「明けない夜」(6)

2017-08-23 21:57:15 | 「明けない夜」1~6
         「明けない夜」
 
           (6)
 
 
 寛は、部屋に着くとさっそく寝袋に入ってみた。ポリエステルの
 
冷たくてツルっとした感触が気持ちよかった。人工羽毛のクセのな
 
い匂いが新鮮だった。横になって丸まると胎内で産まれ堕ちる時を
 
俟ち続けた記憶なのか、なんとも言えない懐かしさを感じた。いっ
 
たい自分はまだ見ぬ世界にどんな夢を思い描いていたのだろうか。
 
思い描いていた夢を汚されていく現実に絶望して、いつの間にか眠
 
ってしまった。
 
「君はどういう仕事を望んでいるの?」
 
そう問い掛けるのは大学で学生の就職を支援する担当者だ。
 
「先生、ぼくは荒野を目指したいんです」
 
「えっ!コウヤ?」
 
「ええ、荒野です」
 
「それは、農業関係とかってこと?」
 
「じゃなくて、誰もやってないことをやりたいんです」
 
「たとえば?」
 
「それが、よくわからないんです」
 
「なんだ、今頃そんなことを言ってるようじゃダメだよ」
 
「まあそうなんですけど」
 
「それに、もう荒野なんて地球上には残されていないんじゃないの」
 
「えっ」
 
「だってグローバル化ってそういうことでしょ。すでに北極だって
 
領土化されようとしているんだし」
 
「そうですね」
 
「すでに地球は人類によって征服されたんだよ、高橋君」
 
「なるほど、先生のおっしゃる通りかもしれません」
 
 夢から覚めた寛は、自ら寝袋を開いて現実の世界に戻ったが、
 
からだの重さだけが感じられてしばらく動くことができなかった。
 
「もう荒野なんて地球上には残されていないんじゃないの」
 
夢の中で就職担当者の言った言葉が頭から離れなかった。確かに、
 
すでに地上は人間の靴に踏まれない場所などどこにも残されていな
 
いのだ。アフリカのジャングルもアマゾンの密林の奥地にも舗装道
 
路が敷かれ、その傍らにはエヤコンが完備された宿泊施設の看板が
 
立っていることだろう。そして近代文明に接した未開の人々が何を
 
望むかは明白だ。つまり、世界中の人々が風土や環境を無視して同
 
じ快適な暮らしを望んでいる。世界中がネットで繋がり近代化の波
 
は自然との共生に自足していた人々の足元を洗い流す。70億を超
 
える人々が情報を共有し自然環境に逆らった「人工の楽園」で暮ら
 
したいと思っている。しかし、荒野を失った世界とは余白を失くし
 
た世界である。世界という紙面は近代化という画一的な言葉で隙間
 
なく埋められて、もはや如何なる反論も読み取れなくなってしまっ
 
た。たぶん世界は、白紙に戻すことよりも黒く塗りつぶしてしまう
 
方が手間が掛らないだろう。では、黒く塗りつぶすとはいったい?
 
 体の重さに慣れて起き上がると、寛は机のパソコンを起動させた
 
。それは卒論を書き上げるために提出期限まで日夜向き合ってきた
 
デスクトップだった。転部を繰り返したためにファイルに保管され
 
た資料や論文の量も膨大で、卒業したからといって消去する気には
 
ならなかった。いや、それどころか卒業した後もそのテーマが頭か
 
ら離れなかった。そこで、自分の考えを何とかして発表する方法は
 
ないかと思ってブログを立ち上げた。タイトルは「社会を捉えなお
 
す」。それは、生命科学者である清水博氏の著書「生命を捉えなお
 
す――生きている状態とは何か」(中央公論社 中公新書, 1978年)
 
に感銘してそれからパクッた。
 
 以下は寛のブログ「社会を捉えなおす」から、全部は載せられな
 
いのでテーマである「社会を捉えなおす」だけを抜粋して載せます。
 
 
 
      *      *     *
 
 
 
 
           「社会を捉えなおす」
 
 
 
