「間違って生まれてきた僕」(3)

2018-03-14 23:15:37 | 間違って生れてきた僕

         「間違って生まれてきた僕」

 

              (3)

 先生は三島由紀夫って読まれたことがあります?あっ!失礼しまし

た、先生は国語の教師でしたよね。その三島由紀夫の小説に「午後の

曳航」というのがありますが、その中で主人公の少年とその仲間たち

が猫を殺して解剖をする件が描かれています。告白すると、じつは僕

もかつて猫を解剖したことがあります。とは言っても彼らのように生

きている猫を投げつけて殺したりはしませんでしたが、たまたま家で

飼っていた猫が死んでしまったので、ただその死に方がじつにおかし

な死に方で、たぶん外で自動車とぶつかったのだと思うのですが、そ

れでも野垂れ死にするわけにはいかないと思ったのか、家まで全力で

帰ってきて、彼女のために昼間は何時も開け放してあった勝手口の引

き戸の中に入った途端に倒れ込んで死にました。母がいつまで経って

も動く気配がないので見に行くと冷たくなって横たわっていた。彼女

はまるでわが家で死ぬために最後の気力をふりしぼって帰ってきたと

しか思えません。もしかすると猫だけではなくすべての生きものは自

分の死に場所というのを弁えているのかもしれません。外傷もなく一

切血を流さずに安らかな死に顔でした。母が保健所に連絡をして引き

取りに来るまでの間に、僕は物置小屋に置かれたダンボール箱の中の

ゴミ袋に入った死体を取り出して、カッターナイフで恐る恐る腹部を

裂きました。三島由紀夫は少年たちにその内臓を「美しい」と言わせ

てますが、僕は何度も「美しい」と自分に言い聞かせましたが、可愛

がっていた猫だっただけに罪悪感が先行してとてもそんな客観的な目

で観ることができませんでした。では、なぜそんなことをしたのかと

言うと、動物の仕組みに関心があったからです。子供たちが時計やラ

ジオを分解してその仕組みを分かろうとするように、単純に興味本位

からでした。ただ、機械なら分解すればおおよその仕組みは理解でき

ますが、なぜ動物は自ら動くことができるのか知りたかったからです

。つまり、生命体の運動を生み出す根源はそもそも物理現象なのか、

しかしそれだけなら自ら運動して増殖し進化する生命現象は生まれま

せん。つまり、生命体からすべての物理現象を取り除いた後には一体

何が残るのだろうか?たとえば、そこに目には見えないけれども霊魂

のようなものが残ってもまったくかまわなかった。いや、そういった

ものがあるのだと信じていた。つまり「生命とは何か?」が知りたかった

のです。


「間違って生まれてきた君へ」(四)

2018-03-14 23:10:20 | 間違って生れてきた僕

         「間違って生まれてきた君へ」

 

              (四)

