「明けない夜」
(7)―⑤
「社会を捉えなおす」―⑤
「世界限界論」を認識するということは取りも直さず近代科学文明
の限界を認めることであり、それは大きな時代転換の波を予感せず
にはいられない。これまでにも歴史上には幾度も大きな転換期があ
ったが、古い社会が立ち行かなくなり新しい社会をする模索する時
には決まって紛争が起こった。ただ、古代や中世ではその社会規模
から限定的な地域紛争で済んだが、近代に入ってからは科学技術の
発展によってグローバル化が進み対立は世界規模で起こるようにな
った。たとえば、集団的自衛権というのは自国には直接の利害が及
ばないにしても同盟国の国益を守るために軍事援助する権利であり
、過去にはその行使によって二国間対立が連鎖的に拡大して遂には
世界大戦に至ったことを忘れてはならない。わたしは、新しい時代
を展望する前にどうしても争いなく時代転換が起こるとは思えない
ので、本旨からは逸れますがそのことについて少し行を重ねます。
と言うのも、今を生きる我々にとって、新しい時代が破壊なしには
始まらないとすれば、当然「次の」戦争のほうがより大きな関心事
であることは言を俟たないからです。
さて、パイの大きさが決まっていて分け前に与ろうとする者が増
えれば当然それぞれの分配は減るでしょう。これまで先進国が独占
していた世界市場に全世界の4割を超える人口を抱える新興諸国(
BRICs)が参入してくれば自ずから先進国の分け前は減ります
。新興国は安価な労働コストによって市場参入しますが、しかし決
して新しいパイを持参したりはしません。それでも市場競争に苦し
む生産者は利潤をもたらす生産コストを求めて競って名刺を交わし
ます。ところで「世界限界論」を前提にすれば今後パイの大きさ、
つまり環境規模やエネルギー資源は増えません、限界なのですから
。そうなると、いずれパイの分配を巡って世界中で、或いはそれぞ
れの国内で奪い合いが始まります。敢えて国内問題を取り上げたの
には理由があります。それは国内のインバランスから生じた国民の
不満こそが対外政策に反映されると、少なくともわたしは思ってい
るからです。隣国に向けられた批判の目は格差社会に対する不満に
向けられた目がすこし逸れただけのことではないだろうか。
かつて近代化を推し進めようとした日本帝国は、対立するロシア
との戦争に勝利して欧米列強に肩を並べるまで近代化を成し遂げた
と自負したが、実際は国内経済は疲弊していて戦争の継続は不可能
な状態で、つまり長期化すれば負けてしまうので、アメリカに仲介
を求めて、ロシア側の戦争賠償金の支払いには一切応じないという
条件を呑まされてポーツマス講和条約は締結された。しかし、格差
社会の底辺で耐え忍んできた国民は納得せず、政府を非難する弾劾
集会が暴動へと拡がって(日比谷焼打事件)、遂には戒厳令まで敷か
れた。作家の司馬遼太郎は著書「昭和という国家」(NHK出版)の
中で、「この群衆こそが日本を誤まらせたのではないか」と言って
ます。そして、「人民が集まって気勢をあげるということが正しい
場合もありますが、日比谷公園に集まった群衆は、やはり日本の近
代を大きく曲げていくスタートになったと思います。」さらに、「
もしそのときに勇気のあるジャーナリズムがあって、日露戦争の実
態を語っていればと思います。」「しかし、そういうジャーナリズ
ムはなかった。」では、今は「そういうジャーナリズム」は健在だ
ろうか?時代がひと回りして今や遅ればせながら近代化を推し進め
ている帝国主義国家中国は、かつての大日本帝国と同様に様々な国
内矛盾を抱えながら経済成長を推し進めることで辛うじて矛盾を封
じ込めているが、いずれパイの分け前に与らなかった人民の内なる
不満を外で晴らそうとしないとも限らない。こうして二国間の対立
はそれぞれの国内情勢が大きな要因となって破壊的な行動さえも正
当化され、やがてその矛先は目の前の対立国に向けられる。しかし、
何より肝心なことは、依然として中国経経済は表向きは成長を維持
していて、もしも彼国がかつての大日本帝国と同じように内を治める
ために外を叩くとすれば、経済の停滞から人民の不満が高まる、むし
ろこれからなのだ。
(つづく)