 人間以外の生命体を観察していると、たとえ微小生物であっても
 
、それらは生存を存続させるためだけに命懸けで生きている。仮に
 
、彼らに「何のために生きているのか?」と問えば、もちろんそん
 
な迷い言を聞く耳など持たないが、きっと「生きるため」と答える
 
に違いない。つまり、生命体は死の恐怖に怯えながらも命を繋いで
 
子孫を残すこと以外に生きる目的など知らない。ただ理性を弄ぶ人
 
間だけが生きることだけでは飽き足らなくなって「意味」を求める
 
。「意味」は生存を目的から手段に転化させて、かつては乏しい知
 
識から神を「創造」したが、いまやサイエンス(知識)という手段を
 
手に入れて目的(=欲望)を満たす。もはや人間は生存するためにだ
 
け生きているのではない。欲望が満たされなければ、つまり幸福で
 
なければ生きる意味がない。生きる意味を欲望を満たすことに求め
 
た人間は、生きることから逃れるために科学技術を駆使して拠って
 
立つべき自然環境を凄まじい勢いで破壊して再生の連鎖を断ち切っ
 
てしまった。近代化のレシピは世界各国に伝えられてエネルギー資
 
源に依存した近代社会が世界中に生まれようとしている。グローバ
 
ル化した近代社会では電気のない生活は考えられないが、しかし、
 
空気や水が汚染された環境を何故か真剣に考えようともしない。間
 
もなく、近代人で溢れ返った世界は、資源の枯渇と環境の変化が限
 
界に達して、後戻りのできないわれわれは文明の終焉を迎えること
 
だろう。たとえば自動車会社は、それまで車など買えなかった人に
 
売って急成長したが、誰もが車を持つようになってしまうと新たな
 
需要は減る。もちろん買い換える人も居るだろうが当初ほどの需要
 
を生まれない。国内での販売が頭打ちになって成長が見込めなくな
 
ると勝ち残った企業は海外に市場を求めるが、やがて世界中の人々
 
が車を持つようになると再び売れなくなる。残念ながら今のところ
 
地球以外に人は存在しない。そこで買い換えたくなるようなハイブ
 
リッド車を開発して技術革新によって需要を生もうとするが、それ
 
とても石油がなければ走らない。このようにグローバリズムが行き
 
渡ると資源の膨大な消費による枯渇、環境汚染の拡大とともに地球
 
の資源を資本とする世界経済も成長の限界を迎える。つまり、グロ
 
ーバル経済は世界資本主義の限界に近付いたのだ。では、その後世
 
界はどうなるのか?資本主義経済は自由経済を前提とするが、自由
 
な経済活動が営まれるためには製品を産む原材料が無尽蔵になけれ
 
ばならない。たとえば、モータリゼーションをもたらしたのは技術
 
力に由るよりも無尽蔵に埋蔵する石油に依っている。さらに言えば、
 
排出ガスによる汚染が無視できるほど無尽蔵の大気がなければなら
 
ない。石油が枯渇すれば車社会はたちどころに立ち止まり、CO2
 
排出による地球温暖化問題はすでに国際会議の場で話し合われてい
 
る。自由主義経済はグローバル化によって資源の枯渇、環境の変化
 
、そして人口爆発をもたらし、やがて限界に達すると経済活動の自
 
由度が失われて行き詰る。すると世界経済は秩序を求めてエネルギ
 
ー資源の公平な配給に移行せざるを得なくなる。荒唐無稽だと思わ
 
れるかもしれないが、実は地球温暖化防止のためにCO2排出量の
 
削減目標を各国に割当てた京都議定書とは、もちろん自由な経済活
 
動までも規制していないが、しかし排出量の規制とは、即ち自由経
 
済の制限に他ならない。
 
 グローバル経済は、行き詰った世界経済の市場を拡大するために
 
国境を取っ払って自由経済は拡がったが、一方で地球資本の限界も
 
見えてきた。グローバル企業は国家間の経済格差を利用して利ざや
 
を稼いできたが、すでに新興国では物価上昇に伴って労働コストが
 
上昇し利益が見込めなくなっている。いずれ途上国もそうなること
 
はまず間違いない。やがて国家間の賃金格差は平坦化し、もちろん
 
業種間の格差は残っても世界同一賃金に限りなく近付くのかもしれ
 
ない。新聞のインタビューでグローバル展開するアパレル企業のオ
 
ーナーが世界同一賃金に言及したのにはそれなりの確信があっての
 
ことに違いない。「世界同一賃金」、一体これは何を意味するのだ
 
ろうか?たとえば、日本とタイの自動車会社の従業員が団結して賃
 
上げ交渉に臨むことさえも起こり得るのかもしれない。まず経済の
 