 君が三島由紀夫を読んでいたなんてちょっと驚きました。「自由と

民主主義」を信奉する君が「天皇は国体である」と言う三島由紀夫に

共感するとはとても思えないからです。実は、私は卒論で三島由紀夫

を選びました。もっとも一口に三島文学といっても彼は多才で、多岐

に渡って筆跡を残しているので、主に初期の作品しか取り上げること

ができませんでしたが、ここで三島由紀夫論を述べるつもりはありま

せんが、ただ、昨今の右派思想の凡そは晩年の三島イズムに依拠して

いると言っても過言ではないでしょう。思想はまず生まれ育った環境

に洗礼されるとすれば、三島由紀夫はその典型だったと言えるのでは

ないか。由緒ある家系に生まれ祖母によって特異な育てられ方をして

、それが三島文学を萌芽させたのですが、戦時体制下に多感な時期を

過ごし、そして「2・26」事件を間近で体験したことは後の政治色

を強めていったことと無縁ではありません。さらに、成年に達すると

戦火の拡大によって自らの死を決意したが、ところが敗戦によって体

制転換が起こると死を免れた生は弛緩して目的を失った。伝統文化に

根差した三島文学にとって戦後大衆文化を認めることは転向そのもの

だった。そして高度経済成長に浮かれる社会を尻目に、生き甲斐とい

うよりも死に甲斐を求めて彷徨った。それはたぶん太宰治にしても同

じだったに違いない。方や大義を求めて、方や情人を求めて。つまり

、彼らもまた君と同じように「間違って生まれてきた」と思っていた

のではないでしょうか。そして、おそらく全ての生き物もまた自分は

いったい何のために生れ堕ちてきたのか分からずに生きているのです。

 社会に関心のない君にはまったく興味がないかもしれませんが、退

屈なら読まなくたってかまいません。もちろん君も知っているとは思

いますが、三島由紀夫は自ら主宰した民兵組織「盾の会」の同志と共

に、まるで幼き日に憧憬した「2・26事件」の皇道派青年将校さな

がらに、自衛隊市ヶ谷駐屯地にて憲法改正のための決起を呼び掛けた

が叶わず割腹自殺して果てました。そもそも三島イズムとは、彼が象

徴的に語る「菊と刀」、つまり菊とは日本文化のことでその中心は天

皇ですが、そして刀とはそれを守るための軍隊のことです。彼は、日

本文化を守るために憲法を改正して国軍を備えろと主張しています。

私の感想は一言でいってしまえば、伝統文化を崇敬する作家の「死に

甲斐」を大義に求めた夢想だとしか思えません。とは言っても、始め

のうちはその名文に引き込まれて思わず共感しそうになったことも否

めませんが、しかし、それはたとえ戦勝国から圧し付けられたにせよ

民主主義の否定であり、多くの国民が犠牲になった忌わしい戦争をま

ったく省みない、それどころか自己の虚無を埋めるために大義を求め

国家のために死ぬことを美化した伝統文化に囚われた一文化人の「文

化防衛論」でしかないと思い改めました。そもそも国は文化だけで成

り立っているのだろうか?確かに戦後の大衆文化は軽佻浮薄であるか

もしれないが、しかし一方では先進国と肩を並べるほどの経済成長を

果たしたではないか。つまり国民は鹿爪らしいし伝統文化よりも軽薄

な繁栄こそを望んだのだ。百歩譲って「だって平和憲法のままじゃヤ

バくない」と言うなら民主主義の下でも改憲の手段がないわけではな

いし、事実そういう流れは加速している。ただ、何よりも「菊と刀」

、そこには国民は不在なのだ、つまり天皇と軍隊を切り離さなければ

「国体は天皇である」と言う限り、権力者によって再び国体護持の決

定が天皇の名の下に行なわれるのは火を見るより明らかだ。何よりも

三島イズムはナチスやイスラエル、今ではイスラム国のような民族主

義的原理主義とまったく変わらないではないか。そして、今や三島イ

ズムに洗脳された得体のしれない文化人がやたらと政治的な影響を

及ぼしているが、政治は宗教や文化の使徒ではない。つまり国体とは

、日本文化を子孫へと継承する日本国民そのものであって、決して天

皇ではない。私は、自らの命を賭してまで国民のためではなく原理主

義へ回帰するために戦おうとは思わない。天皇を選ぶか民主主義を

選ぶかと問われれば、紛うことなく民主主義を選ぶ。三島由紀夫は天

皇を根源とする日本の伝統文化と、それぞれの自由に判断を委ねる

民主主義制度が相反することは当然分かっていた。ところが、いまの

政治家は平気で天皇制と民主主義を掲げる。たとえば、古都京都の

家並みの揃った景観は日本の伝統的な美観の一つだったが、規制

されずにそれぞれの判断に委ねられた結果、家並みにそぐわないビ

ルが至る所に乱立して今ではすっかり美観はそこなわれてしまった。

つまり、日本文化を守るためには自由と民主主義は認められない。

そしてまずその矛先は政治的に対立する共産主義、とりわけ日教組

のある教育界に向けられようとしている。私はどこの団体にも所属

していないが、左に傾けかけた船が今度は急速に右へと傾きはじめ

ていることに不安を覚える。教育現場はファナティックな政治イデオ

ロギーの草刈り場になってしまい、平等主義と競争主義が競い合って

いる。民主主義の弱点は全体主義の揺さ振りにかくも無力であるとい

うことだ。しかし、日本文化への回帰を訴える三島イズムも、また共

産主義も、どちらも自由と民主主義を否定する全体主義なのだ。

 なんだか君を励ますためのメールが自分の職場の愚痴を聞いてもら

うことになってしまったが、正直言うと君のような優秀な生徒を不登

校にさせてしまったことは、担任を受持つ私にすれば実は学校でも肩

身の狭い思いをしているんだ。君はイジメられりしたことはなかった

と言いましたが、もしよかったらもう一度登校するつもりはないのだ

ろうか?