「パソコン壊れました」
今は出来るだけ本を読んでます。
マルクス「資本論」、無理と思っていましたが、結構読めるんです。
ただ、読めるだけですが。
パソコンがてに入ればまた再開します。
「構造改革なき成長戦略」
どうも、小説の方が現実に拘泥し過ぎた余り、それは原発問題に
拘った(アンガ―ジュマン)からですが、ただ、少なくとも日本で暮
らす者にとって切実な原発問題を取り上げずに如何なる理想を語っ
ても虚しいだけだと思ったからですが、ところが、あまりにも話し
が現実的すぎてフィクションに戻れなくなってしまいました。例え
ば、その美しさから誰からも愛されたダイアナ妃が、実は幼少の
頃の生い立ちが原因で人格障害だったという事実を暴露してして
しまえば、もう彼女への幻想は語れなくなってしまう。つまり、ノン
フィクションの世界にフィクションを持ち込むことは許されないとす
れば、フィクションの世界で今まさに起こっている社会問題を取り
上げてしまうと再びフィクションに戻れなくなってしまった。まあ、そ
んなジレンマを感じた次第ですが、また章を変えて虚構の話を綴る
心算で居ます。今さらながら小説(フィクション)は現実との距離感を
保たなければならないと改めて感じました。とは言っても、現実を無
視して夢物語に終わっては詮ないので「邯鄲の枕」は借りずにアナザ
ーワールドを綴ります。暗黒の世界に閉じ込められた私にとってこの
創作こそが今のところ天上の一穴から差し込む一条の光明なのです
から。
さて、話しはガラッと変りますが、たまたま目にしたロイターの
ニュースに我が意を得たりと思わせる記事がありました。以下はそ
の記事です。
[東京 23日 ロイター] - 富士通総研の早川英男エグゼクティ
ブ・フェロー(元日銀理事)は23日の記者向け勉強会で、成長戦
略が後退しつつある中で、アベノミクスは「3本の矢」から財政拡
張を金融緩和が支える構図に変化しているとの認識を示した。
そうした中で、日銀が国債買い入れなど追加緩和を実施すれば、マ
ネタイゼーション懸念が高まるリスクがあると警告した。
早川氏は政府の成長戦略について、従来の内閣と比べて「異次元
なものはない」とし、今臨時国会における「岩盤規制」の打破は見
送られるとの見通しを示した。一方、来年4月の消費増税による景
気への悪影響を軽減するため、政府が5兆円規模の経済対策を打ち
出したことで、「第3の矢(成長戦略)がどんどんしぼみ、第2の
矢(財政政策)が膨らんでいる」と指摘。アベノミクスの「3本の
矢」は「財政拡張を金融緩和(第1の矢)が支え、構造改革をスル
ーするものへと変質しつつあるのではないか」と語った。
こうした中で、日銀が掲げる2%の物価安定目標の実現が困難と
なり、さらなる国債の大規模購入など追加緩和に踏み切れば、「マ
ネタイゼーション懸念を高めるリスクがある」とし、足元で落ち着
いている市場が再び混乱する可能性もあると警告。政府に対し、岩
盤規制の打破とともに、異次元緩和の前提ともなる財政の持続可能
性の確保に注力するよう求めた。
デフレ脱却に向けた今後の注目点として、来年のベースアップ(
ベア)を中心とした賃金動向をあげた。来年4月に消費税率が現行
の5%から8%に引き上げられるが、賃金の上昇が限定的にとどま
れば、実質所得はマイナスになると指摘。そのような状況では「さ
らなる物価の上昇を国民は絶対に望まない」とし、2%を目指して
物価を押し上げていく日銀の政策自体に異論が出る可能性があると
の認識を示した。
ただ、日銀は2年で2%の目標実現を明確に約束しており、そう
した局面では「日銀のコミュニケーションは難しいものになる」と
指摘。半年後の日銀は「相当に複雑な連立方程式に直面せざるを得
ない」と語った。(伊藤純夫)
* * *
「岩盤規制の打破」とは構造改革のことだと思うが、アベノミク
スの成否を決する「第三の矢」は「財政拡張を金融緩和(第1の
矢)が支え、構造改革をスルーするものへと変質しつつあるので
はないか」と、既得権に手を付けられなかったこれまでの政策と
変り映えのしないものに終わるのではないかと危ぶんでいる。
それどころか、これまでに放たれた「第一、第二の矢」が落下し
てきて我々を苦しめるかもしれない。もとより、白川日銀は何より
もその反動を懼れていた。ところで、構造改革はそれぞれの意
識改革からしか生まれないとすれば、たぶん危機に直面しない
と意識改革は生まれないだろう。つまり、経済危機による意識変
革が構造改革を生む。だとすれば、この国の経済構造が競争力
を失っているとすれば、「半年後の日銀は『相当に複雑な連立方