グローバル化を求めたのは資本家だったが、次に世界の労働者が連
 
帯してグローバル経済の下で待遇改善を求めて運動すれば国際的な
 
労働者運動、つまり、インターナショナルな社会主義運動が起こる
 
。それは、かつてコミュニストたちが思い描いた世界同時革命では
 
ないか。もう私が何を言いたいのかお解りでしょう。つまり、やが
 
てグローバル経済は「世界限界論」に阻まれて行き場を失い自由主
 
義経済が制限され、再び、社会主義経済が見直されるだろう。
 
 ただ、それは自由主義経済の限界による体制転換であってこれま
 
でのようなイデオロギー対立を生まない。もはや、自由主義か社会
 
主義かの選択は残されていない。そして対立のないところに革命や
 
闘争は生まれない。もちろん自由主義を棄てることなど出来ないと
 
思う人が殆どだろうが、やがて現実が転向させるに違いない。世界
 
経済は限られた地球資本を共有していくほか生きる道はないのだ。
 
そして、共有社会は武力闘争によって築くことなどできないので、
 
次第に北欧のような社会民主主義に近付くのではないか。自由は規
 
制の中でしか認められない。それは国際的な規制であって、たとえ
 
ば、京都議定書のようにどこかの国だけが批准しないというわけに
 
はいかなくなる。またそのような時代に、なお「近代国家」という
 
枠組みが存続していると考えるのは疑わしい。経済のグローバル化
 
が更に進めば政治や行政に対しても世界の干渉を受けるのは明らか
 
である。やがて、資源の枯渇、環境の悪化、人権問題などを理由に
 
国際的な規制が徐々に強まり、自由主義経済は規制に縛られて自由
 
を奪われる。たとえば、水産資源の漁獲規制を考えると解り易い。
 
反対したところで実際にクロマグロの生息数は激減しやがて獲れな
 
くなってしまう。唯一、残された道は養殖技術の開発しかない。つ
 
まり、自由主義経済の限界を回避する方法は技術革新しか残されて
 
いない。このように、地球温暖化をもたらす温室効果ガスの排出量
 
規制や天然資源に対する規制は、近代社会の継続を望む限り、その
 
限界点から遡って今現在をどうするべきかを考えなくてはならなく
 
なる。それは、これまで近代文明がひたすらフロンティアを拓いて
 
繁栄してきた流れとは正反対の流れである。グローバリズムの波が
 
世界の限界に突き当って跳ね返ってきた波だ。そして、近代文明が
 
世界の限界に近付けば近付くほどその波はさらに大きくなって、遂
 
にはわれわれを呑み込んでしまうだろう。
 
 カール・マルクスは「資本論」の中でこう述べてます。
 
「資本主義社会の経済構造は、封建社会の経済構造から生まれた。
 
後者の解体が前者の要素を解放させたのである」と。つまり資本主
 
義社会とは、封建地主が資本家に取って代わられただけのことで、
 
搾取者が入れ代っただけで経済構造そのものが変わったわけではな
 
いと言うのだ。もちろん、封建主義を解体させ資本主義を解放させ
 
る契機をもたらしたのは科学技術だった。機械化によって労働経費
 
が減る一方で生産性が飛躍的に向上して剰余価値を生んだ。やがて
 
需要が減ると資本家は新しい市場を求めて海外進出した。こうして
 
資本主義経済は科学技術によって発展し、新しい市場を求めて拡大
 
膨張してきた。つまり、資本主義経済を支えているのは技術革新と
 
新しい市場である。しかし「世界限界論」の下ではそのような経済
 
構造そのものが成り立たなくなる。世界中が近代化してしまえばや
 
がて新しい市場は無くなるだろう。それよりも先ず資源の枯渇と環
 
境の悪化によってこれまでのような経済活動が出来なくなる。金魚
 
鉢の中の金魚は金魚鉢よりも大きくなることなど出来ない。すでに
 
我々は自ら排出した汚物によって生存が脅かされ始めている。
 
 では、資本主義社会の経済構造の解体から如何なる要素が解放さ
 
れるのだろうか?その解体の契機をもたらすのは「世界限界論」だ
 
が、ただ明解な線引きが難しい。経済が停滞すればそこに成長の余
 
白が新たに生まれるからだ。こうして近代社会は経済成長を求めて
 
逆流に押し戻されながら戻りつ行きつを繰り返すことだろう。つま
 
り「『資本主義』の終わり」の始まりである。たとえば中国やイン
 
ドのような超大国が日本のような近代社会にまで発展するにはとて
 
も地球資本だけで賄いきれない。余りにも金魚鉢(globe)は小さす
 
ぎる。しかし、近代化に洗脳された人々に欲望を諦めるように説得
 
