「打つ手がない」
例えば「国家」という概念は、領土とそこで生きる人民とそ
の主権の止揚から派生したとすれば、領土を巡る対立や政治体
制の違いによる国家間の対立は、全く正反対の主張で対立して
いるように見えて、実は、同じ「国家」の論理を主張し合って
いるに過ぎない。そして、国民はその「国家」の論理から逃れ
ることはできない。国民は主張の矛盾が明白になっても、こと
領土問題に関しては「国家」の論理に逆らうことが出来ない。
何故なら、そもそも領土とは誰のものでもない土地を「国家」
が占領しているだけで、「ここは我が国の領土である」という
主張に正当な根拠などないからだ。つまり、相手の言い分は怪
しいが我々の言い分だって怪しいのだ。たとえば、ユダヤ人が
旧約聖書を開いてイスラエルは神から約束された地だと言って
その地で暮らしてきたパレスチナ人を追い出すことが認められ
るなら、北海道はアイヌ民族のものだし、アメリカ大陸はネイテ
ィブ・アメリカンのものである。領土を巡る対立は縄張りや利権
を争う暴力団同士の抗争と何ら違わない。それぞれが自らの「
国家」の論理を主張する限り、この対立を解決させるには論理
では結着が図れず、いずれ「力こそ正義だ」とばかりに悲惨な
争いが始まる。ユダヤ人がイスラエルの地からパレスチナ人を
追放し、大和民族がアイヌ民族を「成敗」し、そしてアングロ
サクソンがネイティブ・アメリカンからその領土を奪ったのは
何れも武力によってだったではないか。
先頃、鳩山元首相が中国を訪れて、尖閣諸島を巡る領土問題
について政治家を引退した気楽さからか、しかもわざわざ相手
国で「国家」の論理を超越した発言をして、自国の大臣からは
「国賊」とまで罵られたが、私は、決して鳩山氏の肩を持つ心
算はないが、ただ、そもそも一国の首相であった政治家が易々
と「国家」の論理を飛び越えたことに驚かされたが、しかし、
彼にしてみれば、こんな対立を何時までも繰り返していれば双
方に大きな損失をもたらすばかりでなく、何れ打つ手かなくな
り武力紛争へ行き着くと思ったからかもしれない。それは、ど
ちらにとっても「ルーズ、ルーズ」の最悪の事態ではないか。
それ以外に方法があるとすれば、それぞれの人民が「国家」と
いう枠組みを如何にして超越するかということになるのではな
いだろうか。絡んだ紐を双方で引っ張り合えば増々解くことが
難しくなる。つまり、両国が「国家」の論理ばかり主張してい
ては敵愾心ばかりが積み上げられてそのうちどちらかがちゃぶ
台をひっくり返す羽目になる。かつて、彼は友好的な「東アジ
ア共同体」構想を提案していたが、ただ、残念ながら我が国の
国民にしても関係国の国民にしても、儒教思想の序列道徳に洗
脳された内向きのタコツボ社会から抜け出せずに、国家の枠組
みを越えた世界観などそれらの国民は持ち合わせてはいない。
しかし、国家主義に頑なに縛られている限り、EUのようなア
ジア共同体(au)は空想にさえも浮かんで来ないだろう。「国
家」を超越した世界観などと言うと、私も「国賊」と罵られ兼
ねないが、しかし、グローバル化した世界経済はすでに国家の
枠組みをあっさり超越してしまったではないか。「国家」を構
成する国民や権力者たちが国家の論理に縛られて、さながら組
織暴力団の構成員が「組」のために命懸けで争うように「国家」
の威信を掛けた縄張り争いが円満に結着が図られるとは到底思
えない。私は、「国賊」の誹りを恐れずに言えば、「国家」と
いう洗脳を解いて領土問題の平和的な解決を考えれば、鳩山氏
が「尖閣諸島は係争地」と事実を述べたことがそれほど非道い
ことだとは思わない。そして、戦争で多くの国民の命が失われ
てから講和を結ぶくらいなら、武力衝突を避けてまず友好関係
を模索することがそれほど「ルーピー」なことだとも思わない。
(おわり)