ワニなつノート

代わりの子犬(その2)




《贈った記憶がないのに 感謝されたプレゼント》




《一度も手にしたことがなくても、本当は「そうしてほしかった」ものを、子どもは教えてくれる。》

その言葉を考えていると、いくつかの子どもの言葉が浮かんでくる。


「おれもいい人になれるかな…」
「まだ間に合うかな…」

その言葉をくれたのは、一時保護所で出会った男の子だった。

仲良くなった子でもなく、かわいがっていた子でもない。
むしろ一番嫌いな子だった。

彼を好きだという大人は、何人いただろう?
まだ5年生だったのに受け入れる養護施設はなく、一年後自立支援施設に入れられた。


いまはこう思う。彼は、それまでに信頼できる大人に出会ったことがあったんだろうか。
彼を好きだという大人に、出会ったことがあったんだろうか、と。


「さとうも子どものころ、おれみたいだった?」
「おれもいい人になれるかな…」
「まだ間に合うかな…」

14年前の会話をずっと繰り返している。


彼は、私の中で、とても大切な恩人になっているのに。
あの時、返してあげられなかった言葉をずっと後悔している。

大人になった彼の記憶の中で、私はどんな大人でいるだろう?
彼は、私のなにを見ていたのだろうと、分からないでいる。


             ◇


書類を整理していたら、同じころ他の子からもらった手紙が出てきた。

「さとうさんとすごした時間は本当にたのしかったです。さとうさんと遊んでると、小さい子に戻った気がして、本当にたのしいのです。」

保護所は一年中、子どもたちの出入りがあるので、名前と顔が一致しない子が多い。
「あと一年ぐらいしたら受験勉強です」とあるから、中2の女の子で、名前も書いてあるのだが、思い出せるエピソードがない。

でも、この子は「小さい子に戻った気がして、たのしい」時間を過ごせたと言ってくれる。

             ◇


もうひとつ。20年近く前の高校生の作文。

「先生と出会えて2年が経ちます。陽ちゃんの授業はいつも楽しみにしています。だから、陽ちゃん、私たちが卒業するまでいて下さい。陽ちゃんの授業は私に勇気をくれる授業でした。一年間、いや二年間ありがとうございました。陽ちゃんと授業やれてよかった。またいつか私に勇気を下さい。」


生徒の作文は今もたくさん持っていて、ときどき読み返す。

教員をやめるまでは、授業に関する言葉を中心に読んでいたのだと思う。
でも今はもう授業をしなくていいので、違う言葉に目が行くようになった。

この作文も、今年になって、気になり始めた。
「勇気をくれる授業」ってなんだ?

授業の中身については一個も書いていない。
たぶん、授業の中身の話ではないのだ。

この子も、顔がはっきりしない。いつも「二人」でいた子たちの一人なのだが、そのどちらかが分からない。
その程度のつきあいなので、特に親しかった記憶はない。

でも、「勇気をくれる授業」なんてものがあるなら、私も受けてみたい。
それって、どういうことだったんだろう?

今は38歳くらい、ということになる。
一生会う機会はないと思うが、この作文のことを聞いてみたい気がする。


        ◇


考えてみれば、どの子の言葉も、私には身に覚えのない贈り物へのお礼なのだ。

私は、何を、どうやって、贈ることができたのだろう。

子どもたちは、私が知らずに持っていた「何か」を、どうやって見つけて、受け取ってくれたのだろう。


それを知りたいのだが、どこをどうやって探したらいいのかが分からない。


もしかしたら、私たちはお互いに、《一度も手にしたことがなくても、本当は「そうしてほしかった」もの》を、やりとりしていたのかもしれない。


それは、どうしたら「ことば」になるんだろうか(-。-)y
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