するのは不可能であるし、国民の誰もが今よりももっと豊かになり
 
得ると信じている社会で、格差社会を是正しようという議論は生ま
 
れない。何故なら、格差の是正とは既得権益を得ている富裕層から
 
富を奪うこと以外に方法がないからだ。「上を下げずに下を上げる
 
」などと馬鹿なことを言う評論家が居たが、金魚鉢は大きくならな
 
いのにそんなことが出来るはずがない。そんなことができるならそ
 
もそも格差問題など生まれない。やがて富裕層と貧困層の格差が更
 
に拡大し国内紛争が頻発するようになる。すると国家は、国内問題
 
の解決を国外に求め、領土、資源、環境を巡って近隣国との間に摩
 
擦が起こる。こうして世界各地で格差問題に端を発した紛争が頻発
 
するようになるだろう。70億の近代人の膨れ上がった欲望を地球
 
資本は充たすことなど出来ないので、個人であれ国家であれ既存の
 
富を奪い合うしかない。
 
 資本主義社会の経済構造の解体から新しい時代に引き継がれる要
 
素を考えてみようと記しながら、話が逸れてしまいましたが、とい
 
うのも、どうしてもすんなりと時代転換されるとは思えなくて、た
 
とえば原発の是非についてさえも国民の意見が真っ二つに分かれて
 
認識を共有できないのに、社会民主主義に体制転換されるなどと言
 
えばどれほど反発されるかは想像に難くない。しかし、「世界限界
 
論」に立って現在を振り返ればそれらがどれほど子供じみた対立で
 
あるかが見えてくる。一つしかないリンゴをみんなで奪い合うより
 
も、人数分に切ってそれぞれが分かち合うことが限界を避けようと
 
する分別のある大人のやり方ではないか。そうであるなら、仮に温
 
室効果ガスの排出量規制のように、やがてエネルギー資源の消費量
 
も規制され、ガソリンが配給制になったとしても、「世界の終わり
 
」よりも「資本主義の終わり」を甘んじて受け入れることが、生存
 
を存続させて命を繋いでいく宿命を担った生命体の分別のある選択
 
ではないだろうか。われわれの理性という鏡はいつも本質を逆さに
 
映す。生命体は、欲望を充たすために生きているのではない、生き
 
るために欲望を充たすのだ。たとえば、われわれが不可逆的な感情
 
をのちに「愛」と表現すれば、理性は「愛」と叫べば失われた感情
 
が甦ると思っている。しかし、鏡の中の世界は虚像なのだ。
 
 人間が近代科学によって地球全体を把握することが出来るように
 
なったことはスゴイことだ。それまでは謎だらけだった世界に少な
 
くとも脅威を感じる怪物などは存在しないことが判った。つまり人
 
間が一番凶暴だった。その人間が「世界限界論」に追い詰められて
 
残されたリンゴを巡って愚かな争いを繰り返す時代、尖閣諸島や竹
 
島を巡る対立はすでに「世界限界論」に撥ね返された逆流によって
 
時代が後戻りし始めているのかもしれない、そんな忌わしい時代を
 
繰り返さずに世界を共有することが出来るのだろうか?たとえば、
 
欧州連合(EU)の試みは注目に値する。構想は戦争の最中に生まれ
 
た。二度と戦争を起こさないためには国家という枠組みを取っ払う
 
しかないと考えた。民族や文化を超えて統合を可能にした根底には
 
、キリスト教文化という共通の精神風土があったにしろ、統合が武
 
力に依らずに民主的な話し合いで成し遂げられたことだ。それは戦
 
争を回避するための賢い方法ではないか。グローバル経済によって
 
「世界限界論」に行き着いた自由主義経済は成長を阻まれて衰退し
 
、やがて資本主義社会の経済構造が解体され、つまり、資本主義国
 
家が解体され、グローバル経済によって育まれたグローバリズムの
 
理念が解放される。
 
 今の日本でこんなことを言ってもたぶん誰も耳を傾けてはくれな
 
いだろうが、しかし、かつてはわが国も欧米資本主義国家の進出に
 
対抗するために、「アジアは一つ」を掲げて「大東亜共栄圏」を構
 
想して、武力を背景に近隣諸国に併合を迫った経緯があったのだ。
 
もちろん、そのような支配による統合が上手くいくはずはなかった
 
が、つまり、如何に高邁な目的を掲げてもその手段が理念と背理し
 
ていれば目的そのものが疑われる。われわれは、時として理念を見
 
失い掲げた名目だけを追い求める。しかし、そもそも目標やノルマ
 
は理念に基づいて目的化されたのであって、敢えて言えば手段こそ
 
が重要なのだ。武力や権力を手段にしてアジアが一つになったとし
 
