(一)
夜が明けぬうちから気の早い春告鳥の、忘れていた歌を確かめな
がらのような覚束ない間の抜けたさえずりが、冬枯れの木立にこだ
ましていたが、山々は未だ残雪を止めた水墨画の世界だった。それ
でも、眼を逸らさずじっと眺めていると、モノトーンだった景色も
薄っすらと紅を帯びているように思えて、気になって木々に近づい
て確かめると、雪を被った小枝からは、硬い樹皮を破って朱色の新
芽が争うように吹いていた。残雪を頂く凍みる山の頂からは春を心
待ちする人の想いに冷風を浴びせたが、春は人々の気づかない大
地から染みるように訪れていた。
「バロック、今年も冬が短かったで」
おれは「バロック」と呼ばれている。東京で偶々知り合った、今は
親友となった男に名付けられたが、その男との連絡のやり取りか
ら此処でも知られることになってしまった。もっとも、名前を教え
てなかったので無理もなかったが、今ではこのあだ名はけっこう気
に入っている。それは、自分の名前は変えたいくらい嫌だったから。
「ゆーさん、確か去年もそんなこと言うてたで」
「そうやったか。とにかく雪が少ない、アカンわ」
ゆーさんはおれと同じ大阪の出身で、山村暮らしの先輩でもあった。
彼は大手の電機メーカーの社員やったが、彼の娘さんの身体の心配
から仕事を辞めてこんな山村までやって来た。そこで水流発電機の
開発を思いつき製作に没頭した。やがて発電機は一家の電力を概ね
賄えるまでに改良された。おれは路上で歌を唄って凌いでいた時、
彼と出会ってその発電機のすごさにびっくりして、おれの方から頼
み込んで最初の従業員にしてもらった。もしも、電気が自分達で創
ることが出来たら地方は自立した生活を手にすることが出来るんや
ないか、そう思ったからや。
「お父さん、バロック、コーヒーが冷めるよ」
ゆーさんの娘ミコが、キッチンから外に居る二人を呼んだ。彼女は
化学物質過敏症という厄介な症状に悩まされていて、ここに越して
から随分と良くなっていたが、食べ物や環境が合わないとすぐに卒
倒して意識を失った。彼女は近代生活が出来なかった。
ゆーさんとおれは、残雪の頂を逆光にして漸う昇り始めた朝日を
背に受けて、ミコの居るキッチンへ戻った。
彼女はやっと18になったばかりだった。
彼らが暮らす家屋は昔からの、玄関を入れば広い土間の在る大き
な農家だ。奥の背戸を開ければすぐに竹林が迫る裏山があって、竹
は大きくなり過ぎて上に伸びることが出来ず、今では家屋を襲うかの
ように下へと微妙な均衡の触手を垂らしていた。雪が降り積もれば
忽ちその重みに耐えられなくなって、人の世と同じで、頭を下げて
やり過ごすか、それとも折れるしか無かった。雪が音を奪った深夜
にけたたましい叫喚を轟かせた。ただ今年はそれも随分少なかった。
「ゆーさん、もうそろそろ竹の子が生えてへん?」
「ぼちぼち生えてくるかもしれん、今年は温いから。なあミコ」
「天気が好かったら明日から山に入ろうと思ってる」
竹の子や山菜取りはミコの仕事だ。街では外へ出ようとしない彼女
だが山へは雪の残る冬以外は毎朝入ることにしていた。それは彼女
の健康の為でもあったが、何より彼女は山歩きが好きだった。秋に
は昼になっても戻らなかった事があって、ゆーさんとおれは心配に
なって捜しに入った。すると、背負い籠(かご)いっぱいの栗の実
を背負って何も無かったように下りてきた。
「あれ?ふたりで何処へ行くの」
彼女は二人の心配をよそに、大きな栗の木を見つけたと言って笑っ
た。
ここで暮らすことは彼女の健康を気遣って、そして水が豊かであ
ることからゆーさんが決めた。それからキッチンの家具や食卓も山
の木を伐り出して自分で作った。合板の塗装された家具は彼女が過
敏に反応するからや。彼女は特に農薬に反応する為市販の野菜も食
べられなかった。以前は、近郊の田畑を借りて自分達で無農薬栽培
もしていたが、近隣の田畑から飛散する農薬に汚染され、結局それ
らも受け付けなかった。更に、農家からは彼らの田畑から害虫が発
生すると苦情を言われて、仕方なくこの限界集落まで逃げ落ちてきた。
