前回のメモで、「障害の重い」という表現を使った。
急いで、言い訳しなくちゃ。
障害を「重い・軽い」で語ることは、「医学モデル」の理解で語ること。「医学モデル」に取り憑かれたままの社会では、「専門家しかみれない障害」があると、教師も政治家も思い込んだままになる
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正直に言えば、私も「医学モデル」や、「国際生活機能分類」のことはよく知らない。
ただ、子どもとつきあう中で、障害を「医療的」にみる態度をやめること、なら分かる。
「重いとか軽い」とみる態度をやめること。
「直すとか治る」という言葉遣いを手放すこと。
「憐れむとかかわいそう」とみる、自分の感情の動きに立ち止まること。
「医療的な発想」や「救済的なすべて」の考え方から、離れること。
そうしてはじめて、「障害のあるふつうの子ども」という言葉が腑に落ちてくる。
医療的ケアのユーザーも、メガネのユーザーも、車椅子ユーザーも、自転車ユーザーも、使っている道具の違いに過ぎない。
どれを使っていても、子どもは子ども。ただの子ども。
一人一人「違うのがふつう」の子ども。
「いるだけ」が、子どもにとって「安全」であるために。
「できる・できない」に囚われない。
そうすれば、「べき」とか「なおす」とか「なぜ」がなくなる。
それを表現するために、今ここでは「障害の重いとみなされる子こそ、先に」という。