ても決して「共栄圏」は築けない。民族や文化を超えて「アジアは
 
一つ」を実現するためには理念が共有されなければならないが、ア
 
ジアには国家主義を超越した共通の理念と呼べるものがない。そん
 
なものは願い下げだと言うかもしれないが、猫の目のように変わる
 
対韓感情を覚えているだろうか。そんなムードというのはすぐに一
 
変してしまうだろう。われわれは「ハリネズミの友情」のように、
 
友情を温めようとして近付けば近付くほど相手の針が体に突き刺さ
 
って憎しみに変わる。こうしてアジアは精々経済関係だけでしか繋
 
がることしか出来ないのだ。しかし「世界限界論」はエネルギー資
 
源の枯渇による高騰、それよりも多分温室効果ガスの規制強化によ
 
る負担が重く圧し掛かり、さらに途上国の経済成長によって国家間
 
格差が埋まり差益が見込めなくなりそう遠くない将来にグローバル
 
経済は行き詰るだろう。そして、グローバル経済に頼っていたわが
 
国が何時までも経済大国で居られる保証はない。やがて食うに困っ
 
ても、近隣諸国は奇跡的な復興の後に呆気なく衰退していく隣国を
 
黙って見守っているだけだろう。
 
 私は、何も今の近隣諸国の政治体制をそのまま受け入れてAU(
 
アジア連合)が生まれるとは思っていない。少なくとも民主社会主
 
共栄圏でなければならないとすれば、まずそれらの国々が民主主義
 
の根幹である国民主権を認め、公正な選挙によって国民の意志を代
 
表する指導者が選ばれる民主主義国家でなければならない。つまり
 
、AUが共有すべき理念は民主主義でなければならない。そもそも
 
彼の共産主義国家は共産党特権階級による独裁国家であって、本来
 
のコミュニズム(共有主義)とはまったくかけ離れた政治体制である
 
。政治的自由を奪われた人民は、膨張する経済の中で辛うじて幸運
 
が訪れる夢を見ることも出来るかもしれないが、経済成長が停滞す
 
ればたちまち矛盾が噴き出して、現政権は旧ソ連のように呆気なく
 
崩壊するだろう。それは歴史の必然である。ひとたび檻の扉を開か
 
れて自由の空気を吸った人間が、ふたたび元の檻に戻って来て自ら
 
扉を閉めようとは思わない。それは、たぶんそんなに遠い話ではな
 
いと思う。                    (つづく)
 
 

「明けない夜」 (7)

2017-08-23 21:52:54 | 「明けない夜」7~⑪
           「明けない夜」
 
             (7)
 
         「社会を捉えなおす」②
 
 
 そもそも資本主義経済とは剰余価値を生むための仕組みです。マ
 
ルクスによると、剰余価値は生産過程で労働者の剰余労働から生ま
 
れるが、労働者にはその対価が支払われず資本に留保される。そし
 
て剰余価値は再び生産過程に投資され、この運動を何度も繰り返し
 
て資本は増殖する。人間以外の自然と共生して生きるほとんどの生
 
物は、本能的なナワバリ意識はあっても剰余価値を求めたりはしな
 
い。ただ彼らにとって命を繋ぐために子孫を生むことこそが唯一の
 
価値の創造である。私の勝手な想像だが、それは彼らが死を情報と
 
して本能的に知っているからではないだろうか?そもそも死とは生
 
の最終態であって、死の対極にあるのは過程である生ではなく始ま
 
り、即ち誕生ではないか。だとすれば「なぜ死ぬのか?」を知るに
 
は、「なぜ生まれるのか?」を知らなければならない。では、生命
 
体はどうして新たな命を生むことができるのだろう。旧約聖書の「
 
創世記」には「初めに、神は天地を創造された」から始まるように
 
、原始地球に於いてもまず生命体の生存環境が整ってから様々な生
 
命体が生まれた。つまり、生命体は地球環境によってもたらされた
 
。まさに母なる地球である。しかし、生まれ出でては呆気なく絶え
 
た数多の生命体が存在したに違いない。やがて突然変異によって生
 
存適性を得た生命体だけが厳しい自然淘汰を克服して種を繋いで生
 
き延び、そして子孫を増やした。もしも、生命体が子孫を増殖させ
 
ることが剰余価値を生むことだとしたら、天地創造の始まりより、
 
人間だけにあらず、すべての生きとし生けるものは死滅を乗り越
 
えて地球資本主義の下で生存競争を闘ってきたのだ。つまり、資
 
本主義社会は何も近代になってから生まれたわけではない。
 
                         (つづく)

