「守りたい思い」の中では、うまく書けなかったのですが、どうしても紹介しておきたい森崎和江さんの言葉が残ってしまいました。「ちゃんと」とか思うと、いつになるか分からないので、説明抜きで紹介しておきます。
(A)
ある日、友人と雑談をしていました。私は妊娠五か月目に入っていました。笑いながらはなしていた私は、ふいに、「わたしはね……」と、いいかけて、「わたし」という一人称がいえなくなったのです。
…
私は息をのみ、くらくらと目まいがしました。つい先ほどまで十分に機能していたはずの「わたし」ということば。ひとりのときも、会話のときでも、社会で通用する内容を持っていると信じていた一人称。私の存在の自称。
…
私の総体は、世間の共通の一人称からこぼれ落ちていました。よく知っていた「わたし」が消えていました。夜、おそろしくて涙が流れるのです。
(B)
おなかの子に、何かしら話しかけているせいでしょうか。
私の中の「あなた」に。まだ人格でもない子に。
そんな奇妙な意識の働きは自分で自分に話しかけているときとは違うのでしょうか。私はよく自分に話しかけます。でも、自分に話しかけるときは、「わたし」はくずれないというしくみになっているのでしょうか。人間の意識は。
(C)
「私」ということばの概念や思考用語にこめられている人間の生態が、妊婦の私とひどくかけはなれているのを実感して、はじめて私は女たちの孤独を知ったのでした。
それは百年二百年の孤独ではありませんでした。また私の死ののちにもつづくものと思われました。ことばの海の中の孤独です。
いえ、ことばが不足しているのです。
概念が浅すぎるのです。
(D)
おそらく「産む」ということが人間の営みとして対象化されぬまま、主体的にとらえきれずにきたせいでしょう。私自身が使っていた「わたし」には、くっきりした個の自覚がつまっていました。自我といっていいかもしれません。そこには、肉体の内側から意識を刺激する他者の働きはふくまれてはいませんでした。
…
しかし、あたりを見まわしてみても、胎児をはらんでいる女の一人称にふさわしい内容を持つことばは見当たらず、出産という母胎の働きと、生誕という胎児の働きとを、妊婦の私が統一的に感じるように、分離させずにとらえることばは、どこにもなく、そのことをあらためて気づかせられるばかりでした。
(E)
私はからだ全部が、そして心のすべてが、新生児の前で打ちふるえるのを感じました。私は親で、あなたは子、といった序列などの通用しない対応が、誕生したものと産んだものとの初対面には輝くのだ、と知りました。予期せぬことでした。ぴりぴりと心がふるえました。
ありがとう、と、誕生した生命へ頭を垂れているような感動が走るのです。名前など勝手につけていて、ごめんなさい、と、私は心の中でつぶやきました。心に、しきりに詩が明滅します。
あなたは誰のものでもない
あなたは ただ あなたのもの
春の光があなたにふれて
あなたをのばす
「いのち響きあう」 藤原書店1998年
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