「田舎の方が汚染されてるとは思わなかった」
「わしらは平成の落人(おちゅうど)なんや」
その落人伝説の残る邑落(ゆうらく)にはその子孫と思しき人々が
数人いたが何れも高齢者だった。しかし何れも偏見を持たずに二人
を暖かく迎えてくれた。下隣の沖ばあさんは、連れ添いに先立たれ
一人暮らしが長かったので、彼らの定住を大層喜んで色々と世話を
焼いてくれた。特に娘のミコを見ると垂れた頬が更にゆるんだ。こ
うして彼らの山村生活は暇を持て余した爺婆から、山での暮らしの
知識を、野草の見分け方から味噌の作り方、草履の編み方まで一切、
自給暮らしで解からないことがあればすぐに教えてもらった。そし
て、今ではミコと同じ症状で悩んでいる人々の求めに応じて、無農
薬野菜の「虫食い農園」まで造るまでになった。
「お父さん、どうするつもり?種まき」
ミコがコーヒーを飲みながら言った。
「うん。今年も早ようせんなアカンやろ」
親子の会話におれが口を挟んだ。
「去年は失敗しましたからね」
「アホっ!一勝一敗じゃ」
去年、ゆーさんは天候不順を予想して早くから多くの野菜を植えた。
長梅雨の日照不足から何処も収穫が落ち、初夏の野菜が高騰し思い
通りに収入が増えた。そこで味を占めて、梅雨明けには更に多くの
野菜を植えたが、今度は天候が持ち直して初秋には出来すぎて暴落
し春の儲けを吐き出してしまった。野菜は「虫食い会員」に無料で
配られた。
「おそらく問題は中国の干ばつやろな」
ゆーさんは中国の天候まで気に掛けていた。
おれがゆーさんと出会った時、彼はメガネのフレームを真ん中か
ら折って片方だけをガムテープで顔に貼り付けていたが、彼は元々
極度の近視で、片方の眼を悪くして手術を受けた時に近視も矯正
してもらった為そっちは遠視になったが、もう一方は極度の近視の
ままで、そっちの方だけメガネが必要だった。そして彼の頭と言え
ば白や黒や茶色の撥ね毛やちじれ毛が鬱蒼と茂り、まるで人跡未踏
の原生林の様で、更に顔中からは毛や毛とは思えないものまで生や
して、おれはその異様な風貌に思わず眉間に皺を寄せた。その後、も
う一方の近視の矯正手術も受けて、彼の顔からガムテープで止められ
た片方だけのメガネは消えたが、ただ原生林と毛や毛とは思えないも
のは人指未触のままだった。彼は、発電機の開発に集中するとそれ
以外の事に関心が及ばなかった。
ただ、その水流発電機が思わぬことで頓挫してしてしまった。
昨夏のある日、沈めていた発電機の接続部から潤滑油が漏れて川
に流れてしまった。下流に住む住民が役場に通報して、役場から連
絡を受けてすぐに引き上げたが、ただそれだけでは済まなかった。
全ての発電機の回収を命じられ、工場に査察に入られて発電機の改
善を指示され技術審査に受かるまで業務停止を命じられた。更に、
川を汚染した罰金が科せられるかもしれないと脅した。役人の一人
は帰り際に、
「今は特に厳しいんですよ。ただ、何とかそうならないようにします。
これにめげずに頑張ってください」
そう言って我々を励ましてくれた。おそらく夏の集中豪雨によって
川が増水し流された石が発電機に当たって破損させたことに由ると
思われた。発電機は拉(ひしゃ)げて亀裂が入り、そこから浸水し
たんやろう。
「何とかなりますか?ゆーさん」
「石の流れをブロックせなアカンかもしれん」
ただそうなれば大きく川の様子を変えることになる。ゆーさんはそ
もそも川の姿を変えない為に沈水式の発電機に拘っていた。
「もっと頑丈にすればええんちゃうの?」
「二重構造にすれば大丈夫と思うけど・・・」
「けど?」
「やっぱり油を変えなアカンな」
「何に?」
「流れ出してもええ油」
「そんなんあるの?」
「無かったら作るしかないわ」
彼はいま発電機の開発を中断して、市販されている石油から作られ
たグリースや潤滑油ではない、魚脂などを用いた川に流れても分解
される潤滑油の開発に勤しんでいる。
その後、役場から連絡があり汚染が小規模だったことから、今回
は罰金を科さない旨の連絡があった。電話してきた人は、
「これにめげずに頑張って下さい」
と言って電話を切った。
(つづく)