「明けない夜」(7)―② 

2017-08-23 21:51:06 | 「明けない夜」7~⑪
         「明けない夜」 
 
         (7)―② 
 
 
 
         「社会を捉えなおす」―②
 
 
 生命の誕生という「現象」は、太陽の惑星である地球の特異な条
 
件、太陽から一定の距離を保って公転しながら地軸を傾けて自転し
 
ている、によってもたらされた。それらの条件は地球環境に様々な
 
変化をもたらした。寒暖の差、昼夜の別、季節の巡りなどの環境の
 
変化が積み重なって、やがて生命体という自ら変化するものを生成
 
した。『生命を捉えなおす』(中公新書503)の著者、清水博氏は
 
「生命体とは(生物的)秩序を自己形成する能力である」と言ってい
 
る。しかし、そもそも「能力」とは生命体にしか預けられていない
 
ので、「生命体は自ら変化(自己形成)する存在である」と言える。
 
それらの生命体は小さな細胞で出来ている。細胞は、何度も分裂を
 
繰り返してして増殖しやがて成体を形成すると子孫を残すために、
 
人間でいえば受精卵を作って生命を繋いでいく。それでは、いった
 
いなぜ細胞は分裂増殖することができるのだろうか?たとえば、水
 
は外界からの温度変化によって液体、固体、気体と状態を変化さ
 
せるが、だからといって自ら変わることはできない。しかし、水のこ
 
の特異な性質、流動性は生命の誕生に欠かすことのできない媒質
 
である。生命体の誕生は、つまり自ら変化することができるのは水
 
の存在なしには考えられない。しかし、生命起源論はすべて仮説の
 
域を越えていないし、それどころか生物進化の系統樹でさえ再三書
 
き改められていることから、以下はまったく私の想像ですが、単細
 
胞の生命体が分裂できるようになるには、その反対の細胞結合が
 
頻繁に繰り返されていたからではないだろうか。それは主にエネル
 
ギーを得るための捕食によって行なわれ、しかし消化分解されずに
 
体内にとどまって共生するようになった。つまり、二つの細胞が結合
 
して新たな一つの生命体になった。もしもそうだとすれば、結合して
 
できた新しい細胞が、分裂の能力を獲得したとしてもそれほど驚くよ
 
うなことではないのではないか。入口は出口でもある。細胞分裂のし
 
くみは細胞結合からもたらされたのだ。細胞同士による結合と分裂
 
は無限回繰り返されただろう。やがて細胞同士の結合は細胞内の
 
不具合を調整するための新たな器官が必要になり、細胞核を生んだ
 
。こうして分裂のしくみを獲得した微小生物は、生存を賄うためのエネ
 
ルギー摂取はほんのわずかで済むため膨大な量の養分に恵まれな
 
がら分裂増殖を繰り返して爆発的に繁殖した。しかし、水中に浮遊す
 
る微小生物はその大きさから、否、小ささから、その基準は原子の大
 
きさに比較してですが、おそらくわずかばかりの水の流動にも押し流
 
されて思い通りに動くことなど出来なかったに違いない。運動を獲得
 
するためには器官の発達とそれに比例した質量が求められた。分裂
 
と結合のしくみを獲得した微小生物にとって巨大化、つまり多細胞化
 
する能力はすでに備わっていた。ただ、多細胞生物への進化は分化
 
した器官の発達を伴うのでこれまでのような単純な分裂ができなくなっ
 
た。そこで、巨大化を担う細胞の分裂増殖はそれぞれの「単」細胞に
 
委ねられ成体維持を任され、増殖は新たな生殖器官が担い、成体維
 
持と生殖に分離された。もちろん、それらの組織化された器官細胞へ
 
の情報は細胞核によってコントロールされた。つまり単細胞生物にとっ
 
て、多細胞生物への進化とは組織化されることであり、多細胞生物が
 
集団を求めるのは性的本能によると言うよりも、たぶん、組織化された
 
生命体本能から芽生えるのではないだろうか。つまり多細胞生命体と
 
は本能的に社会的存在なのだ。そして、何よりも多細胞化によって組
 
織化を余儀なくされた生命体は、それまでの一元的な生存本能とは異
 
なった能力、つまり経験による記憶から派生した知的能力を持つように
 
なった。こうして巨大化を求めた微小生物によって多細胞生物は進化し
 
たが、やがて巨大化し過ぎた生物、その基準は地球の大きさに比較し
 
てですが、恐竜の絶滅によって幕を閉じ、それは彼らが「世界限界論」
 
に対応できなかったからだが、いまではその末裔である爬虫類は小さ
 
くなって草葉の陰でなお生き続けている。
 
                          (つづく)
 

