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ワニなつノート

「問う人」と「揺れる親」(その5) 


《4つの問い》



「その問い」は、本当は4通りある。


《健常児と障害児》×《普通学級と支援学級》。
その組み合わせは、次の4通りになる。


A「健常児に、どうして普通学級なのか?」

B「健常児に、どうして支援学級なのか?」

C「障害児に、どうして普通学級なのか?」

D「障害児に、どうして支援学級なのか?」



こう書いてみて、改めて気づく。
使われる「問い」は、Cだけだ。


Cの問いだけが、いかにも「自然」な問いかけのように使われているけれど、他の問いは聞かない。

問う人は、その理由を考えたことがあるだろうか?



支援学級の子に、D「どうして支援学級なのか?」と問わないのは、「答え」を聞くことに意味がないからだろう。

「本当は、みんなと一緒がいい」と、子どもが答えても現実は変わらない。
だから、問わない。

万が一、変えようとすれば、その時にはCの問いが立ちはだかる。
「障害児なのに、どうして普通学級なの?」

それは、「問い」ではない。


           □


ところで、AとBの問いを、聞いたことのある人がいるだろうか?

私は、一度も聞いたことがない。

なぜか?

A=普通学級に健常児がいるのは当然で、自然なこと。

B=支援学級に、健常児は一人も「いない」から。(※)

あまりに当然で、自然なことを、大人は問わない。


           □


Cだけが問われ続けてきたのはなぜか?

それは「問い」ではなく、「私の経験ではあり得ない」という「意思表示」に過ぎなかったのだ。


だから、私が40年かけて集めた「宝物の山」は、ひとつも届かない。
子どもたちの声と言葉とまなざしと表情の「答」のすべてが、私にとっては人生で一番の宝物。

でも「問う人」たちには、ただのざれごと。


問いがあって、「答」があるのではなかった。
答えは最初から、私たち自身の生き方と子どもとのつながりのなかにあった。

そのつながりと生き方に疑問を投げかけるために、その問いは生まれる。


疑問を投げかける形での否定。
それは、すべての子どもの意思と主体感覚を否定するものでしかない。

疑問は、あなたの人生の中に生じたもの。
疑問は、あなたの生き方の過程で、生じたもの。
疑問は、あなたの人とのつながり方に、生じたもの。


あなたの人生の疑問を、どうしてこの子たちが答えてあげなくてはいけないのか。


それは、この子たちの役割でもなければ、私の仕事でもない。
だから、私の中から「その問い」は消えた。

その問いを生む社会とは、別の社会の感覚を、残りの人生で生きたい。


この子たちを、守るために必要なだけしっかりと、ただし捕まえられていると感じさせないくらいゆるく、ひとりの子どもの身体感覚と主体感覚が育つことを願いながら。





(※1)
本当は、支援学級に《健常児はいない》とはいえない。
特殊教育の時代には非科学的な心理判定による間違いがあったし、そもそも「性格異常児」とか「普通学級不適応」と言われてしまえば《健常児》とはみなされない。
まさに8才の私がそうだった。

今は「特別な支援が必要な子」にはすべて特別支援教育が行われる、などと言われ、その辺はよけいあいまいだ。なので、この話はまた別の機会に。

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