程式に直面せざるを得ない』状況に追い込まれ、遂には経済危
機が避けられなくなるのではないだろうか。敢て言えば、私は構
造改革を促す経済危機を待ち望んでいる。
(おわり)
*「邯鄲の枕」・・・《盧生(ろせい)という青年が、邯鄲で道士呂翁
から枕を借りて眠ったところ、富貴を極めた五
十余年を送る夢を見たが、目覚めてみると、
炊きかけの黄粱(=大粟)もまだ炊き上がって
いないわずかな時間であったという「枕中記」
の故事から》人生の栄枯盛衰のはかないこと
のたとえ。一炊(いっすい)の夢。盧生の夢。邯
鄲の夢。「大辞泉」より
「なでしこ、対アメリカ決勝戦」
ったく、女子サッカーの歴史の流れを後戻りさせてしまったじゃ
んか。監督の責任って大きいと思った。実は、選手は相当疲れてる
と思った。例えば、中盤からの縦パスが繋がらずにゴールラインを
割ることが4、5回あったが、互いをよく知る者同士がそんなイー
ジーミスを繰り返すはずがない。つまり、追えないほど疲れていた
のではないだろうか。実際、途中であきらめるシーンさえあった。
パスを貰う選手がどういう状態かというのはパスを出す選手は一瞬
で判断する。足が止まっている選手にはどうしても緩いパスを出す。
それは見方だけでなく相手選手にも見破られてしまいカットされて
しまう。そういうケースが何度かあった。解説者は横パスばかりで
前へのパスが出ないと言っていたが動かないから出せないのだ。ア
メリカの一点目は、ゴール横のライン際のボールにモーガンだっけ
追い着いてゴール前に流し込んだが、ディフェンダーはマークを外
してしまった。恐らく、ラインを割ると思ったに違いない。そんな
ところにも動きの悪さが目に付いた。二点目のゴールはフランス戦
でPKを与えてしまった坂口選手が、多分ファールを恐れて当たら
ずにズルズル下がって抜かれてしまいロングシュートを決められた。
つまり、ナデシコはすでに今まで通りのサッカーが出来なかったに
もかかわらず選手を変えなかった。一方、アメリカは二列目の選手
が飛び出して2ゴールを決めるなど、フォワードが厳しいマークを
受けることを予測して対応していた。坂口、鮫島両選手の交代は同
意できるが2点ビハインドの後ではあまりにも遅すぎた。アメリカ
の女子サッカーは人気がなくリーグが休止しているという。復活させ
るために選手たちはどうしても勝たなければならかった。すでに、
CM等で億の金を手にしたナデシコの選手とはモチベーションが
違っていた。
この後、男子の日韓戦が行われますが、全く興味ありません。
恐らく激しい試合になるでしょうが、香川の例もあるし、W杯予選に
呼ばれる主力選手をケガさせないために引っ込めた方がいいので
はないか。もう、銅メダルなんか試合放棄して呉れてやったらいい。
どうせ彼らは純粋にサッカーの戦いだけを挑んでくるわけではない
のだから。
「正常な精神」
「全国民対象に精神疾患検診=ストレス社会背景、世界初-韓国」
【ソウル時事】韓国保健福祉省は25日までに、2013年から
全国民対象に検診を実施するなど精神疾患に関する総合対策をまと
めた。同省によると、全国民対象の精神疾患検診は世界で初めての
取り組みという。
進学や就職など競争が激しい韓国ではストレスにさらされている
人が多い上、都市化による人間関係の希薄化やインターネット中毒、
アルコール中毒も社会問題化している。
同省の調査によると、精神疾患率は06年の12.6%から11
年には14.4%に増加。また、自殺による死亡率は経済協力開発
機構(OECD)加盟国でトップで、10~30代の死亡原因の1
位となっている。(2012/06/25-18:30)
* * *
何と!韓国では五千万人近くいる「全国民」を対象に精神疾患の
検診をするという。ただ、問題になるのは「正常な精神」とは一体
どういうものなのか、つまり、国民のほとんどが同じような精神状
態であれば、それは民族固有の正常な精神ということにならないか。
というのも、韓国社会は日本以上に儒教思想の呪縛に囚われ、宗族
社会のヒエラルキーから抜け出せないでいる。つまり、個人の自由
を認めない伝統を重んじる民族性に起因するのではないのか。また、
忘れてはならないのが彼国は休戦中とはいえ未だ南北戦争の戦時体
制下にあるということ。かつて我が国も戦時下で国体護持の名分の
下に一億玉砕の集団呪縛をかけられリゴリスティックな監視社会が
支配した。もちろん正常な社会ではなかったが、批判する者は異端
者として処された。つまり、異常な精神社会の下では正常な精神の
持ち主が異常者扱いされる。そして、終戦を迎えてそもそも「正常
な精神」とは何であるか解らなくなり未だに見つからないでいる。