「明けない夜」(7)―③

2017-08-23 21:49:24 | 「明けない夜」7~⑪
           「明けない夜」
 
             (7)―③
 
 
          「社会を捉えなおす」―③
 
 
 多細胞化によって器官を進化させた生命体は、本来単細胞生物で
 
は一元的であった「分裂・増殖」のしくみ、個体の分裂即ち増殖だ
 
った、を「生存・存続」に二元化して、種の存続は生殖器官による
 
有性生殖によって行なうようになった。もしも、われわれが単細胞
 
生物のように個体分裂することが出来て、二人の自分になることが
 
出来るとすれば、こんなことはもちろん不可能なことですが、では
 
、いったいどっちの自分が今の自分だと言えるでしょうか?単細胞
 
生物は元になる細胞を母細胞と言い、分裂して出来た二つの細胞は
 
どちらも娘細胞と呼びます。つまり、母細胞は分裂によって消滅し
 
初期化された二つの娘細胞に生れ変ります。われわれの赤ん坊もま
 
た両親の経験や知識を受け継がずに初期化されて生まれてきます。
 
つまり、個体分裂によっても二人の自分が生れることはありません
 
。そもそも単細胞生物に自分などという意識はないからです。個体
 
分裂を行なうためには生体反応以外の複雑な器官が備わっていては
 
出来ないはずです。つまり、彼らは存続のためだけに生存している
 
。しかし、多細胞生物は存続のための器官を分化させることによっ
 
て生存そのものを獲得した。さらに、多細胞化は器官細胞を進化さ
 
せ、細胞分裂によって増殖・淘汰を行い機能を向上させ、行動の自
 
由を獲得して環境依存から抜け出した。しかし、複雑な多細胞生命
 
体への進化は、その原因は諸説ありますが、生理的寿命をもたらし
 
た。「死」は認識によって意識され、認識は理性からもたらされま
 
す。理性を持たない人間以外のほとんどの生物は死ぬのではなくた
 
だ動けなくなってしまうのです。種の存続を生殖器官に委ねて分裂
 
増殖が生存目的でなくなったことと、寿命による「死」を覚った知
 
的生命体である人間は、本能と理性による二重の疎外によって本来
 
の生存の意味を見失った。しかし、この地上で外界の作用に因って
 
ではなく、個体自らの作用によって「生物的秩序を自己形成した生
 
命体」が「命懸けで」試みたことは、紛れもなく「生存の存続」だ
 
った。物質世界の絶望の中で孤独に苛まれながら、再び物質への回
 
帰を迫られた生命体はせめて命を繋ぐことで絶望的な死を補おうと
 
した。そして、生命体である人間もまた生存とその存続のために生
 
きているのだ。もしも存在理由がなければ存在価値はないとするな
 
らば、人間以外の生命体はいったい何のために生存しているのだろ
 
うか?つまり、物質世界から見れば、生命体はただ生存するだけで
 
充分存在意義はあるのだ。だから「何のために生きるのか?」は、
 
そもそも生命体にとっては目的であったはずの「生きること」を手
 
段に貶めた倒錯した設問なのだ。つまり、すべての生命体は「生存
 
とその存続のために生きているのだ」。最初の生命体が地上に生ま
 
れ堕ちた時から、すべての生命体はその生存と存続のためにだけ生
 
きてきたのだ。何故かと言えば、それら「生物的秩序を自己形成す
 
る能力」を持った生命体が存在することは奇跡的な現象だから。つ
 
まり、われわれは如何にこの世界に留まりたいと望んでも、何れ物質
 
に還らなければならない。だから生きているということは、実はすごい
 
ことなんだ。
 
 
                    (つづく)
 

