「明けない夜」
(6)
寛は、部屋に着くとさっそく寝袋に入ってみた。ポリエステルの
冷たくてツルっとした感触が気持ちよかった。人工羽毛のクセのな
い匂いが新鮮だった。横になって丸まると胎内で産まれ堕ちる時を
俟ち続けた記憶なのか、なんとも言えない懐かしさを感じた。いっ
たい自分はまだ見ぬ世界にどんな夢を思い描いていたのだろうか。
思い描いていた夢を汚されていく現実に絶望して、いつの間にか眠
ってしまった。
「君はどういう仕事を望んでいるの?」
そう問い掛けるのは大学で学生の就職を支援する担当者だ。
「先生、ぼくは荒野を目指したいんです」
「えっ!コウヤ?」
「ええ、荒野です」
「それは、農業関係とかってこと?」
「じゃなくて、誰もやってないことをやりたいんです」
「たとえば?」
「それが、よくわからないんです」
「なんだ、今頃そんなことを言ってるようじゃダメだよ」
「まあそうなんですけど」
「それに、もう荒野なんて地球上には残されていないんじゃないの」
「えっ」
「だってグローバル化ってそういうことでしょ。すでに北極だって
領土化されようとしているんだし」
「そうですね」
「すでに地球は人類によって征服されたんだよ、高橋君」
「なるほど、先生のおっしゃる通りかもしれません」
夢から覚めた寛は、自ら寝袋を開いて現実の世界に戻ったが、
からだの重さだけが感じられてしばらく動くことができなかった。
「もう荒野なんて地球上には残されていないんじゃないの」
夢の中で就職担当者の言った言葉が頭から離れなかった。確かに、
すでに地上は人間の靴に踏まれない場所などどこにも残されていな
いのだ。アフリカのジャングルもアマゾンの密林の奥地にも舗装道
路が敷かれ、その傍らにはエヤコンが完備された宿泊施設の看板が
立っていることだろう。そして近代文明に接した未開の人々が何を
望むかは明白だ。つまり、世界中の人々が風土や環境を無視して同
じ快適な暮らしを望んでいる。世界中がネットで繋がり近代化の波
は自然との共生に自足していた人々の足元を洗い流す。70億を超
える人々が情報を共有し自然環境に逆らった「人工の楽園」で暮ら
したいと思っている。しかし、荒野を失った世界とは余白を失くし
た世界である。世界という紙面は近代化という画一的な言葉で隙間
なく埋められて、もはや如何なる反論も読み取れなくなってしまっ
た。たぶん世界は、白紙に戻すことよりも黒く塗りつぶしてしまう
方が手間が掛らないだろう。では、黒く塗りつぶすとはいったい?
体の重さに慣れて起き上がると、寛は机のパソコンを起動させた
。それは卒論を書き上げるために提出期限まで日夜向き合ってきた
デスクトップだった。転部を繰り返したためにファイルに保管され
た資料や論文の量も膨大で、卒業したからといって消去する気には
ならなかった。いや、それどころか卒業した後もそのテーマが頭か
ら離れなかった。そこで、自分の考えを何とかして発表する方法は
ないかと思ってブログを立ち上げた。タイトルは「社会を捉えなお
す」。それは、生命科学者である清水博氏の著書「生命を捉えなお
す――生きている状態とは何か」(中央公論社 中公新書, 1978年)
に感銘してそれからパクッた。
以下は寛のブログ「社会を捉えなおす」から、全部は載せられな
いのでテーマである「社会を捉えなおす」だけを抜粋して載せます。
* * *
「社会を捉えなおす」
人間以外の生命体を観察していると、たとえ微小生物であっても
、それらは生存を存続させるためだけに命懸けで生きている。仮に
、彼らに「何のために生きているのか?」と問えば、もちろんそん
な迷い言を聞く耳など持たないが、きっと「生きるため」と答える
に違いない。つまり、生命体は死の恐怖に怯えながらも命を繋いで
子孫を残すこと以外に生きる目的など知らない。ただ理性を弄ぶ人
間だけが生きることだけでは飽き足らなくなって「意味」を求める
。「意味」は生存を目的から手段に転化させて、かつては乏しい知
識から神を「創造」したが、いまやサイエンス(知識)という手段を
手に入れて目的(=欲望)を満たす。もはや人間は生存するためにだ
け生きているのではない。欲望が満たされなければ、つまり幸福で
なければ生きる意味がない。生きる意味を欲望を満たすことに求め
た人間は、生きることから逃れるために科学技術を駆使して拠って
立つべき自然環境を凄まじい勢いで破壊して再生の連鎖を断ち切っ
てしまった。近代化のレシピは世界各国に伝えられてエネルギー資
源に依存した近代社会が世界中に生まれようとしている。グローバ
ル化した近代社会では電気のない生活は考えられないが、しかし、