韓国社会そのものが正常な精神を見失っているとすれば、かつての
日本のようにリゴリスティックな社会であれば、もちろんそれは戦
時体制下であるということに因るのだが、国民に対して精神疾患の
検診をいくら行っても、今を生きる個人の眼に映る社会そのものが
古い道徳のままでは国民のストレスはなくならないだろう。
すべての人間は何らかの精神異常を抱えていると精神科医は見る
らしい。それ程でもなくても、どうでもいいことに対して殊更拘っ
たりすることは誰にでもある。精神疾患とは要は軽重の差でしか
ない。軽重の差なら軽くすることは可能なのかもしれない。かつて、
私は潔癖症の人と付き合ったことがある。始めのうちは相手の神
経質な潔癖さに驚かされたが、そのうち、自分の無神経な不潔さが
異常ではないかと思い始めた。つまり、どちらが正常であるか解ら
なくなってしまった。否、正常とは何かが解らなくなってしまった。
そして、「正常な精神」なんて実はないんだと思った。
激変する社会では、社会的要請に個人を従わせようとする。個人
は自分自身であること(ザイン)よりも「かくあるべし」(ゾレン)に
従う。自己を主張して社会に逆らう者は異端者である。韓国だけに
非ず幼い頃からの受験競争を始めとする教育とは個人に対する社会
的洗脳である。人格に社会順応性を形成させようとする。例えば、
境界性人格障害という精神疾患は幼少期の自己形成が情緒不安など
によって阻害され、原因は様々だが、幼い頃からの習い事の強制の
場合だってあり得る、それによって自己が確立されず、もっぱら関
心が外へ向けられ社会(他者)の中で自分を偽装することには「偏
って」長けてさえいる、省みるべき自己が存在しないから。ところが、
いざ自分自身に戻ると虚しさに苛まれ孤独に耐えられなくなり、自
分を忘れるために他者(セックス、アルコール、薬物等)に依存する
ようになる。そして、遂にはそういう自分が厭になって自傷を繰り返
す。それらの疾患は幼少時の情緒不安によってもたらされることは
専門家によって認められていて、親からのDVや育児放棄、両親の
諍いや離婚など、それは何も韓国だけに非ず日本でも精神疾患の
症例者は増加の傾向にある。しかし、激しい競争社会の中を生き抜
いていくには、わかっていても子どものことばかり構っていられない。
更に、子どもが学校へ通い出すとその時から受験競争は始まってい
る。子どもたちは親に関心を向けさようと自分を忘れて勉強する。しか
し、それは決して自分から進んで学んでいるのではない。こうして、彼
らは社会性に於いては知識と忠誠を詰め込ま「される」が、ところが、
自分に関しては何も知ろうとはしない、何故なら正解が与えられてい
ないから。我々は自分自身とは一切係わらず社会の中で生まれ社会
の中で生き社会の中で死んでいく。この「社会」を「檻」に置き換えても
意味は同じです。
経済の発展はそれまで抑圧されていた個人の自由を目覚めさせる。
更に、世界の情報は瞬時に共有され、それによって自分たちが置か
れた現状が見えてくる。韓国はこれまで儒教ヒエラルキーに押し込
まれて若者たちは窮屈な思いをしてきた。彼等が自己主張できるの
は唯一芸能界の中だけだ。それも日本と同じで序列に煩い社会であ
る。若者たちが欧米の個人主義に影響されて個人の自由を主張し始
めた時、儒教思想の洗脳を解いて古い道徳を破壊するのかもしれな
い。否、もうすでにそれは始まっているのかもしれない。
例えば、精神疾患の検診の結果、若者たちの主体性に委ねるべき
だなどという結果にでもなれば、恐らく韓国社会は画一性が失われ
自己主張する者が増えて忽ち韓国の社会秩序は音を立てて崩れ去る
だろう。私はそれが本来の社会の姿だと思う。画一化された人格に
よる安易な服従から新しい可能性は生まれないと思う。自立した個
人による他者(社会)との繋がりからしか正常な関係は生まれない。
ただ、これは日本にも言えることだが、厳しさを増す社会の中で
両親揃って穏かに子育てすることなどほとんど不可能である。子ど
もでさえもおちおち寝てられないとすれば、自己を育てられない子
らによる精神疾患の症例者の増加とは社会的要請の犠牲者だとも言
えなくもない。ただ忘れてならないのは、幼い子どもたちは貧しいこと
などまったく気にも掛けていないし、そんなものよりも親の愛に見守ら
れてひたすら身体の成長だけでなく自己を形成することだけを望んで
いるのだ。
検診の結果を見た精神科医たちは、国民のストレスを減らすために
社会を変えるべきだと提言するのか、それとも社会を維持するために
個人の生活を改善すべきだと言うのか、診断の結果が待ち遠しい。