《序章》《さきちゃんのこと》
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昨日、『千葉県人権指導者養成講座』でさきちゃんの話を聞いた。講師は橋本智子さんだが、定時制高校4年生のさきちゃんは、まさに「千葉県の「障害児・者」の高校進学とインクルーシブ教育」の当事者そのものだ。
「好きな教科は?」
「国語と体育かな」
「好きな給食は?」
「焼きそばとか肉系」
「部活は?」
「バドミントン部。4年間、やってきた!」
「高校生活で思い出に残っていることは?」
「修学旅行! 京都、大阪、一日目の京都は神社とか」。
「神社って?」
「・・・平安神宮。二日目はUSJ」
学校生活を話す声の表情には、「高校生としての自信と居心地のよさ」があふれていた。
その「高校生で居ること」の自信は、3度の定員内不合格という「校長判断」がいかに根拠のない愚かで無知な行為であったかの証明でもある。
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私がはじめてさきちゃんに会ったのは就学相談会だった。
さきちゃんは入学後も毎年、就学相談会に来てくれた。
お母さんのとなりで話すさきちゃんを十数年見てきて、昨日が一番とびきり、自信にあふれていた。
あの自信は、さきちゃんが地域のふつう学級と高校に13年「居ること」によって形作られた「居方」の表情と声だった。
先週、『介助付き就労の学習会』で、小暮理佳さんや岩岡美咲さんの話を聞いたときの感覚を思い出した。重なりは「自分がここに居ることの自信」あふれる「居方」「存在感」のようなものだった。
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小暮さんは呼吸器・電動車いすユーザーで、「地域の公立学校から私立大学まで比較的インクルーシブな環境だったという。
【日常生活全般に介助が必要でも、なにをするにも「みんなと一緒がいい」。時には壁にもぶち当たりながら、自身の希望を周りに伝え続け、周りのみんなと同じような経験をしてきました。】
岩岡さんは、高校2年生での事故による呼吸器と電動車いすユーザーなので、それまでは「みんなと一緒の存在であること」が当たり前の世界に居た。
さきちゃん(10代)、小暮さん(20代)、岩岡さん(30代)、私にとって娘より年下の人たちから感じる「居ることの自信を受けとる居方、話し方、気配」。この感覚は、ひと昔前の「差別と闘う」人たちから受けた感覚とはまた別のものだ。
言葉の中身よりも、その声と言葉遣いにあふれている「寄りかかり、られ」てある自信のようなもの。私にはそれが一番印象的だった。
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会場から「高校で何か困ったことは?」という質問に橋本さんが答えたあと、私もつい手をあげて質問した。
「いまの質問をさきちゃんにも聞きたい」。
橋本さんもすぐうなずいて、隣のさきちゃんに聞く。
「高校で何か困ったことはあった?」
「なにもなかった!!」
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その「居ることの自信」は、「目に見える」もの、「耳に聴こえる」ものだと、確信するようになったのは、ここ数年のこと。
でもそれは、どこで、どうやって「みえたり、きこえたり、かんじる」ものだろう?
そのことを言葉にしてみたいのだけれど。。。。