空気や水が汚染された環境を何故か真剣に考えようともしない。間
もなく、近代人で溢れ返った世界は、資源の枯渇と環境の変化が限
界に達して、後戻りのできないわれわれは文明の終焉を迎えること
だろう。たとえば自動車会社は、それまで車など買えなかった人に
売って急成長したが、誰もが車を持つようになってしまうと新たな
需要は減る。もちろん買い換える人も居るだろうが当初ほどの需要
を生まれない。国内での販売が頭打ちになって成長が見込めなくな
ると勝ち残った企業は海外に市場を求めるが、やがて世界中の人々
が車を持つようになると再び売れなくなる。残念ながら今のところ
地球以外に人は存在しない。そこで買い換えたくなるようなハイブ
リッド車を開発して技術革新によって需要を生もうとするが、それ
とても石油がなければ走らない。このようにグローバリズムが行き
渡ると資源の膨大な消費による枯渇、環境汚染の拡大とともに地球
の資源を資本とする世界経済も成長の限界を迎える。つまり、グロ
ーバル経済は世界資本主義の限界に近付いたのだ。では、その後世
界はどうなるのか?資本主義経済は自由経済を前提とするが、自由
な経済活動が営まれるためには製品を産む原材料が無尽蔵になけれ
ばならない。たとえば、モータリゼーションをもたらしたのは技術
力に由るよりも無尽蔵に埋蔵する石油に依っている。さらに言えば、
排出ガスによる汚染が無視できるほど無尽蔵の大気がなければなら
ない。石油が枯渇すれば車社会はたちどころに立ち止まり、CO2
排出による地球温暖化問題はすでに国際会議の場で話し合われてい
る。自由主義経済はグローバル化によって資源の枯渇、環境の変化
、そして人口爆発をもたらし、やがて限界に達すると経済活動の自
由度が失われて行き詰る。すると世界経済は秩序を求めてエネルギ
ー資源の公平な配給に移行せざるを得なくなる。荒唐無稽だと思わ
れるかもしれないが、実は地球温暖化防止のためにCO2排出量の
削減目標を各国に割当てた京都議定書とは、もちろん自由な経済活
動までも規制していないが、しかし排出量の規制とは、即ち自由経
済の制限に他ならない。
グローバル経済は、行き詰った世界経済の市場を拡大するために
国境を取っ払って自由経済は拡がったが、一方で地球資本の限界も
見えてきた。グローバル企業は国家間の経済格差を利用して利ざや
を稼いできたが、すでに新興国では物価上昇に伴って労働コストが
上昇し利益が見込めなくなっている。いずれ途上国もそうなること
はまず間違いない。やがて国家間の賃金格差は平坦化し、もちろん
業種間の格差は残っても世界同一賃金に限りなく近付くのかもしれ
ない。新聞のインタビューでグローバル展開するアパレル企業のオ
ーナーが世界同一賃金に言及したのにはそれなりの確信があっての
ことに違いない。「世界同一賃金」、一体これは何を意味するのだ
ろうか?たとえば、日本とタイの自動車会社の従業員が団結して賃
上げ交渉に臨むことさえも起こり得るのかもしれない。まず経済の
グローバル化を求めたのは資本家だったが、次に世界の労働者が連
帯してグローバル経済の下で待遇改善を求めて運動すれば国際的な
労働者運動、つまり、インターナショナルな社会主義運動が起こる
。それは、かつてコミュニストたちが思い描いた世界同時革命では
ないか。もう私が何を言いたいのかお解りでしょう。つまり、やが
てグローバル経済は「世界限界論」に阻まれて行き場を失い自由主
義経済が制限され、再び、社会主義経済が見直されるだろう。
ただ、それは自由主義経済の限界による体制転換であってこれま
でのようなイデオロギー対立を生まない。もはや、自由主義か社会
主義かの選択は残されていない。そして対立のないところに革命や
闘争は生まれない。もちろん自由主義を棄てることなど出来ないと
思う人が殆どだろうが、やがて現実が転向させるに違いない。世界
経済は限られた地球資本を共有していくほか生きる道はないのだ。
そして、共有社会は武力闘争によって築くことなどできないので、
次第に北欧のような社会民主主義に近付くのではないか。自由は規
制の中でしか認められない。それは国際的な規制であって、たとえ
ば、京都議定書のようにどこかの国だけが批准しないというわけに
はいかなくなる。またそのような時代に、なお「近代国家」という
枠組みが存続していると考えるのは疑わしい。経済のグローバル化
が更に進めば政治や行政に対しても世界の干渉を受けるのは明らか
である。やがて、資源の枯渇、環境の悪化、人権問題などを理由に
