ワニなつノート

子どもの感情をきくこと




子どもたちのいない場所で毎日を過ごすようになって、
3年が過ぎた。
目の前に子どもたちはいないけれど、
繰り返し浮かぶ、生き生きした子どもたちの姿がある。
繰り返し、同じ場面を思い出し、
子どもと同じ会話を繰り返しながら、
いまようやく、あの日々、
その時々に聞けなかった子どものもうひとつの
声が、
聞こえる。


あの頃のわたしに足りなかったもの。
それは、ただ感情に、子どもの感情に耳を傾けることだった。
わたしに必要だったのは、
感情を聞く力を手に入れることだったと、いま分かる。

あの場所では、子どもたちと、
「お互いにそこにいること」というコミュニケーションがまずあった。
しかも、最初から、親密になること、信頼できることが、
当たり前の前提から、出会い、始まる関係があった。
その感覚は、その出会いと関係の場所を失くして
はじめて実感できたことだった。

お互いにいつもそこにいること。
同じ生活の場を、
お互いに中心にしている生活の場が同じであること。
同じ時間、同じ場所にいること。
何かをする、ということの前に、
まず「いること」がある。
お互いに慣れること。
目が合うこと。
笑いあうこと。
話すこと、遊ぶこと、
勉強すること、食べること、
走ること、泳ぐこと、

お互いに、「あなたは誰?」
「あなたは今までどこにいたの?」
「どんな人生を歩いてきたの?」
「これからどこへいくの?」
「何をするの?」と、
コミュニケーションを存在で語り合っていた。
「今日も会えたね」
「楽しかったねー」
「また、今日も会えたね」
「いつも会うね」 
…そうして1年、2年が過ぎると会えなくなる。
その繰り返しの年月。

そこで、私は子どもたちと何をしてきたのだったか。
何より私は、・・・子どもたちといたおかげで、
自分の感情を豊かにすることができた。
一人では決してできなかったこと。
大好きな子もいたし、初めは大嫌いな子もいた。
楽しいも苦しいも、うれしいも悲しいもあった。
たくさんの笑いと、涙と、声と表情が、
いまも鮮やかに私の中に大切につまっている。
その無意識の膨大な感情の豊かさを、
いま心から子どもたちに感謝している。

何ができたとか、教えたことがうまくいったとか、
そうしたことより何より、
ただ、子どもたちと十分なコミュニケーションを、
私はしてきたのだと思う。

小学校1年から高校卒業までの12年間、
家庭教師をしながらつきあった女の子に、
一番覚えていることは何?と最後に聞いたことがある。
「先生と練習して、自転車に乗れたこと」
私はすっかり忘れていたことだった。

そうしたわたしが「忘れている子どもたちとの時間」
そのコミュニケーションすべてに、いま喜びを感じる。
それは、私が「いまここに」生きている喜びが
あふれている日々だった。
子どもたちと交わしていたのは、お互いの感情の流れだった。
私はもっともっとそのことを大切にできたらよかった。

そうしたら、子どもたちともっと豊かにつきあうことができた。
もっと。もっと。

そう思い続けて、3年が過ぎた。
いまさらだけど、
あのころ聞こえなかった子どもの声が少しだけ聞こえてくる。
いまさらだけど、
子どもの感情を聞く力がどういうものか、
少しだけわかってきた。




2008年4月7日。
また子どもたちの新しい一年が始まる日。

すべての子どもたちの未来と希望に、
乾杯
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