昔、「手をかすように知恵をかすこと」という文を書いた。
そこで、「見えない人」「聞こえない人」「歩けない人」と、書いた。
あなたが歩けないなら、あなたがみえないなら、あなたがきこえないなら。
あなたがよめないなら、「手をかすように知恵をかし」、「安全の手がかりになりたい」、という思いを書いた。
つもりだった。
いま、その思いを改めて書こうとして、そのようには書けないことに気づいた。
「あなたが笑えないとき、私が安全の手がかりになれるように」
そのあとに、あなたが歩けないなら、あなたがみえないなら、
あなたがきこえないなら、あなたがよめないなら、
あなたが息ができないなら、
ここまで書いて、手が止まった。
できない、できない、できない、できない、と私が書く。
私は、子どもたちの「できない」を一番の目印にして、何かを訴える言葉しか持っていないのかと。
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そこで、女の子の声が聴こえた。
「わたしは息ができる」その子はそう言った。
7歳の人生を閉じる前。
一年生になって「できるようになったこと」という宿題に、「わたしはいきができる」と書いた。
会ったことのないその子のことば、その声に、私はずっと耳をすましてきた。
その声を自分が聴けるようになりたくて。それはゆきみちゃんと同じように、一年生の終わりに人生を終えたゆうりちゃんとけいちゃんの声を、聴きつづけることだった。
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どうしたら「いきができる」ようになるか。
もちろん呼吸器も医療も必要なのは前提にある。
でもその子が教えてくれたのは、もう一つの「いきができる」話だった。
ふつう学級で一年生をおえたゆきみちゃんが教えてくれたこと。
学校や教育委員会の意地悪(危険の合図)があったにも関わらず、それ以上の「安全の手がかり」があった。
ふつう学級の、友だちの笑顔と安全のてがかりがたくさんみつけられた。
だから、わたしはいきができる、ようになったと教えてくれた。
「安全の手がかり」をみつける腹側迷走神経系は、まさに「心臓」と「呼吸」を調整する神経なのだという。心臓と呼吸を調整し健康的に生きるために不可欠なのが、社会的つながり、社会交流の神経そのものだという。
ゆきみちゃんは、最先端の迷走神経系研究を、ふつう学級で体験していたのだと分かる。
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私は、自分の言葉を、覚えなおそうと思う。
「あなたが歩けないなら、みえないなら、きこえないなら、よめないなら、息ができないなら」でなく。
医療的ケアもメガネと同じ。日常生活の補助に過ぎない。
だから、ただ「車いすユーザー」「呼吸器ユーザー」と。
「重度」という言葉ではなく、ただ、『より多くのサポートユーザー』と。
「車いすユーザー」(赤ちゃんも老人も)
「呼吸器ユーザー」(子どももASLの国会議員も)
「手話ユーザー」(コーダもソーダも)
「より多くの情報アクセシビリティ・ユーザー」(言葉を使わない子も外国人も老人も)
「より多くの日常サポートユーザー」(社会的養護の子たちも)
ここから自分の言葉を、出直してみようと思う。
(つづく)