国際的な規制が徐々に強まり、自由主義経済は規制に縛られて自由
を奪われる。たとえば、水産資源の漁獲規制を考えると解り易い。
反対したところで実際にクロマグロの生息数は激減しやがて獲れな
くなってしまう。唯一、残された道は養殖技術の開発しかない。つ
まり、自由主義経済の限界を回避する方法は技術革新しか残されて
いない。このように、地球温暖化をもたらす温室効果ガスの排出量
規制や天然資源に対する規制は、近代社会の継続を望む限り、その
限界点から遡って今現在をどうするべきかを考えなくてはならなく
なる。それは、これまで近代文明がひたすらフロンティアを拓いて
繁栄してきた流れとは正反対の流れである。グローバリズムの波が
世界の限界に突き当って跳ね返ってきた波だ。そして、近代文明が
世界の限界に近付けば近付くほどその波はさらに大きくなって、遂
にはわれわれを呑み込んでしまうだろう。
カール・マルクスは「資本論」の中でこう述べてます。
「資本主義社会の経済構造は、封建社会の経済構造から生まれた。
後者の解体が前者の要素を解放させたのである」と。つまり資本主
義社会とは、封建地主が資本家に取って代わられただけのことで、
搾取者が入れ代っただけで経済構造そのものが変わったわけではな
いと言うのだ。もちろん、封建主義を解体させ資本主義を解放させ
る契機をもたらしたのは科学技術だった。機械化によって労働経費
が減る一方で生産性が飛躍的に向上して剰余価値を生んだ。やがて
需要が減ると資本家は新しい市場を求めて海外進出した。こうして
資本主義経済は科学技術によって発展し、新しい市場を求めて拡大
膨張してきた。つまり、資本主義経済を支えているのは技術革新と
新しい市場である。しかし「世界限界論」の下ではそのような経済
構造そのものが成り立たなくなる。世界中が近代化してしまえばや
がて新しい市場は無くなるだろう。それよりも先ず資源の枯渇と環
境の悪化によってこれまでのような経済活動が出来なくなる。金魚
鉢の中の金魚は金魚鉢よりも大きくなることなど出来ない。すでに
我々は自ら排出した汚物によって生存が脅かされ始めている。
では、資本主義社会の経済構造の解体から如何なる要素が解放さ
れるのだろうか?その解体の契機をもたらすのは「世界限界論」だ
が、ただ明解な線引きが難しい。経済が停滞すればそこに成長の余
白が新たに生まれるからだ。こうして近代社会は経済成長を求めて
逆流に押し戻されながら戻りつ行きつを繰り返すことだろう。つま
り「『資本主義』の終わり」の始まりである。たとえば中国やイン
ドのような超大国が日本のような近代社会にまで発展するにはとて
も地球資本だけで賄いきれない。余りにも金魚鉢(globe)は小さす
ぎる。しかし、近代化に洗脳された人々に欲望を諦めるように説得
するのは不可能であるし、国民の誰もが今よりももっと豊かになり
得ると信じている社会で、格差社会を是正しようという議論は生ま
れない。何故なら、格差の是正とは既得権益を得ている富裕層から
富を奪うこと以外に方法がないからだ。「上を下げずに下を上げる
」などと馬鹿なことを言う評論家が居たが、金魚鉢は大きくならな
いのにそんなことが出来るはずがない。そんなことができるならそ
もそも格差問題など生まれない。やがて富裕層と貧困層の格差が更
に拡大し国内紛争が頻発するようになる。すると国家は、国内問題
の解決を国外に求め、領土、資源、環境を巡って近隣国との間に摩
擦が起こる。こうして世界各地で格差問題に端を発した紛争が頻発
するようになるだろう。70億の近代人の膨れ上がった欲望を地球
資本は充たすことなど出来ないので、個人であれ国家であれ既存の
富を奪い合うしかない。
資本主義社会の経済構造の解体から新しい時代に引き継がれる要
素を考えてみようと記しながら、話が逸れてしまいましたが、とい
うのも、どうしてもすんなりと時代転換されるとは思えなくて、た
とえば原発の是非についてさえも国民の意見が真っ二つに分かれて
認識を共有できないのに、社会民主主義に体制転換されるなどと言
えばどれほど反発されるかは想像に難くない。しかし、「世界限界
論」に立って現在を振り返ればそれらがどれほど子供じみた対立で
あるかが見えてくる。一つしかないリンゴをみんなで奪い合うより
も、人数分に切ってそれぞれが分かち合うことが限界を避けようと
する分別のある大人のやり方ではないか。そうであるなら、仮に温
室効果ガスの排出量規制のように、やがてエネルギー資源の消費量
も規制され、ガソリンが配給制になったとしても、「世界の終わり
」よりも「資本主義の終わり」を甘んじて受け入れることが、生存
