なのかもしれません。いずれにせよ、現政権はこれまで通り、その辺は曖昧にやりたいと考えられます。秋篠宮殿下はその宗教性を指摘されており、それは理解できるところもあるのですが、宗教性を強く問題にする一派は、天皇制自体を否定する一派とほぼ同じであり、衣冠束帯姿にまでクレームをいれているらしい(大嘗祭が合憲・合法であることの法的論拠(協和協会)参照)ことに注意された方が良いのではないかと思います。原理的に宗教性を排除したら、天皇制自体、存続が難しくなります。記紀に皇室は皇祖神の血を受け継ぐと書かれており、記紀を否定したら系譜すら分からなくなり、皇室存続の根拠すら怪しくなってしまい、実際に大嘗祭に否定的な意見を煽動する方々は天皇制廃止論者だったりする訳です。

宗教性に関して言えば、日本において信教の自由について誤解があるようです。例えばアメリカにおいて信教の自由は認められ、政教分離が成されていますが(戦後日本もアメリカ型です)、これは国から宗教性を排除することを全く意味しません。例えば、大統領就任式に聖書は使われますし、アーリントン墓地は無宗教の施設ではなく、無宗教すら含むあらゆる宗教を許容する施設です。また世界にはアメリカ型の政教分離を行わず、信教の自由を保障しながら、国教を定めるイギリスや北欧のような国も存在します。そもそも宗教を否定するなら、死体はゴミ袋に入れて捨てておけとなります。人の死は避けられず、よって国家から宗教性を完全に排除するなんてことはありそうにもありません。

程度問題はありますが、筆者はこの問題に関して特に変えなくてもいいんじゃないかと思っています。あるいはどちらかと言えば、公費を出すなら国事行為と位置づけた方が分かりやすくて良いし、問題もないと思っています。即位に連動した五穀豊穣の大きな願いをワザワザ国に止めさせる必要があるんでしょうか。それを「無駄」と判断するのはあまりにもラディカルに過ぎるでしょう。宗教性と不可分とも言える皇室の存続は寧ろ憲法で保障されているとも言えます。天皇制廃止を主張する方というのは原理的には改憲主義者かテロリストだと言えますが、何故か憲法を変えさせない護憲派として活動したきたという戦後日本の奇観があって、そういう意味不明の迷走を終わらせるのが戦後レジームの脱却ではないかと自分は思っています。

著作権・リンクについて

2018-12-03 08:15:50 | 始めに
著作権は特に拘りないです。あからさまなパクリのみ禁止します。

「引用」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2009-11-29 04:00:22

>引用は権利者に無断で行われるもので、法(日本では著作権法第32条)で認められた合法な行為であり、権利者は引用を拒否することはできない。

リンクもご自由に。リンクの許諾に法的根拠はありません。連絡も無用です。

※以下、インターネット上のルールについて2018/12/03改訂・追記

こちらから引用・リンクする場合も、基本的に許諾を求めず引用・リンクするつもりです(サイトの指示に従うつもりから改訂。ただ、積極的に引用・リンクするつもりもありません。避けた方が面倒はない訳ですから。2018/12/03)。本なんかも(ルールを守り)引用されるのが前提で、引用拒否の本等出版されては寧ろならないと思いますが(結局、一切批判されたくないということなので、そういう思想の人こそ危険な訳です)、インターネットにおいても、勝手に許可制にしてリンクを貼られるかどうか自分が判断する等と主張する方が偏狭であり、危険な訳です。広く自分で公開した以上、批判的な意見が公開されることは有り得るのが当然ですし、法的にもそうなっているということだと思います。それが嫌なら、公開しない自由もありますし、会員制にして限定的に公開する自由もあるんですよね。広く公開しておいて、引用・リンクしたいなら許可を求めろと主張するのが傲慢かつ違法的、あるいはネット上の基本的・法的ルールを知らないか(勉強不足であるか)です。勿論、全部引用して人の意見を自分の意見にするパクリが違法かつ問題であることは言うまでもありません。また、公開した側は非公開にする自由もありますから、勝手に貼られたリンクを勝手に切る自由もある訳です(無料でブログ等を提供している会社は、無料で合意している訳ですし、勝手にアカウント停止する自由があるとは思えません)。それを許可がどうとかいっても仕方ありません。

ひとつだけ問題があるとするなら、批判悪口専門のアカウント等が出来て、リンクしまくって迷惑をかけまくる可能性です。エロ等のサイトにリンクされて仲間だと主張されても困りますが、そういう問題アカウント・ページは運営会社に慎重に勧告・凍結・停止してもらい、その個人・法人をブラックリストに載せるぐらいのことは考えられていいかもしれませんが、そうなればそうなったで、そういう方々は単に気にいらないアカウントやページを問題アカウント・ページだと通報しまくって迷惑をかけまくる可能性があって、中々難しいところだと思います。

もうひとつ。ネット上に公開されている情報を参照するのは、如何なる場合においても問題なく、責任は公開している側にあると思いますが、物理的に公開されている「情報」を「参照」するのは、ストーキングやセクハラといった違法・問題行為になる可能性があるので、ご注意ください。基本的にネット上の行為は見ただけでは威嚇になりませんが、現実世界ではジッと見ることが威嚇・攻撃になりえます。