「明けない夜」 (7)―④

2017-08-23 21:47:31 | 「明けない夜」7~⑪

         「明けない夜」 

          (7)―④

        「社会を捉えなおす」―④


 細胞の分裂・増殖の循環過程は、四つの段階に分かれ次のような

順序です。まず、間期のG1期、S期、G2期と、そして有糸分裂

(mitosis)を行なうM期です。そしてM期も前期、中期、後期、終

期に分かれます。M期の前期では、細胞核内で二対の染色体が凝縮

しゴルジ体の構造が崩れ、中期では、核膜が消え紡錘体が形成され

染色体が赤道面に集まる。後期では、紡錘糸に沿って染色体が両極

へ分離し、終期では、染色体の凝縮が解かれてゴルジ体や核膜が再

形成され、同時に細胞質分裂が始まり細胞分裂が終了する。分裂に

よって出来た二つの娘細胞は同じ過程を循環して増殖していきます

。ただ、増殖した細胞が生命体秩序を乱すようなことがあれば問題

が起こります。そこで染色体はそれぞれの細胞に遺伝子情報を伝え

て統括する重要な役割を担っている。つまり、多細胞化は細胞核、

分けても染色体を進化させることによってもたらされた。

 つぎに、カール・マルクス著「資本論」(中央公論社『世界の名

著』43)より、第二巻「資本の流通過程」、第一編「資本の変態と

その循環」の第一章「貨幣資本の循環」の冒頭からの引用です。

「資本の循環過程は三つの段階をとおっておこなわれるが、これら

の段階は、第一巻の叙述によると、次のような順序になっている。

 第一段階。資本家が商品市場と労働市場に買い手としてあらわれ

る。彼の貨幣は、商品に換えられる。つまり流通行為G―Wを通過

する。(「Gは貨幣、Wは商品」筆者註)

 第二段階。買い入れた商品を資本家が生産的消費にあてる。彼は

資本主義的な商品生産者として行動する。彼の資本は生産過程を通

過する。結果は、その生産要素の価値以上の価値をもつ商品である

 第三段階。資本家が市場に売り手としてもどる。彼の商品は、貨

幣に換えられる。つまり流通行為W-Gを通過する。

 だから貨幣資本の循環を表わす定式は、G―W…P…W'―G'で

ある。このばあい、… は流通過程の中断を意味し、W'とG'は剰

余価値によって増大したWとGを表わす。」(「Pは生産資本」筆

者註)

 さて、「それがどうした?」と言われれば私の企みはうまく行か

なかったことになりますが、もちろん生命体の細胞分裂の過程と資

本主義経済の生産過程を同列に論じるつもりはありませんが、こと

増殖のしくみだけを見るとそれほど大きな違いがないように思えま

す。つまり、資本主義経済は何も近代になって考え出されたシステ

ムではなく、そもそもは生命体が分裂増殖するしくみが根源である

。細胞分裂では、分裂・増殖を決定するのは遺伝子であり、資本主

義経済の生産活動に於いては市場原理に基づく貨幣価値がそれに当

るのかもしれません。ただ、資本家は商品資本の増殖を求めている

のではありません。そこで「彼の商品は、貨幣に換えられる。」換

えられた貨幣は投資した資本よりも剰余価値分(利潤)を上乗せされ

ている。そもそも資本家は貨幣資本の増殖を企んでいる。そして、

増殖した貨幣資本は再び生産過程に投じられて際限なく繰り返され

る。

 環境内生物として増殖した単細胞生物がその環境から抜け出すた

めには運動能力を獲得して多細胞化するしかなかった。そして、多

細胞化した生命体は細胞を統括するために遺伝子を進化させ、「あ

るがまま」(ザイン)に存在したそれぞれの細胞に「かくあるべき」

(ゾレン)を求めた。こうして多細胞化した生命体は進化した遺伝子

が個々の細胞を概念化して生物進化した。それは資本主義的進化で

ある。生命体もまた新しく生まれた娘細胞は次には母細胞となって

娘細胞を生み増殖を繰り返すが、しかし細胞の増殖には「成体」と

いう限界がある。成体に達した生命体は成体維持のためだけに細胞

分裂を行ない増殖そのものは減退していく。そして「生存を存続さ

せるため」に配偶子の接合によってたった一つの受精卵を残して、

やがて「死」という限界を迎えて物質に還る。つまりすべての生命

は「何ものにも換えられず」に自然へ還る。こうして自然環境の下

での「生存の存続」は様々な限界に遮られて原点回帰を繰り返して

円循環しながら自然のバランスは維持されてきた。ところが、資本

主義経済を支える科学思想には限界がない。経済合理主義の下で科

学技術は自然循環を破壊しながら直線的に進歩して、利便性という

作用を得るために環境への反作用は省みられてこなかった。線分A

Bは限点A,Bによって表わされるとするなら、循環しない科学文

明は常に限点に遮られそれを越えていかなければならない。「かく

あるべき」世界は「あるがまま」の世界を見失い、すでに「生命の

大地」だった地球は「宇宙船地球号」になってしまった。

                         (つづく)