を存続させて命を繋いでいく宿命を担った生命体の分別のある選択
ではないだろうか。われわれの理性という鏡はいつも本質を逆さに
映す。生命体は、欲望を充たすために生きているのではない、生き
るために欲望を充たすのだ。たとえば、われわれが不可逆的な感情
をのちに「愛」と表現すれば、理性は「愛」と叫べば失われた感情
が甦ると思っている。しかし、鏡の中の世界は虚像なのだ。
人間が近代科学によって地球全体を把握することが出来るように
なったことはスゴイことだ。それまでは謎だらけだった世界に少な
くとも脅威を感じる怪物などは存在しないことが判った。つまり人
間が一番凶暴だった。その人間が「世界限界論」に追い詰められて
残されたリンゴを巡って愚かな争いを繰り返す時代、尖閣諸島や竹
島を巡る対立はすでに「世界限界論」に撥ね返された逆流によって
時代が後戻りし始めているのかもしれない、そんな忌わしい時代を
繰り返さずに世界を共有することが出来るのだろうか?たとえば、
欧州連合(EU)の試みは注目に値する。構想は戦争の最中に生まれ
た。二度と戦争を起こさないためには国家という枠組みを取っ払う
しかないと考えた。民族や文化を超えて統合を可能にした根底には
、キリスト教文化という共通の精神風土があったにしろ、統合が武
力に依らずに民主的な話し合いで成し遂げられたことだ。それは戦
争を回避するための賢い方法ではないか。グローバル経済によって
「世界限界論」に行き着いた自由主義経済は成長を阻まれて衰退し
、やがて資本主義社会の経済構造が解体され、つまり、資本主義国
家が解体され、グローバル経済によって育まれたグローバリズムの
理念が解放される。
今の日本でこんなことを言ってもたぶん誰も耳を傾けてはくれな
いだろうが、しかし、かつてはわが国も欧米資本主義国家の進出に
対抗するために、「アジアは一つ」を掲げて「大東亜共栄圏」を構
想して、武力を背景に近隣諸国に併合を迫った経緯があったのだ。
もちろん、そのような支配による統合が上手くいくはずはなかった
が、つまり、如何に高邁な目的を掲げてもその手段が理念と背理し
ていれば目的そのものが疑われる。われわれは、時として理念を見
失い掲げた名目だけを追い求める。しかし、そもそも目標やノルマ
は理念に基づいて目的化されたのであって、敢えて言えば手段こそ
が重要なのだ。武力や権力を手段にしてアジアが一つになったとし
ても決して「共栄圏」は築けない。民族や文化を超えて「アジアは
一つ」を実現するためには理念が共有されなければならないが、ア
ジアには国家主義を超越した共通の理念と呼べるものがない。そん
なものは願い下げだと言うかもしれないが、猫の目のように変わる
対韓感情を覚えているだろうか。そんなムードというのはすぐに一
変してしまうだろう。われわれは「ハリネズミの友情」のように、
友情を温めようとして近付けば近付くほど相手の針が体に突き刺さ
って憎しみに変わる。こうしてアジアは精々経済関係だけでしか繋
がることしか出来ないのだ。しかし「世界限界論」はエネルギー資
源の枯渇による高騰、それよりも多分温室効果ガスの規制強化によ
る負担が重く圧し掛かり、さらに途上国の経済成長によって国家間
格差が埋まり差益が見込めなくなりそう遠くない将来にグローバル
経済は行き詰るだろう。そして、グローバル経済に頼っていたわが
国が何時までも経済大国で居られる保証はない。やがて食うに困っ
ても、近隣諸国は奇跡的な復興の後に呆気なく衰退していく隣国を
黙って見守っているだけだろう。
私は、何も今の近隣諸国の政治体制をそのまま受け入れてAU(
アジア連合)が生まれるとは思っていない。少なくとも民主社会主
共栄圏でなければならないとすれば、まずそれらの国々が民主主義
の根幹である国民主権を認め、公正な選挙によって国民の意志を代
表する指導者が選ばれる民主主義国家でなければならない。つまり
、AUが共有すべき理念は民主主義でなければならない。そもそも
彼の共産主義国家は共産党特権階級による独裁国家であって、本来
のコミュニズム(共有主義)とはまったくかけ離れた政治体制である
。政治的自由を奪われた人民は、膨張する経済の中で辛うじて幸運
が訪れる夢を見ることも出来るかもしれないが、経済成長が停滞す
ればたちまち矛盾が噴き出して、現政権は旧ソ連のように呆気なく
崩壊するだろう。それは歴史の必然である。ひとたび檻の扉を開か
れて自由の空気を吸った人間が、ふたたび元の檻に戻って来て自ら
扉を閉めようとは思わない。それは、たぶんそんなに遠い話ではな
いと思う。 (つづく)