見るべきものは、みんな見せてきた。
この子が私の子どもに生まれてきてくれて、
兄弟より、何十倍も手をかけさせてくれて、
いくつもの病院通いに学校の呼び出しと、
数え切れないほど苦労をかけてくれて、
そのくせ、お母さんと呼んではくれず、
ママでも母ちゃんでもなく、
ありがとうも、ごめんの一言も言ってはくれない。
おかげで私は、この子の顔の表情やしぐさで、
この子のことばを聞けるようになった。
顔をみなくても、後ろ姿でだって
この子の気持ちを聞くことができた。
…本当のところ、
この子がどんなことを考えているのか、
何をしたいのか、どこに行きたいのか、
わからないことはいっぱいあった。
だって、この子はちゃんと言葉では話してくれないし、
専門家は、人によって正反対のことを言うし…。
でも、あるとき思ったの。
この子のお兄ちゃんも、
何でも親に話してくれるわけじゃない。
言葉が話せるからって、
何でも言葉で説明できるわけでもない。
わたしもそうだった。
それまでは、いっぱい迷って、いっぱい悩んだ。
わたしは、この子に何をしてあげればいいのか、
どうしてあげればいいのか。
本当にこれでいいのか、
本当はもっといい方法があるんじゃないか。
もっといい環境があるんじゃないか。
もっともっとこの子の能力を
伸ばしてくれる人がいるんじゃないか。
もっといい母親が、この子の母親だったらって
考えたこともある。
でも、仕方ないわよね。
この子の母親は私なんだから。
私しかいないんだから。
「子どもはみんな、親を選べないのよ」って、
あきらめてもらうしかないわね
そう思えたから、
いい所、よりいい所、もっといい所を、
探すのをやめられたのかもしれない。
もっといい所、もっといい所って言ってたら、
きりがないわよね。
それを探しているうちに、何年も過ぎて、
気がついたときには、
この子の「子ども時代」が終わってしまう。
そんなことになったら、取り返しがつかない。
この子のためじゃなく、
ただ、私のための「いい所」になってしまうところだった。
いまは、この子に感謝してる。
この子が、自由に笑いながら、
もちろんしょっちゅう周りともめたりしながら、
自由に、この子のままで生きている姿を見ていて、
わたしとこの子が歩いてきた道は、
人の出会いにあふれた豊かな道だったと、
今はよくわかる。
見るべきものは、みんな見せてきた。
そのことだけは、自信を持っていえる。
先のことなど何も見えなかったけれど、
ことばもしゃべらず、
できないことだらけのあなたが、
どうやって、成長し、大人になり、
どうやって生きていくのか。
先のことなどまったくわからず、
まして、この子が二十歳?この子が三十?
未来のの暮らしのことなど見えず、
その時々の、目の前のことだけでせいいっぱいで、
「いるだけでいいから」って叫んだこともあるけれど、
せいいっぱい、その時々に、
わたしとこの子にできるせいいっぱいの選択を
ひとつひとつ確かめながら歩いてきたことが、
いまここにつながっている。
あのころの、私が信じていたものはなんだったかしら。
分からないことを、
分かったような正しさで勧められる道は、選ばないこと。
分からないことは、みんなと一緒にいるなかで、
この子が自分で選ぶことにゆだねること。
無責任みたいに言われることもあったけど、
でも、先生だって、この子のこと、
この子の気持ちなんて分かってないじゃないって
何度も思った。
どうしてあの人たちは、この子のことをよく知らないのに、
この子のためには…って言えたんだろう。
どうしてあんなに自信ありげに、
この子の将来を語れたんだろう。
この子の将来のために、
何をしてあげるのが一番いいかなんて、
私に教えようとしてたんだろ。
あれから二十年が過ぎて、
あのころのあの人たちには、
いまのこの子の姿が、
影も形も見えていなかったのだと分かる。
あのころ、迷わされた言葉に、
何の根拠もなかったことが、
今は誰よりもよく分かる。
子どもの季節を通り過ぎて、
この子が親元を離れていった今、
家には、学校のアルバムが残っている。
小学校、中学校、高校と、
その時々のクラスメートの中で笑っている写真、
よそ見してる写真があふれてる。
その写真を眺めていると、
わたしは、あなたの人生を、
ちゃんとあなたにゆだねて生きてこれたとわかる。
見るべきものは、みんな見せてきた。
通り過ぎて、いちばん不安に思っていたこと、
確かなことがわからず迷っていたことの答えが、
通り過ぎて、いま確かにわかる。
見るべきものは、みんな見せてきた。
他の子どもたちと同じように、
特別なことなど何一つなくとも、
ただ、それでよかったのだと。
小学校、中学校、高校と、
他の子どもたちが十数年をかけて学び生きる日々を、
この子はすべて同じように生きてきた。
この子は、この子の人生の子ども時代を、
この子自身の手と足と魂で生きてきた。
いま、親元を離れて
堂々と生きている姿を見ていて、
あなたが大人になるまでの
20年分の自信を、わたしは感じている。
見るべきものは、みんな見せてきた。
そして、みるべきものを、みんな見せてもらった。
あなたのおかげで。
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